エルザ
会場へ足を踏み入れたヴィクトリアはダニエル探しに苦戦していた。
まだ照明が落とされる前とはいえ、広い会場には大勢の招待客が集まっている。貴族の男性たちは皆、流行を押さえた似たような礼装に身を包み、仮面までつけているせいで、遠目には誰が誰だか見分けがつきにくい。
黒を基調にした装いだけでも何人もいる。背格好が似ている者、髪色が近い者、立ち姿の雰囲気がどこかダニエルに重なる者―そのたびに視線を向けるものの、近くまで行けば別人だと分かるばかりだった。
(ダニエルを見つけられる気がしないわ…)
胸の内でそっと息をつく。
先に入ってしまったダニエルも、きっとこちらを探しているはずだ。そう思うと、なおさら早く見つけたいのに、焦れば焦るほど人波ばかりが視界を埋めていく。
そんな時だった。
ふと、視界の隅にひとりの少女が映った。
会場の華やかな場所から少し外れた隅で、まるでそこだけ別の空気が流れているかのように、ひっそりと佇んでいる。周囲のきらびやかさに馴染みきれないまま、きょろきょろと落ち着きなく視線をさまよわせていた。
薄いクリーム色の髪は肩口まで伸び、癖のある毛先がふわりと柔らかなウェーブを描いていた。仮面に半ば隠れていても分かるほど、くりくりとした大きな瞳は澄んだ青を宿し、その不安げな揺らぎすら、どこか愛らしい。頬はほんのりと桃色に染まり、守ってあげたくなるような、そんな可憐な顔立ちだった。
(…昔の私みたい)
その瞬間、ヴィクトリアの胸の奥に、遠い記憶が蘇る。
伯爵令嬢として生きていた頃。
社交界はいつだって華やかで、明るくて、賑やかだった。笑いさざめく令嬢たち、堂々と振る舞う青年たち、軽やかな音楽とまばゆい灯り。けれど、その中で自分だけがどこか取り残されているような心地がしていた。
心から打ち解けられる友人などいなかった。
父に将来を案じられ、半ば義務のように出席していた舞踏会の数々。そのたびに、壁際で気配を消すように立ち、誰とも深く言葉を交わさぬまま、ただ時間が過ぎるのを待つばかりだった。
―まさに、今の彼女のように。
気づけばヴィクトリアは、その少女のほうへ足を向けていた。
「こんばんは」
穏やかに声をかけると、少女はびくりと肩を震わせる。
けれど逃げることはせず、少し遅れてから、おずおずと小さく頭を下げた。
「こ、こんばんは…」
その時、ちょうど侍従が飲み物を載せたトレイを手に近づいてきた。
ヴィクトリアは軽く礼を言ってグラスを二つ取り、そのうちの一つを少女へ差し出す。少女は目を丸くしながらも、遠慮がちにそれを受け取った。
その様子がなんだか微笑ましくて、ヴィクトリアの口元は自然とゆるむ。
「私はミーナっていうの。あなたは?」
そう尋ねると、少女は一瞬ためらったあと、
「あ、えっと…私はエルザ。……あっ」
言った途端、はっとしたように口元を押さえる。
「ほ、本当の名前、言っちゃってよかったのかな…?たしか舞踏会の間は、二つ名で名乗らないといけないって…」
慌てて視線を泳がせるその姿があまりにも素直で、ヴィクトリアは思わずくすりと笑った。
「大丈夫よ、私も本名で名乗ってしまったもの」
そう言って、人差し指を唇に当て、ほんの少しだけ悪戯っぽく微笑んでみせた。
「誰にも聞かれてなければ、問題ないわ」
その仕草に、エルザは一瞬きょとんと目を瞬かせ、それからつられるようにくすくすと笑った。
(…本当は、"ミーナ"も偽りの名前だけど)
胸の奥に、ほんの小さな引っかかりが生まれる。けれど、今はそれを表に出すつもりはなかった。ヴィクトリアはそれを胸の内にそっと押しとどめ、やわらかく話題を変える。
