宿題
「はぁ〜、困ったなぁ…」
盛大なため息をつきながら、クラウスは肩をすくめた。だがその仕草とは裏腹に、仮面の奥の目はわずかに細められ、どこか愉しんでいるようにも見える。
「この後に話す人、すごくやりづらくない?」
軽く笑いながら、わざとらしく周囲を見回す。
「一人は手紙なんていう小道具まで使うし、さらにもう一人はその話に乗っかてくるしさ」
肩を竦め、やれやれといった様子で首を振る。
「これ、普通に可哀想でしょ?次の人」
冗談めかした口調だったが、その言葉には誰もが同意するほど先ほどまでの流れを的確に言い当てる鋭さも含まれていた。
「本当ですな」
【金持ちのヨハン】が深く頷く。
「まさか最初から、ここまで引き込まれる話が続くとは思いませんでしたよ。いやはや、なかなかのものでした」
興奮を抑えきれないのか、舌なめずりでもしそうなほどの笑みを浮かべ、【金持ちのヨハン】は指先でグラスを叩いた。その濁った目には、飽くなき興味が露骨に宿っている。
「ええ、本当に…」
【家庭教師のイザベラ】も小さく頷く。
「まるで物語を聞いているみたいで…お二人とも、事前にお話を合わせていたのではと疑ってしまうほどです…」
扇子の奥から覗く視線には、まだわずかな緊張が残っていた。
「いいわね!こうゆうぞくぞくするようなお話、大好きなのよ!もう最高だわ!」
【未亡人のマリーローズ】はうっとりと頬に手を当て椅子をわずかに揺らしながら、満足げに笑う。その反応が示す通りこの場にいる全員が、ヴィクトリアとレオンハルトの語りに、完全に引き込まれていたことは明らかだった。
「じゃあ次は、【遊び人のルーカス】さんのお話を聞かせてほしいわ!」
【未亡人のマリーローズ】がぱっとクラウスへと視線を向けた。その瞬間、まるで合図のように、全員の視線が一斉にクラウスへと集まる。
「えー!この流れで僕!?」
クラウスは大げさに目を見開き、肩をすくめてみせる。だがその口元には、すでに笑みが浮かんでいる。困っているふりをしながら、実際にはこの展開すら待っていたかのような余裕すら見える。
「しょうがないなぁ〜、それじゃあ、とっておきの話をしようかな」
そう言って、クラウスはゆっくりと椅子に深く腰掛け直した。足を組み、背もたれに体重を預ける。指先では、グラスをくるりと回し、淡い光を受けて揺れる液体が、円を描くたびにきらめいた。その動きに合わせるように、場の空気が整えられていく。クラウスはその様子を確認するようにゆっくりと見渡し、ほんのわずかに口角を上げた。そして語り始める。
「僕の親友にね、それはそれは恐ろしい呪いにかかっている人がいるんだ」
その一言に、ヴィクトリアは思わず肩を揺らした。
(…呪い?)
クラウスの口調はまるで取るに足らない世間話でも始めるかのような軽さだったが、その言葉はあまりにもヴィクトリアにとっては看過できないものだった。視線を向ければ、クラウスは変わらず飄々としている。
「呪い……?」
【未亡人のマリーローズ】も同じことを思ったのか、ヴィクトリアの心の声を代弁してくれたが、わずかに眉を寄せ、先ほどまでのうっとりとした表情は消え、純粋な警戒が滲んでいた。
「ど、どんな呪いなんですか……?」
【家庭教師のイザベラ】も思わず身を乗り出す。
扇子を持つ手が、知らず知らずのうちに強く握られている。その反応に、クラウスは期待どおりだと言わんばかりに、くすりと小さく笑った。
「命に関わるようなものじゃないよ。でも、もし僕がその立場だったら、たぶん人生を悲観しちゃうだろうなぁ〜」
クラウスは軽く笑みを浮かべる。
その言葉には、妙に現実味があり、冗談のようでいて、どこか真実味を帯びている。
ヴィクトリアの胸は、不安にかき乱されるようにざわめいていた。命を脅かすものではない、それでも生き方そのもの揺るがすような呪いが他にも存在するのなら、それは決して他人事ではない。知らなければならない。けれど知ってしまっていいのか。次に語られる言葉が、自分の心では受け止めきれないほど残酷なものだったらと思うと足がすくんでしまう。一度知ってしまえば、もう後戻りはできないと、そんな恐れが、ヴィクトリアの胸の奥をじわじわと締めつけていく。
視線を逸らしかけたヴィクトリアの視界の端に、レオンハルトの姿が映り込んだ。クラウスの隣に座る彼は、ただ黙って耳を傾けている。その横顔には、わずかな動揺すらなく、まるで、これから語られるすべてを、すでに知っているかのようだった。
「その呪いはね…」
クラウスが意図的に声を落とし、全員の意識を引き寄せるように、ゆっくりと口を開いたその時。
ゴォーン……と、閉会を告げる鐘の音が、重く低く、会場全体に響き渡った。高い天井に反響したその余韻は、先ほどまでこの一角に満ちていた緊張や熱を、まるで現実へと引き戻す合図のようにゆっくりと薄めていく。遠くでは、楽団の演奏が終わりへと向かい、舞踏の足音も次第にまばらになっていく。仮面の奥で交わされていた秘密めいた空気は、音とともにほどけていった。
