自己紹介
「それじゃあ、まずは僕からいこうかな〜?」
軽やかな声が、場の空気をふっと緩める。
クラウスだった。
「こういうのは先陣切った者勝ちって言うしね」
楽しげにそう言いながら、片手をひらひらと振る。その何気ない仕草ひとつで、張り詰めかけていた空気がするりとほどけていくのがわかった。まるで最初からそうなるように計算されているかのように。
「僕は【遊び人のルーカス】だよ、よろしくね〜」
なんとも嫌な二つ名だ。
ヴィクトリアは思わずわずかに眉を寄せた。
隣にいるレオンハルトも、ほんの一瞬だけ怪訝そうに目を細める。
「いやぁ〜、たくさんの女性に声をかけてもらえるのは光栄なんだけど、どれも本気の恋にはならないんだよね」
軽薄とも取れる言葉を、まるで誇らしげに語るクラウス。指先でグラスの縁をなぞりながら、わざとらしく肩をすくめる。その動作はどこか芝居じみていて、しかし嫌味にはならない絶妙な軽さがあった。
「だってほら、“運命の相手”ってそう簡単に見つかるもんじゃないでしょ?」
わざとらしくため息をつくその様子に、恰幅のいい女性は「まぁまぁ!」と笑い、成金風の男は苦笑を浮かべ、神経質そうな女性は露骨に顔をしかめた。反応は見事に分かれた。
(……わざとかしら?)
ヴィクトリアは内心で呟く。
場の空気を和ませるため、あるいは、誰かの反応を見るため。仮面の裏に、別の意図が透けて見える気がした。その証拠に、クラウスの視線は一瞬だけ、隣のレオンハルトへと向けられていた。まるで、何かを確かめるように。
周囲が引いていることに気づいていないのか、あるいは気づいた上で楽しんでいるのか。どちらとも取れる曖昧な笑みを浮かべながら、聞いてもいない女性遍歴をさらりと語り続けた。やがて満足したのか、ぱん、と軽く手を叩く。
「それじゃあ時計回りで、次はお隣の人どうぞ〜」
ひらりと話題を渡された成金風の中年男は、待ってましたとばかりに身を乗り出した。指に嵌められた大ぶりの指輪が、わずかな灯りを受けてぎらりと鈍く光る。
「私は【金持ちのヨハン】です。今日は娘がこの舞踏会に参加しており、その付き添い人として来てます。どうぞよろしく」
にやり、と歯を見せて笑うその姿には、どこか自己顕示欲の強さが滲んでいた。胸を張る様子や、言葉の端々に滲む驕りは、己が築いた財を誇る者特有のものだった。
だが―
(ヨハン……?)
ヴィクトリアはわずかに違和感を覚える。
その名は本来、どちらかといえば、異国の教会にいそうな、慎ましく厳格な人物を連想させる名だ。それが、この装飾過多な衣装に身を包み、指先まで飾り立てた男の口から語られることで、妙な歪みを生んでいた。
(金持ち、とヨハン……)
その組み合わせは、あまりにも噛み合っていない。まるで借り物の名を無理やり当てはめたかのような、ちぐはぐさ。
だがそれでも、この場では正しいとされる。
本来の自分を隠し、別の誰かを演じる。
「ほっほっほ、なんともわかりやすいお方じゃ」
次に口を開いたのは、長い髭を撫でる老人だった。愉快そうに目を細めながら、ゆったりとした動作で姿勢を正す。その所作は年齢を感じさせながらもどこか品があり、長く人生を歩んできた者特有の落ち着きを滲ませていた。
「では次は、わしですな」
一拍置き、わずかに背筋を伸ばす。
「わしは【家令のゲオルク】と申す者じゃ。
普段は、とあるお方の御屋敷にてお仕えしておっての。今日は、そこの坊ちゃんがこの場に参加しておるゆえ、ひと目拝みに来たというわけじゃ」
穏やかに語られるその言葉には、誇張も虚飾もない。ただ事実をそのまま述べているだけのように感じられた。
「ほぉ……家令とはまた渋いですな」
【金持ちのヨハン】が感心したように頷く。
「ほっほっほ、こういう場ではな、真実を述べることもまた一興なのですぞ」
【家令のゲオルク】は意味深にそう言う。
それは単なる冗談にも聞こえるし、
“自分は嘘をついていない”という宣言にも聞こえる。
そのまま【家令のゲオルク】はゆっくりと視線を横へ滑らせた。その先にいるのは、先ほどから扇子で口元を隠していた細身の女性。
「お嬢さん、次はあなたの番ですな」
