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屋烏の愛  作者: 又一
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挨拶

「ミ、ミーナはなんていう二つ名にしたの?」


自分の話題から少しでも離れたかったのか、エルザはどこか慌てたように問いを返してきた。その気持ちがなんとなく伝わってきて、ヴィクトリアは微笑む。


「私はー」


そう口を開きかけた、その時だった。


高らかな金管楽器の音が場内に鳴り響き、広間を満たしていたざわめきが、波が引くようにすっと静まっていく。人々の視線が一斉に会場最奥の玉座へと集まった。


国王が、ゆっくりと立ち上がる。


「今宵、この舞踏会のために参集してくれた皆に、王家を代表して感謝を申し上げる。我が息子の未来に関わる大切な席に、かくも多くの者が心を寄せてくれたこと、余は誠に嬉しく思う。どうか今宵は、互いに語らい、笑い、良き縁を見出してほしい。この夜が、そなたたちにとっても祝福に満ちたものとなることを願っている」


重厚で威厳に満ちた声が、広間いっぱいに響き渡る。短く簡潔な挨拶でありながら、その一言一言には王としての風格と、集った者たちへの確かな敬意が宿っていた。


言葉を終えた国王は、レオンハルトへと視線を向ける。その視線を受け、レオンハルトが一歩前へ出た。


「この舞踏会のために足を運んでくれた皆に、心から感謝する。この舞踏会では、名を偽り、仮面をつけて過ごしてもらうことになる。戸惑う者もいるかもしれないが、先入観なく相手を知るには、悪くないやり方だと思っている。肩書きではなく、その人の言葉や在り方に触れる夜になれば嬉しい。どうか、それぞれに良い時間を過ごしてほしい」


低く、落ち着いた声だった。

けれど静かなその声音には、不思議と場を掌握してしまう力がある。無理に張り上げることもなく、威圧するでもなく、ただ自然に耳を引き寄せ、人々の心をその言葉へ向かわせていく。


「僕もまた、王太子という立場を離れ、一人の参加者として加わるつもりだ」


そう言って、レオンハルトはかすかに微笑んだ。


その瞬間、会場のあちこちから小さなどよめきが上がる。とりわけ若い娘たちの間では、抑えきれない期待と興奮がさざ波のように広がっていった。


そしてー

会場の光が、ゆっくりと落とされた。


天井から吊るされた巨大なシャンデリアの輝きが一段、また一段と弱まり、広間全体が柔らかな闇に包まれていく。人影の輪郭や衣装の揺れ、グラスに反射するかすかな光は見える。完全な暗闇ではないが、顔立ちも、装いも、細かな意匠も、もはや判別するには心もとない。すべてが曖昧になり、誰もが等しく“素性を隠した客人”へと変わっていく。


仮面舞踏会の幕開けだった。


(結局…ダニエルを探し損ねてしまったわ)


明るいうちに見つけるつもりだったのに、思いのほかエルザと話し込んでしまった。けれど、不思議と後悔はなかった。


ほんのひとときとはいえ、目の前の少女と言葉を交わし、笑い合い、昔の自分ではきっとできなかった時間を過ごせたのだ。


ヴィクトリアは隣にいるエルザへそっと微笑みかける。この暗さでは、その表情は相手には見えていないだろう。けれど、それでよかった。闇に包まれているからこそ、素直になれる感情もあるのだと、今夜のヴィクトリアは知り始めていた。まるで、失ったと思っていた何かを、今さらになって拾い上げることができたかのように。


気づけば、会場の空気はすっかり変わっていた。


王太子を探し求めて歩き出す娘たち。

ダンスの相手を見出そうと視線を巡らせる青年たち。ざわめきは先ほどまでよりも低く、それでいて熱を帯び、広間のあちこちで新たな出会いが生まれ始めているのが伝わってくる。


やがて楽団が最初の曲を奏で始めると、その流れに呼応するように、一人の男性がエルザの前へ歩み出た。


「美しいひと」


柔らかく、気取らない声音だった。


「ぜひ、僕とダンスを踊っていただけませんか?」


突然の誘いに、エルザは目を見開く。

仮面越しでも分かるほどに狼狽え、言葉を失っている。そんな彼女の背を、ヴィクトリアはそっと押した。


「せっかくだし、行ってきたらどう?」


「で、でも……!」


エルザは不安げにヴィクトリアを振り返る。

どうやら、自分だけ誘われてヴィクトリアを一人にしてしまうことが気がかりらしい。その優しさに、ヴィクトリアの胸はほんの少しだけ温かくなった。


二人が小声でやり取りをしている間、誘いに来た男性は、驚いたようにその声のした暗がりへ目を向けた。そこにもう一人いたのか、と今ようやく気づいたような反応だった。


それもそのはずだった。

漆黒のドレスに、足元まで伸びたウェーブがかった見事な髪は夜そのものを溶かし込んだような深い黒髪。照明を落とされた会場の隅では、ヴィクトリアの姿は背景に溶け込むようにして、ほとんど見えなくなっていた。加えて、もともと気配を消すことに慣れている。三百年ものあいだ、人目を避けるように生きてきた彼女にとって、それは呼吸のように自然なことだった。


おそらく男性の目には、最初からエルザしか映っていなかったのだろう。


「大丈夫よ。私のことは気にしないで」


ヴィクトリアは穏やかな声でそう告げる。

その一言にようやく背を押されたのか、エルザは小さく頷いた。そして、おずおずと差し出された男性の手を取る。


ヴィクトリアが居たことに驚いていた男性は、

気持ちを切り替えるようにエルザの手を恭しく取り、壊れものでも扱うような慎重さでエルザを導いていく。二人の姿はゆっくりと会場の中央へ向かい、やがて音楽に合わせて踊り始めた人々の輪の中へ、自然に溶け込んでいった。

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