「まあまあ!もうそんな時間なの!?」
【未亡人のマリーローズ】が大げさに肩を落とし、心底残念そうに声を上げる。つい先ほどまで頬を紅潮させていた彼女は、まるで夢から覚めてしまった子供のように唇を尖らせた。
「もー!一番いいところじゃないの!!」
両手をぶんぶんと振り、足元で小さく地団駄を踏む。その仕草に椅子がわずかに軋み、テーブルの上のグラスがかすかに触れ合って音を立てた。
【家令のゲオルク】がゆっくりと立ち上がる。
その落ち着いた動作は、まるでこの場に流れていた非日常を畳むかのようだった。
「本日はここまでのようですな」
穏やかな声音でそう告げると、自然とその場に終わりの気配が広がっていく。
「ええ、本当に…名残惜しいですが」
【家庭教師のイザベラ】も扇子を閉じながら小さく頷き、【金持ちのヨハン】も「いやはや、実に興味深い夜でしたな」と満足げに息を吐いた。それぞれが椅子から立ち上がる気配に、つい先ほどまで一つの物語に飲み込まれていた空間は、急速にただの舞踏会の一角へと戻っていく。クラウスもすでに立ち上がり、軽く伸びをしながら、隣のレオンハルトへ顔を向けた。
「僕らも行こうか」
その一言に、レオンハルトは小さく頷き立ち上がる。そして立ち上がったその瞬間、ヴィクトリアへと視線を向ける。仮面越しでも分かるほど、その眼差しには、躊躇いと何かを伝えようとする気配が滲んでいた。まるで、今ここで言わなければ二度と機会はないとでもいうように。けれどその視線に、ヴィクトリアが気づくことはなく、ヴィクトリアは別の思考に囚われたままわずかに俯いている。言葉になりかけた気持ちは行き場を失ったまま、レオンハルトは、わずかに唇を動かしかけて、それでも何も言えず、すべてを飲み込む。そして、諦めたように視線を逸らし、クラウスの横に並び立ち歩みを進めた。
ヴィクトリアが思考の渦に囚われていると、気づけば二人が背を向け去っていく姿が目に入る。楽団の最後の音が余韻を引き、それぞれの帰路へと向かうため、正面入り口へと収束していく参加者たちのざわめきが一層強くなる中、クラウスとレオンハルトの二人だけは、まるでその流れに逆らうように歩いていた。
(…待って)
反射的にヴィクトリアの身体が動く。
椅子が小さく音を立て、裾を揺らしながらヴィクトリアは立ち上がると、数歩で距離を詰め迷いなくクラウスの腕を掴んだ。
「待って……!」
掴んだ瞬間、衣服越しに伝わる体温。
その確かな感触に、自分が衝動で動いたことを遅れて自覚する。その声に、クラウスが足を止めた。
「…ん?」
ゆっくりと振り返るその瞳は、わずかに楽しげに細められていた。まるで、こうなることを最初から分かっていたかのように。
「さっきの話…呪いのこと」
ヴィクトリアは一歩踏み込む。
掴んだ手を離さぬまま、まっすぐにクラウスを見つめた。だがその瞳の奥には、隠しきれない焦りが滲んでいる。
(“親友”と言っていた、つまり…)
言葉には出さず、視線だけが語る。
ほんの一瞬、ヴィクトリアはクラウスの隣にいるレオンハルトへと目を滑らせた。だが当の本人は別のものへと意識を持っていかれているのか、会話には入ってこない。
クラウスはふっと笑った。
「教えてほしい?」
試すような声音は軽い調子のままなのに、その奥にあるものは決して軽くない。ヴィクトリアは一瞬たりとも迷わず、はっきりと頷く。その反応を見て、クラウスの口元がわずかに深く歪む。
「じゃあ、次に会うまでの宿題ってことで、考えてきてよ」
楽しげにそう呟くと、くるりと背を向けた。
その動きに合わせて、ヴィクトリアの手は自然とほどかれる。
「答え合わせは、その時にね」
肩越しに振り返るその仕草は軽やかで、その顔には意味深な笑みだけが残され、クラウスは歩き出す。レオンハルトも遅れてそれに続き、すれ違う仮面の群れの中へ二人の姿はゆっくりと溶けていく。
「……」
ヴィクトリアは、その背を見つめたまま動けなかった。人波に紛れていく二人の姿は、仮面と衣装に彩られた群衆の中で、すぐに見分けがつかなくなるはずなのに、不思議と最後まで目で追うことができた。やがて完全に視界から消えたところで、ようやく視線を落とす。
(簡単には教えないってことね)
ヴィクトリアは小さく胸の奥で息をつく。けれどそれは落胆からくるものではなかった。
視線を上げると、広間にはまだ人の気配が残っていた。この仮面舞踏会は一夜で終わるものではない。レオンハルトの婚約者が決まるその時まで、この奇妙で濃密な夜は、繰り返されるのだから。明日も、その先も続いていく。その事実を救いに、ヴィクトリアはまた明日も舞踏会へ参加しようという明確な意志を持って、帰路へと向かう参加者たちの流れに沿って歩みを進めた。




