波紋
ヴィクトリアは受け取った手紙を指先で丁寧に折り直しながら、ゆるやかに視線を落とす。
胸の奥で、小さく息をつく。
この手紙は、本来こんな場所で披露するためのものではなかった。
(本当は…)
ほんの一瞬だけ、意識が過去へと遡る。
舞踏会の前日に、静かな部屋で机に向かいながら綴った文字。用意してもらったドレスへの礼を、どうしてもきちんと伝えたくて。何度も言葉を選び、書き直しながら、ようやく形にした一通だった。
(ダニエルに渡すつもりだったもの)
舞踏会が終わったあとの帰りの馬車で、手渡せるように胸元に忍ばせた。
ドレスには手紙をしまえるような場所はなく、加えて、急いで着替えなければならない事情もあった。考える余裕もない中で辿り着いたのが、自分の胸元だった。
幸い、人並みには膨らみがある。
柔らかな布の内側、谷間へと滑り込ませるようにして隠す。そこにあると分かっていれば、否応なく意識に残り、忘れることはないと思ったから。
ヴィクトリアは、わずかに視線を巡らせた。
その場にいる誰もが、先ほどの話題に引き込まれている。
「まさか本当に…?」
「当時の真相が分かる時が来るのかしら!」
「…いったいどこでこんなものを手に入れたんだ?」
興奮と好奇に満ちた声が、じわじわと広がっていく。小さな囁きはやがて重なり合い、疑念と期待が入り混じったざわめきへと変わっていった。レオンハルトにより本物の手紙だと証明された以上、先ほどまでの遊び半分の空気は、すっかり影を潜め、今やその場は一つの物語に飲み込まれていた。自分が投げた、たった一つの餌によって。
ヴィクトリアは、そっとグラスを持ち上げる。
指先に伝わる、ひんやりとした硝子の感触。
唇をわずかに触れさせ一口含み、その拍子に、淡い黄金色の液体がゆらりと揺れた。グラスの中で波紋が広がり、何重にも重なりながら、やがてほどけていく。
まるで今、この場に広がっているざわめきのように。小さな一滴が、静かな水面を乱し、やがて取り返しのつかない広がりへと変わっていく。
(でも、嘘は言っていないわ)
シュヴァルツ家の者が記した手紙、それは今もシュヴァルツ家が存在している証になる。だが、そのどちらも紛れもない事実だ。
(“それを書いたのが誰か”を、言っていないだけ)
ヴィクトリアは、何事もなかったかのように顔を上げる。仮面の奥では、その瞳だけが、確かな意志を宿していた。
「…そういえば」
控えめな声が、場のざわめきを縫うように差し込んだ。【家庭教師のイザベラ】が呟いた。
「当時のシュヴァルツ家には…確か、ヴィクトリアという名前のご令嬢がいらしたはずです」
その一言が落ちた瞬間、空気がぴたりと止まる。全員の視線が一斉にヴィクトリアへと集まる。
「まあ!!」
間髪入れずに【未亡人のマリーローズ】が声を上げる。
「それって…!まさか、あなたが名乗った名前はそこから来ているの!?」
【未亡人のマリーローズ】は身を乗り出し、ヴィクトリアをまじまじと見つめる。近すぎる距離に、興奮して熱を帯びた鼻息がヴィクトリアの顔にまで届く。
【未亡人のマリーローズ】を筆頭に、好奇の目、疑念の目、そしてわずかな期待に満ちた目がヴィクトリアに集中する。
「…同じ名前なんて、そう珍しいものでもないでしょう?」
あえて曖昧に、煙に巻くようにヴィクトリアは微笑んだ。柔らかな声で、肯定も否定もしない絶妙な距離感で、受け取る側の想像に委ねるよう仕向ける。
「で、でも…!」
【未亡人のマリーローズ】が食い下がるように言う。
だがヴィクトリアは、それ以上何も語らない。
ただ穏やかに微笑み、その余裕すら感じさせる態度に、誰も決定打を打てずにいた。
(疑われても大丈夫)
ヴィクトリアの胸の奥は自信に満ちていた。
(どうせ、誰にも確かめようがないもの)
当時の記録文書には、家族構成こそ残っている。だが、肖像画も、私室も、私物も、すべてはあの火災で灰になった。
(誰も、"ヴィクトリア・シュヴァルツの顔"を知らない)
たとえ目の前に本人がいたとしても。
それを証明する術は、この世界のどこにも存在しない。
「ご想像にお任せしますわ」
それは挑発にも似た一言だった。
真実に触れられそうで、決して届くことのできないそんな距離をあえて保つようにヴィクトリアは仮面の下で微笑んだ。




