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屋烏の愛  作者: 又一
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作戦失敗

石畳を打つ車輪の音だけが、やけに大きく響いていた。一定のリズムを刻むはずのその音は、なぜか耳に残り、馬車の中の沈黙をいっそう際立たせている。行きとは打って変わり、馬車の中には重たい空気が落ちていた。向かい合って座るヴィクトリアとダニエルは、言葉を交わすこともなく、ただ揺れに身を任せている。ときおり車体が小さく軋むたび、互いの視線がかすかに揺れるが、それでも目が合うことはなかった。


つい先ほどまで目の前にあった王城の明かりはすでに遠く、窓の外には、夜へと移ろいゆく王都の街並みが流れていた。淡く灯り始めたランタンの橙色の光が、通りを行き交う人々の影を長く引き伸ばし、石畳の上でゆらゆらと揺れている。その光景はどこか穏やかであるはずなのに、今のヴィクトリアには、ひどく遠い世界の出来事のように思えた。


ダニエルは先ほどから、何度も口を開きかけては閉じている。言葉を探しているのは明らかだった。ヴィクトリアを気遣う言葉か、それともこの重苦しい空気を払うための軽口か。だが、どれも決め手に欠けるのか、結局は喉元で消えてしまう。そのもどかしげな気配に気づいていながら、ヴィクトリアはあえて視線を向けず、ただ窓の外を見つめ続けていた。やがて意識は、自然と少し前の出来事へと遡っていく。


―タウンハウスを出発する、ほんの少し前のこと。

ヴィクトリアはダニエルに起こされると、そのまま彼の外套の内側へと身を滑り込ませ、息を潜め気配を殺すようにして馬車へ乗り込んだ。タウンハウスの使用人たちはヴィクトリアの事情を知らないため、カラスの姿を見せるわけにはいかなかった。


「ミーナ様はご一緒ではないのですか?」


心配するヴェルターの声に、ダニエルはわずかに困ったような笑みを浮かべて答えた。


「部屋で眠っているから起こさないであげて」


ダニエルはまるで本当に一人で仮面舞踏会へ向かうかのように振る舞う。外套の内側でそのやり取りを聞いていたヴィクトリアは、言葉にこそしなかったものの、ほんのわずかな不満を胸に抱いていた。


(……仕方がないとはいえ、随分と怠け者のように思われてしまいそうね)


理解はしている。

最善の方法だったことも分かっている。

それでも、どこか釈然としない感情だけが、小さく残っていたが、結局それを口にすることもなく、ヴィクトリアはただ静かに、事の成り行きを見守るしかなかった。


―そして、王城に辿り着いた二人を待っていたのは、あまりにもあっけない現実だった。


門前に立っていたのは、昨日とは別の衛兵だった。その姿を認めた瞬間、言葉を交わすまでもなく、すべてが決まってしまった。胸の内に抱いていたわずかな期待は、驚くほど容易く砕け散り、引き止める余地すらなく、二人は入場を許されぬまま、王城を後にするしかなかった。


記憶はそこで途切れ、ヴィクトリアの意識は現在へと引き戻される。ゆっくりと視線を落とし、窓に映る自分の姿を見つめる。そこにいるのは、すでに人の姿へと戻った自分。淡い光に照らされたその表情は、思っていた以上に疲れて見える。このまま屋敷へ戻れば、ヴェルターたちは間違いなく驚くだろう。わずかに逡巡したあと、ヴィクトリアは顔を上げ、向かいに座るダニエルへと視線を向け口を開いた。


「ねぇ、ダニエル?」


静かな車内に落ちたその声に、ダニエルははっとしたように顔を上げた。どこか遠くへ沈みかけていた意識が、一気に引き戻されたかのようだった。


「私が馬車から降りてきたら、みんなびっくりしないかしら?」


遠慮がちではあるが、はっきりとした問いかけに、ダニエルは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく息を吐くと、ヴィクトリアを安心させるように柔らかく微笑んだ。


「大丈夫だよ、裏口があるんだ!そこからなら、誰にも見られずに部屋まで行けるはずだよ!」


明るく言い切ったその声には、いつもの調子が戻りつつあった。だが次の瞬間、ダニエルはふと何かに気づいたように眉を下げる。


「あ……でも、それじゃあヴィクトリアに、まるで不審者みたいな真似をさせることになるよね。ごめんね…」


申し訳なさそうに視線を伏せるダニエルに、ヴィクトリアは間を置かず首を横に振った。


「大丈夫よ。その代わり、裏口への詳しいルートを教えて」


淡々とした要求に、ダニエルは一瞬きょとんとしたあと、すぐに安堵したように表情を緩める。


「うん、もちろん!ちゃんと説明するよ」


ダニエルはすぐに説明を始めた。屋敷の裏手へ回るための道順、途中にある低木の形や外壁に刻まれた装飾の特徴や見落としやすい小道の分岐など。裏口の位置だけでなく、そこから屋内へ入ったあとのどの廊下を進み、どこで曲がり、どの階段を使えば人目を避けられるかまで、細かく繰り返し確認するように説明していく。ヴィクトリアはその一つひとつを丁寧に頭の中へと刻み込んでいった。途中で短く頷きながら、必要な箇所は頭の中でなぞり直す。


