第8話
「……なんだ、今の」
僕は足を止め、息を呑んだ。
それは、これまで感じたことのないほど重く、不気味な魔力反応だった。
まるで、巨大な獣が地下で目を覚ましたかのような、圧倒的なプレッシャー。
汚職貴族の屋敷の地下に、一体何が隠されているというのか。
僕は警戒を強め、短剣の柄に再び手をかけた。
屋敷の廊下は不気味なほど静まり返っている。
先ほどまで巡回していた強力な魔法を使う警備兵たちはすでに無力化し、標的の命も絶った。任務は完了している。本来ならこのまま窓から脱出し、ギルドへ帰還すべきだ。
だが、床下から這い上がってくる魔力のうねりは、放置すれば周囲一帯に甚大な被害を及ぼしかねないほど膨れ上がっていた。
僕は足音を完全に殺し、気配の出所である地下階段へと向かった。
石造りの階段は暗く、一段下りるごとに空気が重く、粘り気を帯びていくように感じられる。
壁には松明すらなく、完全な暗闇が広がっている。だが、暗殺者としての訓練を受けた僕の目は、わずかな光の粒子を捉えて周囲の輪郭を浮かび上がらせていた。
肌を刺すような魔力の密度。
普通の魔法使いなら、この場にいるだけで魔力酔いを起こして倒れてしまうだろう。
最下層を塞ぐ重厚な鉄扉の前に立ち、厳重な錠前に手を伸ばす。
鍵穴に短剣の柄を当て、内部の機構を音もなく破壊する。
扉を押し開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
地下室の中央に、それは鎮座していた。
石の台座の上に置かれた、脈打つように紫色の光を放つ球体の魔道具。
表面には複雑な術式がびっしりと刻まれ、不規則な明滅を繰り返している。まるで、それ自体が意思を持って呼吸しているかのようなおぞましさがあった。
近づいた瞬間、強烈な波長が空間を震わせ、僕の脳を直接揺さぶった。
「——っ!」
視界がぐにゃりと歪み、平衡感覚が奪われる。
不快なノイズと共に、頭の中に幻聴が響き始めた。
『派手さも威力もない役立たず』
『お前がいても何の役にも立たない』
『さっさと出て行け、落ちこぼれ』
両手で耳を塞いでも、脳内に直接響く罵声は止まらない。
それは、僕が最も恐れ、忌み嫌う記憶の残滓だった。
火力偏重の魔法至上主義を掲げる王立学園。
そこでは、魔法の威力と派手さが人間の価値のすべてを決める。
攻撃力皆無の力しか持たない僕は、周囲から常に嘲笑の的だった。
実技試験で魔力測定器を前に立ち尽くす自分。
教頭から冷酷に告げられた退学宣告。
自分は無能だという絶望が、冷たい泥のように足元から這い上がってくる。
息が詰まり、膝から崩れ落ちそうになる。
視界の端で、紫色の光がさらに強く瞬いた。
対象のトラウマや強い記憶を暴走させ、精神を破壊する。それがこの違法魔道具の機能なのだろう。
だが、幻聴はそれだけでは終わらなかった。
絶望の底に沈みかけた僕の脳裏に、別の光景がフラッシュバックする。
失意の帰路、暗い路地裏。
待ち伏せしていたジンさんの姿。
『お前の力は、暗殺において最強だ』
低い、だが確信に満ちた声。
彼は僕の力を否定しなかった。気配の完全遮断、そして呪文の省略と妨害。
表の学園では無価値とされた力が、裏社会においては規格外の価値を持つと断言してくれた。
路地裏の暗がりで差し出された黒いギルド証の冷たい感触が、今も掌に残っている。
そして、ギルドに加入して挑んだ初任務の記憶が鮮明に蘇る。
表社会の常識が通用しない裏社会の実戦。
そこで僕の力は、プロの暗殺者たちすら驚愕させるほどの適性を示した。
無音の名を与えられ、僕は新たな生きる道を見出したのだ。
過去の記憶を強制的に引きずり出す精神干渉。
