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屋烏の愛  作者: 又一
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予兆

ダニエルが待つ食堂へと足を運ぶと、重厚な扉の向こうに広がっていたのは、落ち着いた明かりに照らされた空間だった。十人ほどがゆったりと座れる長いテーブルが中央に据えられ、整然と並べられた椅子の中、上座にはすでにダニエルが腰掛けていた。ダニエルの前には、彩り豊かな料理が美しく並べられており、温かな湯気を立てる皿、艶やかなソースがかけられた肉料理、繊細に盛り付けられた前菜、そのどれもが丁寧に仕上げられているのが一目で分かる。そしてその向かい側には、同じように整えられた席が用意されており、おそらくそこがヴィクトリアの席なのだろう。ヴィクトリアが食堂へと足を踏み入れると、ダニエルはすぐに顔を上げた。


「ミーナ!気分はどうかな?」


ダニエルのその声音は明るく、表情もまた自然な笑顔だった。まるで今日、初めてちゃんと顔を合わせて会話するかのような振る舞いだ。つい先ほどまで馬車に乗り同じ空間にいたはずだというのに。


(本当に器用ね)


内心でそう思いながら、ヴィクトリアはくすりと小さく笑みを零す。


「問題ないわ」


本当のところは、身体を動かすたびに節々が軋むように痛んでいる。それでも、その不調を口にするつもりはなく、これ以上ダニエルに心配をかけたくないという思いが、自然とヴィクトリアの口を閉ざさせる。


そのやり取りを、少し離れた場所で控えていた年配の女性使用人たちが、どこか楽しげに見つめていた。控えめではあるが、隠しきれない期待と微笑ましさがその表情に浮かんでいる。ダニエルの側に控えるヴェルターもまた、穏やかな目で二人の様子を見守っていた。


(…仲がいいとでも思っているのかしら?)


ヴィクトリアはわずかに違和感を覚えるが、視線の意味を測りかねながらも、深く考えるのはやめ、あまり気にしないようにしようと用意されている席へとつく。


「それじゃあいただこうか!」


ダニエルの軽やかな声を合図に、二人は食事を始めた。ほどなくして料理長が姿を現し、一皿ごとに丁寧な説明を加えていく。使用されている食材や調理法、味付けの意図まで、落ち着いた口調で語られるそれは、料理そのものへの期待をさらに高めた。普段なかなか口にすることのない豪華な料理の数々に、ヴィクトリアの気分は自然と上向いていく。一口運べば、丁寧に仕上げられた味わいが口いっぱいに広がった。


「美味しいわ」


ヴィクトリアの思わず零れた言葉に、ダニエルも嬉しそうに頷く。


「本当だね!料理長もきっと喜ぶよ」


そんな他愛もないやり取りを交わしながら、食事の時間は穏やかに流れていった。先ほどまでの馬車の中での重たい空気が嘘のように、食堂にはやわらかな雰囲気が満ちている。


やがて食事がひと段落し、ダニエルが席を立つ。そのままテーブルを回り、ヴィクトリアの傍へと歩み寄る。


「部屋まで送るよ」


自然な仕草で差し出された手をヴィクトリアは一瞬だけ見つめ、それから小さく頷いて、自分の手を重ねた。


そのまま立ち上がろうとした—その瞬間。


「っ……!」


腰に鋭い痛みが走り身体が前へと傾き、ヴィクトリアの視界がぐらりと揺れる。倒れ込むと思った瞬間、ダニエルの腕にしっかりと支えられた。


「ミーナ、大丈夫…!?」


ダニエルの声がすぐ近くで響き、その顔には隠しきれない驚きと焦りが浮かんでいた。


「え、ええ…。ごめんなさい、急に立ち上がったせいで、少し痛んだみたい」


ヴィクトリアはダニエルに支えられながら、もう片方の手でそっと腰を押さえる。なんとか体勢を立て直しながら、無理にでも平静を装う。


「大丈夫ですか、ミーナ様!」


ヴェルターがすぐさま駆け寄り、その後ろから他の使用人たちも心配そうな表情で近づいてくる。


「ええ、心配かけてしまってごめんなさい。もう大丈夫よ」


ヴィクトリアはそう言って、小さく微笑んでみせる。本当は、腰に残る鈍い痛みがまだ消えたわけではない。少し動くだけでも違和感が走り、気を抜けば顔をしかめてしまいそうになるが、それでもこれ以上周囲を不安にさせたくなくて、ヴィクトリアは必死に平静を装った。その落ち着いた態度に、張り詰めていた空気は徐々に和らいでいく。


