第9話
すら浮かんでいる。
「無理はしないでください。保健室に行った方が……」
「ありがとう。でも、次の授業の準備があるから。私がいちいち休んでいたら、また何を言われるか分からないし」
彼女は自嘲するように小さく笑った。
常に完璧な優等生であることを求められ、少しでも隙を見せれば陰口を叩かれる。彼女なりに必死に努力して今の地位を築いているのだ。才能や環境だけで片付けられることを、彼女は誰よりも嫌っていた。
「それに、あなたに心配されるほど弱ってないわ」
彼女は隙のない優等生の佇まいを取り繕い、足早に去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、僕の胸の奥に冷たい予感が渦巻く。
耳鳴り。
その言葉に、僕は昨夜の記憶を呼び起こされた。
汚職貴族の屋敷の地下で感じた、あの不気味な魔道具の波長。
脳を直接揺さぶるような感覚が、エリアの訴える不調と妙に重なる。
ただの体調不良ではないかもしれない。
もし、昨夜のような違法な魔力が、この学園にも持ち込まれているとしたら。
僕の暗殺者としての日常は軌道に乗り始めている。
だが、表の学園を覆う見えない脅威の影が、確実に忍び寄っていた。
翌日の放課後。王立魔法学園の修練場には、冷ややかな空気が満ちていた。
僕は最後の情けとして与えられた、実技試験の追試に臨んでいた。
「さっさとやれ。時間の無駄だ」
腕を組んだ教官が、苛立たしげに顎をしゃくる。周囲を取り囲む生徒たちの視線には、期待など微塵もない。あるのはただ、落ちこぼれの無様な姿を嘲笑おうとする悪意だけだった。
「どうせまた失敗するに決まってる」
「さっさと荷物をまとめて出て行けばいいのに」
遠慮のない囁きが耳に突き刺さる。僕は小さく息を吐き、巨大な魔力測定器の前に立った。
「……『消音』」
右手を前に出し、魔力を練り上げる。僕に使える唯一の異能を発動させた。
その瞬間、修練場を包んでいた微かな風の音や、生徒たちの衣擦れの音がふっと途切れる。だが、測定器はエラー音すら鳴らさず、完全に沈黙したままだ。僕の放つ特殊な波長が、機械の探知機能を根こそぎ打ち消しているからだ。
しかし、威力がすべてを決めるこの学園で、そんな理屈は通用しない。
「やはり駄目か。派手さも威力もない。君の異能は根本的に欠陥品だ」
教官が冷酷な声で告げた。その手には、すでに僕の退学届が握られている。
「これで猶予は終わりだ。ルーク、貴様には正式に退学を宣告する。明日からこの学園に立ち入ることは許されない」
教官の口から放たれたその言葉は、数日前に僕が受けた宣告と全く同じだった。いや、違う。これは現実ではない。学園内に持ち込まれた違法魔道具の波長が、僕の最も恐れる過去の記憶を強制的にフラッシュバックさせ、精神を蝕もうとしているのだ。すでに裏社会で暗殺者としての居場所を見つけている今の僕なら笑い飛ばせるはずだった。だが、脳を直接揺さぶる不気味な魔力は、当時の生々しい感情までも容赦なく引きずり出していく。
再び、周囲から嘲笑が漏れる。
胃の奥が急速に冷たくなっていくのを感じた。視界が狭まり、周囲の音が遠のいていく。退学。その二文字が重くのしかかり、僕は絶望に打ちひしがれた。表社会での僕の価値は、これで完全にゼロになったのだ。
◆ーーーー◆
追試が終わり、生徒たちが三々五々散っていく中、僕は一人で中庭のベンチに座り込んでいた。
膝に置いた両手は、まだ微かに震えている。
「気にすんなよ、ルーク」
不意に声をかけられ、顔を上げる。制服を少し着崩した小柄な少年、トムが立っていた。
「あいつら、魔力の量しか見てねえんだからさ。お前がいなくなったら、俺が最下位になっちまうだろ」
彼は相変わらずのお調子者らしい笑顔で、僕の隣にどっかりと座り込む。権威に媚びない彼だけが、僕を馬鹿にせずに接してくれた。
「ありがとう、トム。でも、もう決まったことだから」
僕は力なく笑い返す。彼の優しさは胸に染みたが、現実が変わるわけではない。
ふと視線を上げると、渡り廊下を歩くエリアの姿があった。
透き通るような銀髪を揺らしていた彼女は、不意に立ち止まり、壁に手をついて辛そうに耳を押さえている。