僕は短剣の柄を強く握り直し、荒くなる呼吸を整えた。
もう、あの頃の僕じゃない。
自分を認めてくれた人たちがいる。与えられた任務は必ず完遂する。
魔道具が放つ波長を、空間を震わせる一種の「音」として捉える。
目を閉じ、意識を集中させる。
暴走する魔力のうねり。その周期と振幅を正確に読み取り、逆位相の力をぶつける。
僕の異能は、指定した空間の振動を完全にゼロにする。
干渉波が相殺され、不快な振動がピタリと止む。
暴走の兆しを見せていた紫色の光が、ふっと色褪せて沈黙した。
未然に防ぐことができたようだ。
僕は周囲に他の気配がないことを確認し、屋敷からの離脱を開始した。
◆ーーーー◆
裏路地の奥深くにある酒場。
薄暗い店内には、今日も訳ありの客たちが身を潜めるようにグラスを傾けている。
カウンターの奥で、ミラさんが棒付きキャンディを転がしながら報告書に目を通していた。
「へえ……ただの暗殺任務かと思ったら、とんでもないお土産を見つけてきたわね」
彼女は派手な装飾品を揺らし、感心したように息を吐く。
「地下に隠されていた違法魔道具。放置していれば、屋敷ごと吹き飛ぶか、周囲の人間が精神を壊されていたかもしれないわ」
「偶然見つけただけです。波長を打ち消したら、動かなくなったので」
僕が控えめに答えると、ミラさんは呆れたように肩をすくめた。
「ルークくん、自分のやったことの異常さに気づいてないでしょ。標的を仕留めるだけじゃなく、予期せぬ暴走まで無傷で止めて帰ってくるなんて」
彼女はキャンディを噛み砕き、楽しげな笑みを浮かべる。
「本当に、規格外の新人ね。ジンが目をかけるわけだわ」
からかうような軽い口調の中にも、確かな信頼の色が滲んでいた。
「これからも頼りにしてるわよ、ルークくん」
自分を認めてくれた人たちの期待に応えられたことが、素直に嬉しい。
僕は小さく頭を下げ、酒場を後にした。
◆ーーーー◆
翌日の学園。
相変わらず、周囲の生徒たちは僕を透明人間のように扱っている。
廊下を歩いていると、前方に銀髪の女生徒の姿が見えた。
エリアだ。
彼女は壁に手をつき、辛そうに眉根を寄せている。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「……ええ、平気よ。少し、耳鳴りがしただけだから」
強がるように姿勢を正す彼女の顔色は、明らかに青白い。額には冷や汗すら浮かんでいる。
「無理はしないでください。保健室に行った方が……」
「ありがとう。でも、次の授業の準備があるから。私がいちいち休んでいたら、また何を言われるか分からないし」
彼女は自嘲するように小さく笑った。
常に完璧な優等生であることを求められ、少しでも隙を見せれば陰口を叩かれる。彼女なりに必死に努力して今の地位を築いているのだ。才能や環境だけで片付けられることを、彼女は誰よりも嫌っていた。
「それに、あなたに心配されるほど弱ってないわ」
彼女は隙のない優等生の佇まいを取り繕い、足早に去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、僕の胸の奥に冷たい予感が渦巻く。
耳鳴り。
その言葉に、僕は昨夜の記憶を呼び起こされた。
汚職貴族の屋敷の地下で感じた、あの不気味な魔道具の波長。
脳を直接揺さぶるような感覚が、エリアの訴える不調と妙に重なる。
ただの体調不良ではないかもしれない。
もし、昨夜のような違法な魔力が、この学園にも持ち込まれているとしたら。
僕の暗殺者としての日常は軌道に乗り始めている。
だが、表の学園を覆う見えない脅威の影が、確実に忍び寄っていた。