「どうかご無理はなさらないでくださいませ」


ヴェルターが案じるように眉を下げながら言うと、ヴィクトリアは「ありがとう」と穏やかに頷いた。周囲の使用人たちも、ようやく安心したように胸を撫で下ろす。先ほどまで浮かんでいた緊張や焦りが、少しずつ解けていくのが分かった。その様子を確認してから、ダニエルはヴィクトリアの身体を支える手にそっと力を込める。


「ゆっくり行こうか」


ダニエルのどこか気遣うような低い声に、ヴィクトリアは頷き、そのまま支えられながら食堂を後にした。


食堂から抜けた廊下を二人並んで歩いていく。

歩幅を合わせるように、ダニエルは自然と歩く速度を落としていた。ヴィクトリアが少しでも体勢を崩せば、すぐ支えられるよう注意を向けているのが伝わってくる。


その後ろ姿を、食堂に残った年配の女性使用人たちは見送っていた。つい先ほどまでは、本気でヴィクトリアの体調を案じていたが、ひそひそと小声を交わしながら、どこか浮き足立った様子で二人を見つめている。その姿は、まるで恋物語を覗き見している年頃の少女たちのようだった。ヴェルターはそんな彼女たちを横目で見やり、小さく苦笑を漏らすが、結局何も言わず、どこか微笑ましいものを見るような眼差しで主人たちの背中を見送った。


そんな周囲の視線に気づくことなく、ヴィクトリアはゆっくりと廊下を進んでいた。時折腰に痛みが走るたび、無意識に息が浅くなる。だが、そのたびにダニエルの支える手がほんの少しだけ力を増すため、不思議と歩けなくなるほどではなかった。


やがて二人はヴィクトリアの部屋の前へと辿り着き、ダニエルは扉の前で足を止めると、ようやくそっと手を離した。


「無理せず早めに休んでね」


ダニエルはヴィクトリアを見つめるが、その声音には、まだ拭いきれない心配が滲んでいた。


ヴィクトリアが普段から朝まで起きていることをダニエルは知っている。朝になれば、ヴィクトリアは再びカラスの姿へと変わってしまう。だからこそヴィクトリアは、夜という限られた時間を、まるで惜しむように過ごしていた。本を読んだり、気まぐれに針を手に取り、繕い物を始めることもある。そうして、人として過ごせる時間を少しでも長く味わうように、ヴィクトリアは夜を過ごしていた。ダニエルはそんなヴィクトリアの姿を知っているからこそ、きっと今日も朝まで起きているのだろうと分かっている。それでも、食堂で見せたあの痛みに耐えるような表情を思い出すと、何も言わずにはいられなかった。


ヴィクトリアはそんなダニエルを見上げ、小さく笑みを浮かべた。


「ええ。ダニエルもね」


短いやり取りだったが、ダニエルはどこか安心したように表情を和らげると、軽く手を振る。


「それじゃあ、また明日ね」


「ええ、また明日」


返された穏やかな声を聞き届けてから、ダニエルは自室へと向かって歩き出した。


ヴィクトリアは静寂に包まれた自室へと足を踏み入れると、そのまま真っ直ぐに風呂場へ向かった。昨夜は、あまりの疲労感に抗えず、そのまま眠ってしまったため、本来なら人の姿に戻ったら必ず済ませている入浴も、着替えすらしないまま、意識が途切れるように眠りへ落ちていた。もちろん、風呂に入らなかったとしても問題はない。朝になり、カラスの姿へと変わってしまえば、不思議なことに身体は綺麗にリセットされる。まるで最初から存在しなかったかのように消えてしまうのだ。


けれどそれに慣れてしまうのは、どこか怖く、人としての感覚が、少しずつ薄れていくような気がしてしまう。だからこそヴィクトリアは、できる限り人としての生活を手放さないようにしていた。遠い昔、ハイム男爵から掛けられた言葉が、今でも胸のどこかに残っている。


『呪いを受ける前の習慣を失うのはよくない』


その言葉を思い出しながら、ヴィクトリアは小さく息を吐いた。


「今日はちゃんと入らないと…」


風呂場の扉を開けると、ふわりと温かな湯気が流れ出てきた。覗き込めば、すでに湯船には湯が張られており、淡い明かりに照らされた水面が、ゆらゆらと揺れていた。どうやら食事をしている間に、使用人の誰かが準備してくれていたらしい。その手際の良さに、ヴィクトリアは少し驚いたように目を瞬かせる。


けれど同時に、薄々察してもいた。


(…たぶん、ダニエルね)


きっとダニエルが気を回して、使用人へ指示を出してくれていたのだろう。ヴィクトリアは小さく微笑むと、ありがたく使わせてもらうことにした。


「お風呂に入れば、この身体の痛みも少しは和らぐかしら…?」


誰に聞かせるでもない独り言を零しながら、ヴィクトリアは腰を軽く摩る。するとすぐに、筋肉の奥に残っていた鈍い痛みがじわりと広がった。思っていた以上に身体への負担がかかっていたのだろう。ヴィクトリアはイブニングドレスを脱ぎ、ゆっくりと湯へ足を浸した。じんわりと広がる熱に、思わず小さな息が漏れる。


