風邪
ヴィクトリアは、ぼんやりとした意識のままベッドの背もたれに身体を預けていた。
微熱によるものなのか頭は重く、身体にもあまり力が入らない。けれど、数日前のまともに起き上がることすらできなかった頃に比べれば、幾分かましにはなっていた。
ベッドの傍らの椅子に腰掛けたダニエルが、
手元の器から立ち上る湯気とともに、スプーンでひと匙を掬う。病人でも食べやすいように作られたそれは、穀物を柔らかく煮込んだものらしく、淡い湯気とともに、優しい香りが漂ってくる。
ダニエルはそのまま自然な動作でヴィクトリアの口元へ差し出した。
「はい、あーん」
まるで幼い子どもに対するような優しい声音でダニエルはヴィクトリアの口を開くよう促す。
見事に風邪を拗らせ、ベッドの上からほとんど動けずにいるヴィクトリアは、ここ数日の子ども扱いに少しだけ不満を抱えながらも、差し出されたスプーンを素直に口へ含んでいく。温かな味がゆっくりと喉を通っていくが、風邪のせいで普段なら感じるはずの味わいはぼんやりとしていた。だが、これでも随分良くなった方で、最初の頃はもっと酷く、熱にうなされ、呼吸をするたびに喉が焼けるように痛み、身体を起こすことすらできなかった。
なにせ呪いを受けてからは寝込むほど体調を崩したことなどなく、風邪を引くのは実に三百年ぶりだったのだ。
「早く良くなってね」
ダニエルは心底心配そうにそう言いながらも、手だけは止めることなく次のひと匙を準備している。
「ええ、本当に…」
ヴィクトリアは微熱により少し赤くなった頬のまま、小さく相槌を打つ。
気づけば仮面舞踏会へ参加した最初の日から、すでに数日が経っていた。本来なら、一日でも早く王城へ向かいたい。レオンハルトのことも、呪いのことも、まだ何ひとつ解決していないのだ。だが、熱の下がらない今の身体では、満足に歩くことすら難しかった。
そして奇妙なことに、カラスの姿へ変わると、症状がほとんど消え、身体は軽くなり、熱も倦怠感も、最初から存在しなかったかのように消えてしまうのだ。けれど時間が来て、人の姿へ戻ると同時に再び風邪がぶり返し、元気だった反動なのか、余計に身体が重く感じるようになる。お風呂に入らずとも身体は綺麗になるのに、どうやら体調だけは戻らないことは、ヴィクトリアにとっては三百年経った今になり、ようやく知り得た発見だった。
これをずっと繰り返しているせいか、ヴィクトリアはなかなか風邪が治らず、密かに、この奇妙な状態が風邪の治りを悪くしているのではないかと疑っていた。
カラスの姿の時は、呪いの進行を抑えるためにひたすら眠り、人へ戻れば今度は風邪を治すために眠る。結果として、ヴィクトリアはここ数日、ほとんどずっとベッドの上で生活を余儀なくしており、半ば諦めるように、ダニエルの看病を甘んじて受け入れていた。
「そういえば、みんなにはどう説明しているの?」
ふと、ヴィクトリアは視線をダニエルへ向けた。その問いに、ダニエルは一瞬だけ目を瞬かせる。
ヴィクトリアには以前から疑問だったことがある。風邪を引いてからというもの、ヴェルターを筆頭にほかの使用人たちはこの部屋へ入ってこない。薬も食事も、着替えの準備ですら、すべてダニエルが運んできているのだ。本来なら、こうした世話は使用人たちの役目のはずだ。
それにダニエルだって、やるべき仕事はいくらでもあるはずなのに、彼はほとんどの時間をヴィクトリアの看病へ費やしていた。最初の頃は熱にうなされ、それを考える余裕すらなかったが、少しずつ頭が回るようになってきた今、ようやくそこへ疑問を抱く余裕が生まれてきたのだった。
「えっ!?いや、えーっと…、普通に僕がヴィクトリアの面倒を見るからって言ったよ…?」
ダニエルは明らかに視線を泳がせながら答える。その歯切れの悪さに、ヴィクトリアはじとりとした目を向けた。
「でも朝から夜までずっとっておかしいって思われないかしら?」
少し掠れた声ながらも、ヴィクトリアはさらに追求していく。
「ただでさえ、未婚の男女なのに…」
ヴィクトリアとしては、カラスの姿を見せるわけにはいかない以上、ダニエルがこうして看病を引き受けてくれていること自体には助けられている。
だが、それとこれとは別問題だった。
いくらなんでも、ダニエルが面倒を見ると言って周りは納得するものだろうか。
そして今になって思い返せば、引っかかる点は他にもあった。
タウンハウスへ来た翌日のこと。
あの日、ダニエルは仮面舞踏会へ向かう際、ヴェルターたちへ「ミーナは眠っているから起こさないで」と伝えていた。外套の中から聞いていたからよく覚えている。
だが本来なら、客人が朝からずっと眠っているのなら、使用人の誰かが様子を見に来るはずだ。ましてや、ヴィクトリアは前日に寝落ちしてドレスなどがそのままベッドに広げられていたのだ。
もし午前中に誰かが部屋へ入っていれば、ベッドの上に本来いるはずの人がおらず、代わりにカラスが寝ていることなど、すぐ分かってしまっていたはずなのに。
しかし、そんな事態にはならなかった。
つまりダニエルは、事前に「部屋へ入るな」あるいは「起こす必要はない」と、かなり強めに伝えていたことになる。そうでなければ、使用人たちが客人を夕方近くまで放置することなどあり得ない。
考えれば考えるほど不自然だった。
ヴィクトリアはますます疑わしそうな目でダニエルを見つめる。
対するダニエルはというと、あからさまに居心地悪そうに目を逸らしていた。
「…えーっと、、その……」
ヴィクトリアは半眼のままじっとダニエルを見つめた。
「ダニエル?」
「……………………ったんだ」
「え、今なんて?」
ダニエルの言葉が聞き取れず、ヴィクトリアは聞き返す。
「〜〜〜〜っ!!」
ヴィクトリアが聞き返した瞬間、ダニエルは勢いよく顔を覆い、耳まで赤くしていた。
「……悪気はなかったんだ」
そして、消え入りそうな声で呟きながら、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回す。
「……………」
その様子を、ヴィクトリアは無言で見つめていた。沈黙に耐えられず、やがてダニエルは観念したように肩を落とすと、少し前の出来事を語り始めた。