柔らかく促され、細身の女性はびくりと肩を揺らした。扇子の奥で小さく息を吸い込む気配がする。
「わ、私……ですか……」
一度視線を落とし、指先をぎゅっと重ねる。
そして意を決したように顔を上げた。
「私は【家庭教師のイザベラ】と申します。普段はとあるお嬢様にお仕えしておりまして…」
言葉を選ぶように、慎重に紡がれる声音。
だが次の瞬間、ほんのわずかに表情が緩む。
「ただそのお嬢様がとてもお転婆で…その…いつも旦那様に怒られないか、ひやひやしておりまして…」
最後は少し早口になり、思わず本音がこぼれたようだった。その様子に、周囲から小さな笑いが漏れる。
「まぁまぁ、それは大変ですわねぇ」
恰幅のいい女性が楽しそうに肩を揺らす。
その反応に、【家庭教師のイザベラ】は少しだけほっとしたように肩の力を抜いた。
「いいわね、いいわね!みんな面白い二つ名だわ!」
ぱん、と手を叩く音が響く。
恰幅のいい女性が、いよいよ楽しさを抑えきれないといった様子で体を揺らした。
その拍子に椅子がわずかに軋み、ヴィクトリアの身体がほんのわずかに傾いた。手にしていたグラスの中で、細やかな泡を纏った淡い黄金色の液体が大きく波打つ。縁すれすれまで揺れたそれが今にも零れ落ちそうだった。
ヴィクトリアは反射的に指先へ力を込める。ドレスの裾の内側で足に力を入れ、重心を戻そうとするが、完全には間に合わない。
(零れてしまう…!)
焦りが胸をかすめた、その瞬間。
すっと、視界の端に影が差すと同時に、隣から伸びてきた手が、ヴィクトリアの腕を支えた。
「…大丈夫か?」
低く、落ち着いた声だった。
騒がしい場の中にありながら、不思議と耳に届く響きだった。
ヴィクトリアははっとして顔を上げる。
支えてくれたのはレオンハルトだった。
おかげでぐらついていた身体が、すぐに安定を取り戻す。グラスの中身も、ぎりぎりのところで零れることはなかった。
「…ありがとう」
小さく、抑えた声で礼を言うヴィクトリア。
レオンハルトは軽く頷くだけで、それ以上は何も言わなかった。だが、支えていた手はほんの一瞬だけ残り、ヴィクトリアが完全に体勢を立て直したのを確認してから、そっと離される。
触れていた時間はほんの一瞬で、その一連の動きはあまりにも自然で、周囲の誰も気づいていないようだった。
「それじゃあ、次は私ね!」
待っていましたとばかりに身を乗り出し、胸元に手を当てる。
「私は【未亡人のマリーローズ】よ!」
堂々とした名乗りで、その声はよく通り、どこか舞台役者のような華やかさがあった。
「旦那に先立たれて、今は一人娘を育てているんだけど…やっぱり一人は辛いわねぇ」
そう言いながらも、その声音には陰りはない。
むしろどこか弾んでいるようにすら聞こえる。
「だからねぇ、早く新しい旦那様が欲しいのよ〜」
頬に手を当て、くるりと首を傾げる仕草は、まるで恋に夢見る少女のようだった。未亡人という言葉とのあまりの落差に、ヴィクトリアは思わず瞬きをする。
「ほっほっほ、随分と前向きなお方じゃ」
【家令のゲオルク】が楽しげに笑い、
【金持ちのヨハン】も「いやはや、素直で何よりですな」と肩を揺らす。
その場に、柔らかな笑いが広がった。
(……本当に、見事ね)
ヴィクトリアは静かに観察する。
誰もがそれらしい役を演じている。
だが、その中に混じる真実と虚構の境界は曖昧で、どこまでが本音で、どこからが演技なのか。一目では見抜けない絶妙な均衡が、この場の面白さを生み出していた。
そうして全員の視線が、ヴィクトリアを見据える。誰もが、次に紡がれる言葉を待っていた。期待と好奇が入り混じった眼差しが、仮面越しにヴィクトリアへと注がれる。
彼女はいったい、どんな二つ名を名乗るのか。
その沈黙の重みを受け止めながら、ヴィクトリアはほんのわずかに息を整えた。
(…大丈夫)
胸の奥で、小さく言い聞かせる。
(最初から、この二つ名を名乗ると決めていたんだから)
迷いはない。舞踏会に参加すると決めた時からすでに覚悟は決まっている。
(自信を持って言えばいいわ)
一拍。
間を置き、そして―
ヴィクトリアはゆっくりと口を開いた。
「私は【亡霊のヴィクトリア】よ」




