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「ずいぶん待たせてしまったのね。ごめんなさい」
馬車の側まで来ると、従者が恭しく扉を開けた。一度馬車に乗ろうとしたエリーは足を止め、くるりと振り返ってサラを見る。
「ううん。勝手に早く来たのは私だもの。でも、どうしてもサラに一番に見て欲しかったの。一番は無理だったけど、せめて誉めて欲しくて。やっぱりサラに誉めてもらえるのが一番嬉しいもの」
心から嬉しそうにそう言って、エリーは微笑んだ。
こんなに美しいエリーを見たら、心を奪われない者などいないだろう。
「その…クレイは、何て?」
急にクレイの名前を出したサラにエリーは首を傾げて、それでもサラの質問に答える。
「クレイもデラもとても誉めてくれたわ。クレイはそうね…誉めてはくれたけど、彼の好きな人にはまだまだ及ばなかったみたい」
その言葉にサラは衝撃を受けた。
クレイに好きな人が?
エリーという婚約者がいながら?
もしそれが本当だったとして、どうしてそれをわざわざエリーに言うのだろう。
「クレイがそう言ったの…?」
「はっきりと言われた訳ではないけど、クレイには忘れることができない娘さんがいるみたいよ」
「誰よ、それは?」
サラは思わず詰問口調になっていたが、エリーにとってはそれほど興味深い話ではないらしく、エリーはさらりと言った。
「昨日、散歩していた時に聞いた話なんだけど。なんでも旅の途中で出会った娘さんで、精霊と見紛うばかりの美しさだったとか…。クレイに聞いたら詳しく教えてくれると思うわ。今は一人で湖のほうに散歩に行っているはずよ」
「そう…」
いくら身分を隠していたとしても、婚約者という立場でありながら、この美しいエリーを目の前にしてそんなことを言う神経が信じられない。
腸が煮えくり返るような思いだったが、それでもサラは努めて冷静を装い、エリーを馬車に乗るように促した。
笑顔でエリーを見送ったサラは、狩猟小屋へは戻らずにそのまま湖へと向かった。
なんて奴なの。
怒りに我を失ったサラは湖の方向に恐れを抱いていたことなどすっかり忘れて、湖に向かって歩いていた。
クレイはすぐに見つかった。木の幹に背中を預けて座り、美しい湖面をぼんやりと眺めていた。
「あれ? やあ、サラ。どうかしたの? そんなに息切らしてさ」
すぐにサラの気配に気付いたクレイは背後を振り返り、不思議そうに尋ねる。
「…誰なの?」
早足で歩いてきたサラはやっと呼吸を整え、絞り出すような声で尋ねた。
「は?」
何について尋ねられているのか全く分からず、クレイは立ち上がりながら間の抜けた返事をする。
「エリーより美人って…誰なの?」
「あァ。あのことか」
サラの剣幕の様子ですぐに気が付いたらしいクレイは満面の笑顔になった。
「本当に美人だったよ、彼女は。聞きたい?」
あまりにも気楽に言うクレイに、サラは怒りで顔を真っ赤にする。
「ことと次第によっては許さないわよ! 第一、他に好きな娘がいるならエリーと結婚なんかしないで頂戴!」
もともと息があがっていたサラは一息に喋ったせいで軽い酸欠状態となり、そう言い終えた後ぜいぜいと息を整えて、再びクレイを睨みつけた。
クレイは赤くなったり青くなったりするサラを心配そうに見つめながら、しかしその反応を楽しんでいる。
「…そうは言ってもね。僕だって一国の皇子だし、結婚を自分の一存で決めることは出来ないんだ。第一、僕とその美人はただ通りすがっただけで、実は何の関係もない」
「あったら大事よっ!」
「じゃあ何をそんなに怒っているんだ?」
「エリーに対する侮辱だからよ!」
「名も知らぬ人をただ、美しいと思うことが?」
その質問にサラはぐっと詰まる。クレイは鳶色の瞳を輝かせてサラを見た。
「…彼女に出会ったのは、この場所なんだ。ちょうど水浴びをしていたみたいでさ。最初は人魚かと思った。次は女神」
「ちょ…ちょっと、クレイッ!」
サラはぎょっとしてクレイを見る。いつの間にか二人の距離は触れ合わんばかりになっていた。
「でも誓って言うけど、覗いていたんじゃない。見惚れていたんだ。…分かるだろう?」
「分かるって、何が?」
「恍けないでくれ。君達長の娘は、人間らしからぬ不思議な力を授かっているように見える。それが特に顕著なのはマイリだ。マイリは僕の心を読めるから、僕の次の行動を知ることが出来るんだろう? だからサラ、本当は君も…」
木の幹にサラの背中がぴったりと付き、目の前のクレイとの距離にも隙間がない。
「私もマイリも、人の心を読むことなんか…」
クレイの鳶色の瞳が、サラの榛色の瞳をしっかりと捉え、その瞳の力強さに驚いたサラは言葉を失った。
亜麻色の髪がサラの額に触れそうなほど近付いて、そのままクレイの唇がサラの唇に柔らかく触れる。
ほんの一瞬のような、それでいてひどく長く感じる時間を、サラは驚きで硬直したまま受け入れた。
「…こういう時は、瞳を閉じてくれないと」
数秒後に重ねていた唇を離したクレイは、呆然としているサラに悪戯っぽく笑ってそう言うと、サラを解放した。
それまで体の動きを完全に封じられていたことにやっと気付いたサラは、体が解放されたと同時に頭にかっと血が上る。
「なっ…何すんのよッ!」
「おっと」
しかし振り上げたサラの右手は、クレイに簡単に摑まれた。
「さすがに二度も叩かれる趣味はないよ。あの時は本当に油断していたんだ。だから、今のでおあいこだ。これであの時の非礼を帳消しにしてあげるよ」
貸しを返してもらったと言わんばかりのクレイの不敵な笑みに、サラは怯む。
クレイはこの行為に慣れている。
こういう行為が挨拶代わりに行われている国もあると聞くが、サラはリブシャ王国から出たことすらない。
サラにとって初めての口付けは、結婚を誓った相手にしか許されないはずだった。
「どう…して、こんなこと」
「君は今、剣を持っているし怒っている。手荒な真似をせずに落ち着いてもらうには、この方法が一番かと思って」
クレイの言葉で、サラは自分が帯剣していたことに気付いた。狩猟小屋に置いて来る間もなく、エリーを見送った後まっすぐここまで来たことを思い出す。
武装している自分から身を守る為にあんなことをした。
…クレイはただ、武人なのだ。
「サラ?」
右手を摑まれて俯いてしまったサラの様子がおかしいことに気付いたクレイは、摑んでいた手を思わず緩めた。
次の瞬間、サラはクレイに摑まれていた右手を振り解くと、逃げるように駆け出していた。
「サラ!」
この状況でまさか逃げられるとは夢にも思っていなかったクレイは、慌ててサラの後を追った。




