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「サラ!」
後ろからサラを追うクレイの声が聞こえてくる。しかしサラはクレイのその呼びかけに耳を貸すつもりはなかった。
何かを穢されたような気がして、気持ちの制御が出来ない。
自分自身を護れなかった不甲斐なさにも腹が立っていた。
「待ってくれ、サラ!」
クレイの声がさっきより近くなってきていることに気付いて、サラは焦った。
捕まる訳にはいかない。捕まってしまったら、私は私でいられなくなってしまう。
クレイが怖い。
いいえ、違う。
サラは思い直した。
クレイが怖いのではなく、クレイの一挙一動に平静が保てなくなっている自分の気持ちが怖い。
今のまま捕まっては、どうにかなってしまいそうだ。
サラは当てもなく目の前に開けて行く道を走っていた。時折クレイを撒くために、小さな横道に逸れる。
手足には擦り傷がいくつも出来ていた。
狩りに追われる獲物はこのような気分なのだろうか。
そんな不吉な思いで抜け出た先の景色を見て、サラは目を見張った。
ここは…昨日の場所。
イバラの林がそこにあった。
呆然として立ち尽くしていたが、自分を追うクレイの気配がそう遠くないことに気付くと、サラは慌ててイバラの抜け道を探す。
マイリがやっと通れるくらいの隙間なら、クレイが通るのは到底無理だ。でも自分なら、身を低くすれば無理矢理にでも潜り抜けられる。
どうせ怪我をしているし、今更傷が増えたってどうということはない。
サラは自棄になっていた。
心の痛みと同じくらいの痛みを体に感じたら、逆に気持ちが楽になるかもしれない。
そんな考えに突き動かされて、サラは前に進んだ。
長く美しい金髪は、鬱蒼とした森の中でも一際目立った。
行く手を知られないように道を変えるのは上手い逃げ方だが、日中の日差しの中、ああも目立つ髪色ではその努力は無駄に等しい。
サラを捕まえた後、どうするつもりかはクレイにも分からなかった。ただ、逃がしてはいけないという気持ちだけで逃げるサラを追っていた。
サラにはああ説明したが、本心は違う。
本当は体の動きを封じてしまうだけのつもりだった。
サラが自分を傷付けるつもりは毛頭ないということは分かり切っていたが、一方でエリーのこととなると激しやすくなる質であるこということも分かっていた。
興奮している人間が武器を持っていると、大抵まずいことが起きる。
一時的に剣を取り上げて、落ち着かせたらすぐに返すつもりだった。
だが、彼女を木の幹に追い詰めた時、ふと自分の目の前にいる彼女がとても小さく頼りなく思えた。
このか弱き存在を自分のこの腕の中で守りたいと思った。
ただ、愛しいと。
そう思ったら、あの行動に出ていた。
抵抗する様子がないから仄かな期待を抱いてサラを見ると、サラは茫然自失になっていた。
あまりのことで、何も考えられないという表情。
その表情にひどく傷ついたが、自分の立場や今までの流れを考えると、サラがこの行動の真意に辿り着くのは至難の業とも言える。
好意すら伝わっていないことに敗北感を覚えながら軽口を叩くと、サラはやっといつものサラに戻った。
…かのように見えた。
まさか、自分の手の中から逃げ出すとは。
大事なものを取り逃がしたということに気付いた時には遅かった。もう二度と手に入らないかもしれないという焦りがクレイを駆り立てる。サラを追ううちに見たこともない景色に変わっていったが、サラの明るい金髪を見失ってしまうことの方がクレイには問題だった。
サラが行き着いた先は、見たこともないイバラが堅牢な檻のように自生している場所だった。
自然が、ここから先は人間の立ち入る領域ではないとはっきりと主張している。
森は深い。人間が入っていい領域とそうでない領域は、精霊との交流がなくとも経験に基づく勘でクレイにも分かる。
さすがのサラも、ここまで来てしまっては引き返すしかないだろう。
幸い、自分がどの程度まで近付いているのかサラはまだ気付いていない。ここからは気配を殺して、そっとサラとの距離を詰めよう。
そうしてサラに近付こうとしたクレイは信じられないものを見た。
子供がやっと通れるかのようなイバラの隙間が、近付くサラを受け入れるかのように拡がっていった。
そしてサラが通り抜けた途端に、その隙間は完全に閉じてしまい、もはや野兎一匹すら通す隙間もない。
慌ててイバラに近付き、その向こうの景色を確かめようとするが何も見透かすことはできない。
クレイはイバラの枝に完全に行く手を阻まれた。
「どうなっている…」
試しにイバラを揺すってみるが、枝と棘が複雑に絡まり、とても解けるような状態ではない。
だが、サラは確かにこの中に入って行った。
「サラ! 聞こえていたら返事をしてくれ!」
イバラの向こうに向かって叫んでみるが、返答はない。枝の間を通り抜ける風がざわざわと物音を立てる他は、音らしい音は聞こえて来なかった。
「サラ!」
もう一度クレイが叫ぶと、びゅう、と大きな風が吹いた。
思わず目を閉じたクレイがもう一度目を開けた時、目の前にあったはずのイバラの林は完全に消えていた。




