戸惑い
その一言は、決して大きな声ではなかった。
だが、不思議なほどにはっきりと、場の空気を切り裂いた。
間を置いて、ヴィクトリアはわずかに視線を伏せ、柔らかく続ける。
「亡霊って言うのは、その…影が薄いってよく言われて、いつも居ないと思われがちなので…」
控えめに、どこか照れたような声音。
先ほどの不穏な響きを、意図的に和らげるような説明だった。
(…本当は違うけれど)
胸の奥で、静かに呟く。
(死んだと思われている私が、ここにいることを示したかっただけ)
だが、その真実をこの場で明かす必要はない。
今はまだ、亡霊の仮面を被っている方が都合がいい。
「…亡霊、ですって?」
【未亡人のマリーローズ】が、目を丸くする。
先ほどまでの軽やかな調子とは違い、ほんのわずかに戸惑いが滲んでいた。
「ほう…それはまた、穏やかではない名ですな」
【家令のゲオルク】が髭を撫でながら、興味深そうに呟いた。その瞳は細められているが、興味だけでなく、何かを測ろうとしている視線だった。
だが、誰よりも早く、そして誰よりも強く反応したのは、隣にいるレオンハルトだった。
ヴィクトリアが【亡霊のヴィクトリア】と名乗った瞬間、ごくわずかに息を呑む音が聞こえた。
そして次の瞬間。
「…ヴィクトリアは本名なのか…?」
まるで無意識にこぼれ落ちたような声が、レオンハルトの口から零れた。
静かながらも、はっきりとした響き。
その問いには、仮面舞踏会のルールを忘れたかのような切実さが滲んでいた。
場の空気がピンと張り詰め、それが“禁忌”であることは、この場にいる誰もが理解していた。今夜は誰もが仮面を付ける夜。素性を問うことは、暗黙の了解を破る行為に他ならない。
ヴィクトリアは一瞬だけ、レオンハルトを見つめる。
仮面の奥で、その真意を探るように。
だがすぐに視線を外し、口を開いた。
「その質問は、無粋ではなくて?」
柔らかな口調だが、その奥にははっきりとした拒絶の線が引かれていた。責めるでもなく、ただ事実を指摘するような声音。
その一言で、場の空気がわずかに揺らぐ。
「…すまない。忘れてくれ」
レオンハルトは短くそう告げると、それ以上は何も言わなかった。自らの失言を自覚しているのだろう。深く追及することはなく、静かに引いた。
「ま、まあ!確かに影が薄いって意味なら納得だわ!」
【未亡人のマリーローズ】が明るく笑い、どこか気まずさを払拭するように言葉を重ね、空気を戻そうとする。
「ほっほっほ、なかなかに洒落た言い回しですな」
【家令のゲオルク】もまた、わざとらしく楽しげに頷いた。
「もー、みんなが気遣ってくれてるじゃん。ちゃんと責任とって最後の締めよろしくね」
【遊び人のルーカス】と名乗っているクラウスが、わざとらしく肩をすくめながらレオンハルトの腕を軽く小突く。軽口のようでいて、その実、逃げ場を塞ぐような絶妙な間合いだった。
「ああ、すまない。僕は…」
レオンハルトはそこで言葉を切った。
ほんのわずかな沈黙。それは一拍というには長く、だが躊躇と呼ぶには短すぎる、曖昧な間だった。その沈黙に、場にいた者たちがわずかに息を潜める。先ほどまで軽やかだった空気が、糸を張ったように細く引き締まるのを、ヴィクトリアは肌で感じ取った。
レオンハルトは視線を落とし、何かを探るように思考を巡らせている。仮面の奥に隠された表情は読み取れない。
(…二つ名を考えているのかしら?)
ヴィクトリアは小さく首を傾げる。
他の者たちが名乗っている間、考える時間はいくらでもあったはずだ。それにも関わらず、今この瞬間に言葉を詰まらせている。
(もしかして…自分をどう名乗るか、迷っている…?)
最初から用意していた名を口にするのではなく、今この場で、何かを探り直すように。
(…最適解を、探しているみたい)
その様子に、ヴィクトリアはかすかな違和感と興味を覚える。
やがて、レオンハルトはゆっくりと顔を上げる。迷いを振り切るように。あるいは、ようやく答えに辿り着いたかのように。
「僕の名は【孤高のアーデルハルト】だ」
「…っ」
その名が紡がれた瞬間、次に息を呑んだのはヴィクトリアの番だった。
(アーデルハルト……?)
ヴィクトリアの思考はそこで止まった。
胸の奥がひどくざわつく。その名をどうして目の前のレオンハルトが名乗るのだろうか。
その名は、この三百年、忘れようとしても忘れられない名前だった。ヴィクトリアにとっては一番思い入れのある名前だ。
偶然にしてはあまりにも出来すぎていた。
ヴィクトリアは無意識のうちに、レオンハルトを見つめていた。
(私がヴィクトリアと名乗ったから…?あなたは咄嗟に名乗る名前を変えたの?)
あの一瞬の間。
言葉に詰まっていたような、わずかな沈黙。
あれはこの名を選び直すための、時間だったのではないか。そんな考えが横切る。
まさかこの仮面舞踏会で、三百年前結ばれることのなかった恋人たちの名前がこうして並んでいることなど、誰が想像できるだろう。しかも、その片割れはー
(…今も、こうして生きているのに)
ヴィクトリアは自嘲するように心の奥で呟く。
この場にいる誰も知らない。
目の前にいる亡霊と名乗った娘が、本当は三百年前から生きていることなど。
ただ一人を除いてー
もしレオンハルトがそのことに気づいているのだとしたら。
(…そんなわけないわ)
そこで思考を断ち切る。
考えすぎだと自分に言い聞かせる。
周囲では笑い声があがり、会話はすでに次の話題へと移りつつあった。
ヴィクトリアは、答えの出ない問いを胸の奥で何度も何度も繰り返していた。