やがて馬車は、ゆっくりと車輪を止めてハイム男爵家のタウンハウスへと辿り着く。昨日とは違い、正面玄関にヴェルターの姿はなかった。それもそのはず、この時間に主が戻るなど、誰も予想していないのだから。


先に降りたダニエルが手を差し伸べる。ヴィクトリアはその手を借りて地面へと降り立つと、すぐに周囲へと視線を巡らせた。教えられた通りの景色が、そこにある。


「じゃあ、気をつけてね!」


小声でそう告げるダニエルに、ヴィクトリアはわずかに頷いた。次の瞬間にはもう、ヴィクトリアの意識は別の方向へと向いている。人目を避けるため、影を選びながら足を進める。石畳に靴音を立てぬよう、慎重に歩幅を調整し、呼吸さえも浅く抑える。低木の影を抜け、外壁に沿って進み、目印の装飾を確認する。迷わず頭の中に描いた通りの道筋を、正確に辿っていく。


やがて裏口へと辿り着くと、周囲に人の気配がないことを確かめ、素早く扉の内側へと滑り込んだ。屋内に入ってからも気を抜くことはなく、教えられた通りに廊下を進み、角を曲がり、階段を上がる。途中、遠くで使用人の気配がかすかに感じられたが、足を止めることなく、気配を薄く保ったまま通り過ぎる。そして誰にも見つかることなく、ヴィクトリアはなんとか自室へと戻ることに成功した。


背後で扉が閉まる音が響いた瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、ようやく小さく息を吐く。


「……ふぅ」


その時になって初めて、ヴィクトリアは自分が無意識のうちに肩へ力を入れていたことに気づいた。ダニエルから説明を受けている間も、裏口から自室へ戻る間も、平静を装っていたつもりだった。だが実際には、使用人たちの視線や、不自然に思われていないかという不安に、ずっと気を張っていたらしい。ヴィクトリアは胸元へそっと手を当て、小さく息を整えた。


一方その頃。

ダニエルはというと、正面玄関から堂々と帰宅していた。扉が開く音に気づいたヴェルターたちが一斉に玄関ホールへと集まり、そして、そこに立つダニエルの姿を認めた瞬間、明らかに戸惑いの色を浮かべた。


「お、お帰りなさいませ、ダニエル様…?」


予定よりもあまりに早い帰宅の理由が分からず、ヴェルター言葉の端がわずかに揺れる。ダニエルはそんな様子を見て、ほんの少しだけ曖昧に笑った。


「ミーナのことが心配で帰ってきたんだ」


自然に聞こえるよう整えた理由だった。だが、ヴィクトリアが無事に裏口から戻り、誰にも見つからずに自室へ辿り着けたのか心配しているのも事実だ。完全な嘘ではないからこそ、その声音にはわずかな真実味が滲んでいた。


「今からミーナを起こしてくるから、二人分の夕食を用意してくれるかい?」


さらりと続けるその言葉に、ヴェルターたちはすぐに表情を引き締め、深く一礼した。


「かしこまりました」


整然とした返答が玄関に響く。そのやり取りを背に、ダニエルはゆっくりと屋敷の奥へと足を進めた。そのまま足早に階段を登り、ヴィクトリアの部屋へと向かった。磨き上げられた廊下に、軽やかな靴音が規則的に響く。だがその足取りには、どこか落ち着かない焦りが滲んでいた。早く無事を確かめたい―そんな思いが、自然と歩みを速めている。


部屋の前へ辿り着くと、ダニエルは一度だけ足を止めた。胸の奥に残るわずかな焦りを押さえ込むように小さく息を吸い、控えめに扉をノックした。


「ヴィクトリア…?入るよ」


ダニエルは声をできるだけ穏やかに整えたつもりだったが、そこにはわずかに硬さが残っていた。ほんの短い沈黙のあと、室内から柔らかな声が返ってくる。


「どうぞ」


その一言を聞いた瞬間、ダニエルは肩から力を抜き、安堵を滲ませながら扉を開ける。


「よかった、無事に裏口から入って来れたんだね!」


扉の向こうに立つヴィクトリアの姿を認めた瞬間、ダニエルの表情は目に見えて緩んだ。最悪の事態を想像していなかったわけではない。その分だけ、今こうして何事もなかったかのように立っているヴィクトリアの姿が、ひどく安心を誘った。


