タウンハウス
華やかな大通りを離れるにつれ、馬車の周囲から灯りは次第に減っていった。石畳を叩く車輪の音だけが、規則正しく響いていた。やがて辿り着いたのは、王都の中でも古くから続く貴族街の一角。似た造りの邸宅が整然と並ぶ通りは、どの屋敷も控えめながら気品を漂わせ、長い年月を経てなお保たれてきた格式を感じさせる。その中に、ハイム男爵家のタウンハウスは佇んでいた。
ゆっくりと、馬車の車輪が止まり、ほどなくして、外から控えめなノックの音が響いた。
「ダニエル様、到着いたしました」
御者の落ち着いた声を合図に、ダニエルは向かいに座るヴィクトリアへと視線を向ける。
「着いたみたいだね」
柔らかくそう告げると、ダニエルは先に馬車を降り、すぐに振り返り手を差し伸べてくる。その仕草は自然で、慣れたものだった。ヴィクトリアも小さく頷き、その手を取る。ドレスの裾をわずかに持ち上げ、慎重にステップへと足をかける。夜気が肌に触れ、仮面舞踏会の熱がゆっくりと引いていくのを感じながら、地面へと降り立った。
視線を上げたヴィクトリアに映ったのは、ハイム男爵領の本邸とはあまりにも対照的な屋敷だった。左右対称に整えられた端正な外観は、無駄な装飾を抑えながらも、細部にまで行き届いた意匠が、確かな品格を感じさせている。白を基調とした外壁は、夜の闇の中でもはっきりと浮かびあがり、玄関へと続く石畳のアプローチは真っ直ぐに伸び、その両脇には手入れされた低木が並んでいる。均等に配された窓からは、やわらかな灯りがこぼれ、屋敷全体を穏やかに包み込んでいた。その明かりは温かみがあり、まるで客人を歓迎するかのようだった。
正面扉の脇には、控えめなランタンが灯されており、その光の下では背筋を伸ばして立つ年配の家令が、無駄のない所作で深く一礼している。
「おかえりなさいませ、ダニエル様」
低く落ち着いた声には、長年仕えてきた者だけが持つ揺るぎない貫禄があった。そして家令は、ゆっくりと顔を上げると、ダニエルの隣に立つヴィクトリアへと視線を移す。
「お待ちしておりました、ミーナ様。わたくしはこの屋敷の管理を務めております、ヴェルターと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
ヴェルターは人当たりの良い穏やかな笑みを浮かべ、改めて丁寧に頭を下げる。その仕草には、一切の隙がない。
「こちらこそ、滞在中はお世話になります、ヴェルターさん」
ヴィクトリアも自然に微笑みを返す。
ヴェルターの笑みは不思議と人を安心させるものだった。形式的なものではなく、どこか柔らかな温度を感じさせる。そのせいだろうか。胸の奥に張りつめていたものが、ほんのわずかにほどける。つい先ほどまでの仮面舞踏会の喧騒、非現実のような時間が、ゆっくりと遠ざかっていく。仮面舞踏会の夜は終わり、ヴィクトリアは現実へと戻ってきたのだと実感した。
「さあ、どうぞ中へ」
ヴェルターが扉を開く。
一歩足を踏み入れた瞬間、外の冷たい空気とはまるで違う、穏やかで落ち着いた温もりがヴィクトリアを包み込んだ。そこに広がっていたのは、古き良き貴族の気配を色濃く残した空間だった。磨き上げられた大理石の床に、壁には落ち着いた色合いの装飾と絵画が飾られ、過度な華美さはないものの、確かな品格が漂っている。高すぎない天井と、柔らかな明かりを落とすシャンデリアが、どこか人の住まう場所としての温かさを感じさせた。
玄関ホールには、すでに数人の使用人たちが整列していた。一斉に頭を下げるその動きは揃っており、長年の習慣として身体に染みついていることが見て取れる。いずれも年齢は高く、若い使用人はほとんど見当たらない。その代わりに、長くこの屋敷に仕えてきた者だけが持つ、落ち着きと信頼感があった。
「ここには、必要最低限の人数しかいないんだ。父も僕も滅多にこのタウンハウスには来ないからさ」
ダニエルが軽く肩をすくめるようにして言うが、その声音にはどこか申し訳なさを滲ませていた。それを受けて、ヴェルターが一歩前へ出る。
「ええ。ですので今回は、我々も全力をあげて準備いたしました。滞在中はご不便のないよう努めて参りますので、何なりとお申し付けくださいませ」
その言葉に、後ろに控えていた使用人たちも、わずかに顔を上げる。向けられる視線には、主人の帰りを喜び、仕える機会を得たことへの意欲に満ちたものだった。
(…なにかしら?)
ヴィクトリアは一瞬だけ、視線を泳がせる。
その眼差しの中に、どこか見覚えのある既視感を感じた。あれはドレスを仕立ててもらった時のお針子たちから感じた眼差しと似ている。熱意と期待が入り混じったような視線。
(気のせい、よね)
小さく内心でそう結論づけ、ヴィクトリアはそれ以上考えるのをやめた。
「それじゃあ部屋を案内するね!」
空気を切り替えるように、ダニエルが明るく言う。そして自然な流れでヴィクトリアの手を取り、そのまま階段へと導いた。磨かれた手すりに指を添えながら、二人はゆっくりと上階へと上がっていく。その背中を、使用人たちは微笑みながら見送っていた。
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