「はぁ……あたたかい」


張り詰めていた身体が、少しずつ解けていくようだった。肩まで湯に沈めれば、冷えていた指先まで熱が巡っていく。湯気に包まれながら、ヴィクトリアはそっと目を閉じた。


考えなくてはいけないことは山ほどある。

けれど、そのどれもがまともに形にならないまま、頭の中をすり抜けていく。


レオンハルトは、なぜアーデルハルトと名乗ったのか。あの時の声音や表情を思い返そうとしても、湯気に溶けるように輪郭が曖昧になっていく。クラウスから言われた宿題のこともそうだ。答えを出さなければならないはずなのに、今はそれを考える余裕すらない。そして何より、明日からどうやって王城へ入ればいいのか、昨日は偶然が重なったから入れた。けれど今日は門前で止められて入ることを許されなかった。もし、このまま二度と入れなかったら。せっかく仲良くなったエルザとも会えないまま、呪いについて何も分からないまま終わってしまう。そんな不安ばかりが、次から次へと頭の中に浮かんでは消えていく。ひとつ考え始めれば、別の不安が顔を出し、答えの見えない思考に飲み込まれそうになり、ヴィクトリアは無意識のうちに思考そのものを放棄していた。


湯気の立ち込める浴室の中、ぼんやりと水面を眺めているうちに、刻一刻と時間が経っていく。ヴィクトリアの身体は芯まで温まっていくが、その代わり頭が少しぼうっとし始めていた。


「…いけない」


のぼせる前にと、ヴィクトリアはゆっくり湯船から上がる。その後は手早く身体を洗い、濡れた髪を軽く拭きながら浴室を後にした。


ヴィクトリアは濡れた髪をタオルで拭きながら本棚へと歩み寄った。並べられた背表紙へ視線を滑らせ、その中からなんとなく一冊の本を引き抜く。手に取ったのは、読んだことのない小説だった。軽い冒険譚らしく、深く考えずとも気楽に読めそうな内容である。そのままヴィクトリアは部屋の奥にあるガラス戸へと向かい、扉を少しだけ開ける。隙間からひんやりとした夜風が流れ込み、湯上がりで火照った身体を優しく撫でていく。熱を帯びていた頬や首筋に心地よい冷たさが触れ、ヴィクトリアは少しだけ肩の力を抜く。傍に置かれている椅子へ腰掛け、本を開き数ページほど読み進めてみるが、文字を目で追っていても、結局内容はほとんど頭に入ってこなかった。視線だけが文章の上を滑っていき、気づけばお風呂場で考えていたことが頭の中で何度も繰り返されていた。


頭の中に浮かぶ不安を振り払うように、ヴィクトリアが次のページをめくろうとした時。


「…くしゅっ」


突然、小さなくしゃみが漏れ、ヴィクトリアは思わず目を瞬かせる。鼻先には微かなむず痒さが残っていた。いつの間にか、湯上がりで火照っていた身体がすっかり冷えてしまっていたのだ。開けたままのガラス戸から入り込む夜風が、今度は少し冷たく感じる。


(湯冷めしてしまったかしら?)


ヴィクトリアは腕を擦りながら、ぱたりと本を閉じた。これ以上読んでいても、どうせ内容は頭には入らないだろう。閉じた本の表紙を見つめながら、ヴィクトリアはふと先ほどのダニエルの言葉を思い出す。


『無理せず早めに休んでね』


ヴィクトリアは小さく苦笑を零した。


(珍しく言うことを聞いてみようかしら)


いつもなら、人でいられる夜を惜しむように朝まで起きている。本を読んだり、針仕事をしたりと静かな時間を過ごしながら、少しでも人でいられる時間を長く味わおうとするのが常だった。


ヴィクトリアは本をテーブルに置いたまま、椅子から立ち上がると、そのままベッドへと歩み寄る。やわらかな寝具へ腰を下ろせば、身体から力が抜けていくようだった。ふんわりとした優しい生地のナイトドレスが、ベッドの上へ柔らかく広がる。ヴィクトリアはそのまま枕へ頭を沈め布団を被る。湯冷めした身体が徐々に温まっていき、ゆっくりと眠気がやってくる。


窓の外では、深い夜の色がゆっくりと薄れていく。ヴィクトリアが人でいられる夜は、もうすぐ終わる。朝が訪れれば、再びカラスの姿へと変わってしまう。その訪れを待つように、ヴィクトリアはゆっくりと瞼を閉じた。


外では、少しずつ朝の気配が近づいていた。

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