【孤高のアーデルハルト】
ざわめきは収まらず、疑念と期待が絡み合い、誰もが答えを求めて手を伸ばしている。その中心にいながら、ヴィクトリアは一歩引いた位置でそれを見ていた。そして隣に座るレオンハルトは、その間ずっと口を開かなかった。視線を落とし、あるいはわずかに前を見据え、周囲のやり取りに一切口を挟むことなく、ただ静かに成り行きを見守っている。だがその沈黙は、決して無関心からくるものではなかった。
(…何か考えているのかしら)
ヴィクトリアは横目でわずかにその様子を捉える。レオンハルトに先ほどまでの動揺は消えており、代わりにあるのは、思考の海に沈んだまま動かない重い沈黙だった。まるで、何かを見極めるように。あるいは何かを決めるように。
やがて、一瞬だけ場のざわめきに間が生まれた。
その隙間を、低く落ち着いた声がすっと通る。
「次は、僕が話そう」
自然でありながら、抗いがたい響きだった。
それだけで、場の視線が一斉にレオンハルトへと集まる。先ほどまで好き勝手に言葉を交わしていた者たちも、無意識のうちに口を閉ざしている。
レオンハルトは、ゆっくりと顔を上げた。
仮面の奥の瞳が前を射抜き、その姿は、先ほどまでのただの参加者ではなく、ほんのわずかに本来の立場を滲ませていた。
「君の話に関連することになるだろう」
低く落とした声が、すぐ隣から落ちてきた。
ヴィクトリアにだけ聞こえるよう、いつの間にか距離を詰められ、レオンハルトが身を寄せていた。肩越しにかかる微かな体温と衣擦れの音が、やけに近くで響いた。
「…っ」
耳元すれすれに落とされたその囁きは、他の誰にも拾われないほど小さいのに、なぜかはっきりと届く。その距離の近さに、ヴィクトリアの呼吸が一瞬だけ乱れた。レオンハルトの香りがふわりと届き、整えられた衣服の奥にある、かすかな香と外気に混じる冷たい夜の匂いがする。視線を向ければ、仮面の奥の瞳がすぐそこにあった。探るでもなく疑うようでもない、ただ、確かめるようなまっすぐな逃げ場を与えない視線が交差し、ヴィクトリアは一瞬だけ心の奥を覗かれたような錯覚になり、わずかに息を止めた。
だがそれも束の間で、レオンハルトは何事もなかったかのように、すっと身体を引く。そして再び正面へと向き直ると、レオンハルトは、ゆっくりと口を開いた。
「改めて、僕は【孤高のアーデルハルト】だ。今から三百年前に実在した王太子だ」
その一言が落ちた瞬間、ヴィクトリアは、ほんのわずかに目を見開く。驚きと同時に、胸の奥で何かがカチリと噛み合う感覚がした。
(…ああ、やはりあなたは私の思い出の中にいる"アーデルハルト"を演じているのね)
確信へと変わった疑念は、静かに沈むように胸へ落ちていく。だが、その内側とは裏腹に、ヴィクトリアの表情は崩れない。いったい、レオンハルトの口から何が語られるのか見極めようと、息を整えるだけだった。
「少し昔話をしよう。当時、僕にはとても美しい恋人がいた」
レオンハルトの声は穏やかで、感情を抑えているというより、まるで遠い昔の出来事をなぞるような響きを伴っていた。
「彼女の足元まで伸びた長い髪は、見事な漆黒で、光を受けるとまるでシルクのように艶めいていた。少し幼さの残る顔立ちに、琥珀色の瞳が印象的で、あの瞳に見つめられれば、誰もが魅了されていた」
ただの伝承でも、記録でもない、実際にヴィクトリアのことを昔から知っているような語り口調で、レオンハルトは懐かしむかのように語る。
(…やめて)
ヴィクトリアの心のどこかで、拒絶が生まれる。
(それ以上、言わないで)
記憶を撫でられるような感覚に、触れられたくない場所を、正確に辿られているような不快な既視感に、ヴィクトリアはただ息を呑むことしかできなかった。
「だが、その関係は長くは続かなかった…」