「エルザさんは、どんな二つ名を考えてきたの?」
そう問いかけると、エルザは慌てて首を振った。
「エ、エルザでいいよ…!わ、私、ただの平民だから…」
「なら、私も平民よ。ミーナって呼んで」
ヴィクトリアはにこりと微笑む。
その言葉に、エルザの表情がぱっと明るくなった。
「…い、いいの!?てっきりミーナは貴族のご令嬢なのかと…なんだか雰囲気が平民っぽくなくて」
その言葉に、ヴィクトリアは一瞬だけ言葉を選ぶ。
「ドレスだけ、少し良いものを選んだからかしら」
視線をわずかに逸らしながら、さらりと誤魔化す。
「いいなぁ…」
エルザは自分のドレスの裾をつまみながら、少しだけ寂しそうに笑った。
「私の家、あんまり裕福じゃないから……こんなドレスしか用意できなくて……」
ヴィクトリアは改めて、エルザの装いを見つめた。確かに生地は上等とは言い難く、豪奢な刺繍も、高価な宝石もない。けれど、やさしい色合いの布は彼女の白い肌によく映え、控えめな装飾はかえってその可憐さを引き立てていた。
見栄を張らず、自分の手の届く範囲で精一杯整えてきたのだと分かる。その慎ましさごと、エルザにはよく似合っていた。
「とても素敵だと思うわ、エルザによく似合ってる」
ヴィクトリアは真っ直ぐに言う。
その言葉に、エルザの頬がさらに赤く染まった。
「そ、そうかな…」
エルザは恥ずかしさを誤魔化すように、グラスへ口をつける。
ヴィクトリアもつられるように一口飲む。
舌に広がるのは、懐かしくも慣れない味。
エルザも同じだったのか、眉を寄せて呟いた。
「…うっ、こ、これが大人の味か…」
「私もお酒はあまり得意ではないの」
そう言って笑うと、エルザもほっとしたように笑い出した。小さな笑い声が、二人の間に柔らかく広がった。
同性の子と、こんなふうに肩の力を抜いて話したことなど、ヴィクトリアにはほとんどなかった。
(…なんだ、こんな簡単なことだったのね)
胸の奥で、静かな後悔が滲む。
どうしてあの頃の自分は、もっと勇気を持てなかったのだろう。誰かに拒まれる前に、自分から壁を作っていたのかもしれない。近づいてみれば、こんなふうに自然に笑い合えることもあったのかもしれないのに。
三百年を経た今になって、そんなことを思う自分がおかしくて、少しだけ切なかった。
ヴィクトリアがかすかに目を伏せた、その時だった。エルザが何かを思い出したように、ぱっと顔を上げる。
「あ、そういえば…二つ名の話だったよね!」
少し照れながら、エルザは続けた。
「私は…【パン屋のエリーゼ】って名乗る予定なんだ」
ヴィクトリアは、胸の中の感傷をそっと脇へ置き、改めてエルザへ意識を向ける。
「素敵な名前ね。どうやって考えたの?」
そう尋ねると、エルザはもじもじと指先を合わせた。
「えっと…私の家、パン屋をやってて…それで、エルザの名前を少し変えて、エリーゼにしてみたの…!だから、そのまま【パン屋のエリーゼ】なんだ」
せっかく身分も名前も隠せる特別な機会だというのに、肩書きはそのまま“パン屋”を選んでしまう。その飾らなさが、いかにもエルザらしくて、ヴィクトリアは思わず微笑んだ。
奇をてらわず、背伸びもせず、自分の大切なものをそのまま名にする。それは案外、誰よりも誠実で、まっすぐな名乗りなのかもしれない。
「ふふ……とてもあなたらしくて、素敵だわ」
そう言われたエルザは、照れくさそうに肩をすくめながらも、どこか嬉しそうに笑った。
会場の隅、華やかな喧騒から少しだけ外れたその場所で、二人の間には小さな友情が芽生え始めていた。