優等生たちの間で広がる、原因不明の耳鳴りの噂。昨夜の違法魔道具の波長と似た何かが、彼女を苦しめているのだ。
声をかけようと腰を浮かせたが、すぐに座り直した。
退学を宣告された無能な僕が、完璧な優等生である彼女に何を言えるというのか。表の冴えない自分では、声をかけることすらためらわれる。もどかしさだけが胸の奥で渦巻いていた。
◆ーーーー◆
夕暮れの路地裏。退学を宣告され、表社会での未来を完全に絶たれた僕の足取りは重かった。だが、完全な絶望に沈んでいないのは、先日僕の異能を『暗殺において最強』と評価し、裏社会へと導いてくれた存在があったからだ。ふと顔を上げると、影の濃い路地の奥に、凄腕の気配を纏う黒外套の男が静かに佇んでいた。
ジンだ。
「学園を追い出されたそうだな」
待ち伏せしていた彼は、僕の絶望を見透かしたように言った。
「……はい。僕には、もう表の世界に居場所はありません」
「下を向く必要はない。奴らは本質を理解していないだけだ」
ジンは静かに歩み寄り、僕の胸元を指差した。そこには、彼から渡された秒針の鳴らない懐中時計が入っている。
「一切の痕跡を絶つ潜伏技術。呪文の音を消し去る発動。そして敵の詠唱を封じる力。君の持つ異能は、闇の世界で並ぶ者のない頂点の力だ。裏社会では値段がつけられないほどの価値がある」
彼は僕の真の価値を改めて告げ、深く頷いた。
「来い。君の居場所は、我々の中にある」
表の学園で否定された僕を、裏社会の人間が肯定してくれる。その事実に、冷え切っていた胸の奥が少しだけ温かさを取り戻した。
◆ーーーー◆
ジンの言葉に背中を押され、僕はギルドの拠点である酒場の地下へ向かった。
「お疲れ様、ルークくん。学園のことは聞いたわ。でも落ち込んでる暇はないわよ」
扉を開けると、赤髪のミラが棒付きキャンディを転がしながら出迎えてくれた。彼女はカウンターに一枚の羊皮紙を広げる。
「新しい依頼よ。今回は標的を仕留める仕事じゃない。ある重要人物の護衛任務をお願いしたいの」
「護衛、ですか?」
僕は首を傾げた。僕の異能は、敵に気づかれずに接近し、仕留めるためのものだ。誰かを守る盾にはならない。
「普通の護衛は、盾になって攻撃を防ぐ。でも君の役目は違うの。敵が攻撃を仕掛ける前に、その気配を絶って先回りし、無音で排除するのよ。姿を見せずに標的を守り抜く、見えない護衛ね」
ミラは面白そうに微笑み、奥の応接室へと僕を案内した。
部屋の中央には、喪服のような黒いドレスを纏い、長い銀髪を後ろでまとめた青年が座っていた。
「貴殿が、噂に聞く『静寂の暗殺者』か」
気高く真面目な面持ちで、セリアンは僕を見据えた。格式張った硬い口調には、理不尽な暴力に屈しない芯の強さが滲んでいる。
「私はセリアン。現在、敵対する組織から命を狙われている。だが、表立って護衛をつければ、かえって敵を刺激することになる」
彼はまっすぐな瞳で僕を見つめ返した。没落貴族の当主としての責任感が、その立ち姿から伝わってくる。
「だからこそ、誰にも気づかれずに私を守る存在が必要なのだ。あなたに頼めるだろうか」
「……承知しました。依頼は確実に遂行します」
僕は新人暗殺者として、この特殊な任務を引き受けた。
◆ーーーー◆
夜の王都。ガス灯の光が濡れた石畳を照らす中、セリアンが静かに路地を歩いていた。
僕は少し離れた屋根の上から、彼を追従する。
自身の足音や衣擦れの音を完全に消し去り、気配を断つ。瓦を踏む感触はあるが、音は一切鳴らない。
表社会の常識では無能とされた力が、裏社会の実戦では規格外の適性を示していた。同行しているギルドの熟練者たちでさえ、僕の完璧な潜伏行動に驚愕の視線を向けているのが分かる。
僕はさらに『消音』の範囲を広げ、セリアンの周囲十メートルを完全に掌握した。
だが、平穏な時間は長くは続かなかった。
路地の奥から、複数の黒い影が音もなくセリアンに迫る。敵対組織の刺客たちだ。彼らの手元に、微かな魔力の光が灯るのが見えた。
見えない護衛任務が始まる中、鋭い殺意が夜気を切り裂く。
僕は短剣を抜き放ち、無音のまま闇へと跳躍した。