レオンハルトの声が、ほんのわずかに低くなる。話に耳を傾けている皆が固唾を飲んで見守る。
「突如として、彼女は消えてしまった。いや、正しくは一家ごと行方をくらませた」
その言葉に、【未亡人のマリーローズ】が、はっと息を呑む。胸元に当てていた手が、わずかに強張る。【家庭教師のイザベラ】もまた、思わず身を引いた。扇子の奥で、目だけが大きく揺れている。
「それは…」
【金持ちのヨハン】が、低く呟く。
その視線は、無意識のうちにヴィクトリアへと向けられていた。シュヴァルツ伯爵家のことではないかと、点と点が繋がりかけている。誰もが、同じ結論に辿り着いていることを互いに感じ取りながら、それでも誰も口にはしなかった。
「屋敷は全焼し、どこを探しても見つからなかった」
レオンハルトから決定的な一言が落ちる。
その言葉が落ちた瞬間、場の空気は、完全に別のものへと変わる。ヴィクトリアが投げた話に、レオンハルトの語りが重なり、ひとつの現実味を帯びた物語として、その場を支配していた。
「それでも僕はずっと、ずっと、彼女が帰ってくると信じて待ち続けた…」
その言葉は妙に重く、軽く語られているはずなのに、長い年月が積もったような響きがある。
ヴィクトリアの呼吸がわずかにだけ浅くなる。ヴィクトリアは、自分がいなくなった後のことを知らない。あの屋敷が全焼した日を境に、彼女の時間は断ち切られている。だからこそレオンハルトの語る言葉が、真実かどうか分からないにも関わらず、自分の知らなかった空白のピースが、まるで正しい形で埋められていくような錯覚に陥っていた。
「だが結局、僕は別の者と結婚した」
ヴィクトリアの心は追いつかないまま、知りたかったはずの事実と知りたくなかったという感情が相反しながら、何かが胸の奥で確かに崩れた音がした。
(…わかっていたはずなのに)
王家は続いている、目の前にいるレオンハルト自身がその証明だ。心のどこかでは分かっていたし理解はしていたはずなのに、この目で事実を確かめるまでは、ほんのわずかに別の可能性を思い描いていた自分に気づく。もしかしたら、別の血筋が王位を継いだのかもしれない。あるいは彼は誰とも結ばれないまま、生涯を終えたのかもしれない。そんな、あり得るはずのない逃げ道をどこかで期待していた自分がいた。
ヴィクトリアは己の愚かさを噛みしめるように胸に沈め、仮面の奥で自嘲の笑みを浮かべた。
レオンハルトの仮面の奥にある視線が、まっすぐにヴィクトリアだけを捉える。
「僕は死んだあとも諦め切れず、こうして仮面舞踏会の夜に紛れて、彼女を探しに黄泉の国から戻ってきているんだ」
物語の終着として落とされたその台詞は、冗談とも演出とも取れるほど、ぞくり、とまるで冷たい指先で背筋をなぞられたような感覚が、その場にいた全員を一斉に襲った。あまりにも完成されすぎた作り話は聞き手に想像の余地ではなく、確信に近い何かを抱かせる。
【未亡人のマリーローズ】は言葉を失い、わずかに唇を震わせている。【家庭教師のイザベラ】は扇子を握る手に力が入り、その骨ばった指先が白くなっていた。
ヴィクトリアもまた、例外ではなく、隣のレオンハルトの存在が急に遠く感じていた。記録にもほとんど残っていないはずの、個人的な関係をまるで本当の当事者のように語る様は、偶然という言葉では片付けられない領域まできていた。それはまるで隣にいるレオンハルトが本当にアーデルハルト当人なのではないかと錯覚してしまうほどに。否定する材料はいくらでもあるが、それを上回る違和感の正体が拭えない。
ヴィクトリアは胸の奥がざわつき、鼓動が速くなっているのを感じた。焦りか恐れか、それとも別の何かか。誤魔化すように、ヴィクトリアはグラスを傾けた。ほとんど無意識に、一息に喉へ流し込む。液体が喉を焼くような刺激を伴って滑り落ちていき、乾いた喉を強引に潤し、そのまま胸の奥へと落ちていく。