「ダニエルの詳しい説明のおかげで迷うことなく来れたわ、ありがとう」


ヴィクトリアは穏やかに微笑む。その落ち着いた声音と、自然に浮かぶ笑顔に、ダニエルは一瞬言葉を失い、胸の奥がわずかにざわついた。


「い、いや、そんな!大したことじゃないよ」


視線が定まらず、思わず目を逸らす。頬にほんのりと熱が集まっていくのを自覚しながら、ダニエルは慌てて話題を切り替えた。


「ゆ、夕食の準備をしてもらってるんだ!だから、着替え終わったら下の食堂に来てくれるかい?」


少し早口になりながらも、その声音にはヴィクトリアを気遣うやわらかさが残っていた。


「ええ、わかったわ」


ヴィクトリアは素直に頷く。

このまま仮面舞踏会の装いで食堂へ向かえば、本来寝ていたはずのヴィクトリアがドレス姿で現れることになる。それがどれほど不自然なことか、想像に難くない。ヴェルターたちが驚き、疑問を抱くのも当然だろうと理解していた。


「じゃ、じゃあ僕は先に行ってるね!」


どこか逃げるように言い残し、ダニエルは踵を返す。扉へと向かいながら、その背中にはまだわずかな落ち着かなさが残っていた。


扉を開け、部屋を出る直前。

ほんの一瞬だけ、ダニエルは何かを言いかけるように振り返りかけたが、結局何も言わずにそのまま廊下へと消えていった。閉じられた扉の向こうで、ダニエルの足音が遠ざかっていく。


部屋に一人残されたヴィクトリアは、しばらくの間その扉を見つめていたが、やがて小さく息を吐くと、くすりと笑みを零す。


(…今の光景、前にも見た気がするわ)


ふと胸に浮かんだ既視感に、わずかに首を傾げる。だがそれがいつの記憶なのかまでは辿り着けず、結局は曖昧な感覚のまま思考を手放した。


「…着替えないと」


誰に聞かせるでもない呟きが、静かな室内に溶けていく。ヴィクトリアは身に纏っていたドレスへと手をかける。


ハイム男爵家が仕立ててくれた仮面舞踏会用のドレスは目を引くほどに美しい。光を受けて柔らかく輝く生地には繊細な装飾があしらわれているが、その分長時間身につけるにはどうしても窮屈さが伴っていた。


ヴィクトリアは布を丁寧に持ち上げ、乱さぬよう慎重に脱いでいく。床に落とすことのないよう細心の注意を払いながら、脱ぎ終えたそれをそっと椅子の背へとかけた。視線を移し、代わりに手に取ったのは、締め付けの少ないゆったりとしたイブニングドレスだった。淡い色合いのその一着は、見ているだけで心が落ち着くような、やわらかな印象を持っている。普段からダニエルが、いつでも使えるようにと用意してくれていたもののひとつであり、着慣れた安心感がある。


ヴィクトリアはゆっくりと袖を通し、背中へと手を回す。指先に少しだけ力を込めながら、留め具をひとつずつ確かめるように留めていく。かすかな布擦れの音だけが、静かな室内に溶けていった。体に馴染んだドレスは、無理な広がりもなく、すっきりとしたラインを描いている。小柄な体にも自然に沿い、余計な主張をせず、それでいて品のある印象を与えていた。胸元はやや広めに開いているものの、過度なものではなく、首筋から鎖骨にかけてを美しく見せる程度に留まっている。


着替えを終えたヴィクトリアは、部屋を出る前に足を止める。鏡の前へと歩み寄り、そこに映る自分の姿をじっと見つめる。琥珀色の瞳が、まっすぐにこちらを見返していた。ほんの少しだけ背筋を伸ばし、顎を引き呼吸を整えるように、ゆっくりと瞬きをひとつする。


見た目には、どこも変わったところはない。

だが―


(…痛いわね)


ヴィクトリアは内心で小さく呟いた。

人の姿に戻ってからというもの、身体の節々にじわりとした痛みが残っていた。昨日、慣れないヒールで歩き回り、さらには正面入口まで走った負担が、今になってようやく表に出てきたのかもしれない。ヴィクトリアは、普段使わない筋肉が悲鳴を上げているような、鈍く引く感覚に襲われていた。


(…カラスの時は平気だったのに)


そう心の中で小さく呟き、ヴィクトリアは視線を逸らすことなく、もう一度だけ自分を確かめる。なぜカラスの姿だと身体の不調が現れなかったのか、その疑問に対する答えは出なかったが、ヴィクトリアは気持ちを切り替え、鏡から視線を外し扉の方へと向き直った。

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