↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/30

第7話

夜の闇に溶け込むように、僕は屋敷の敷地を囲む石壁へと歩を進めた。


壁の表面には、微かな光を帯びた魔力の糸が張り巡らされている。触れれば即座に警報が鳴り響く、高位の探知結界だ。


僕は右手を前に出し、魔力を練り上げる。


「……」


声には出さない。僕の魔法は、発動のプロセスそのものを無音化できる。


結界の探知波と僕の魔法が衝突し、波長が完全に相殺される。光の糸がふっと途切れ、人が一人通れるだけの穴が開いた。


エラー音すら鳴らない。かつて学園の魔力測定器を沈黙させたのと同じ原理だ。


僕は音もなく壁を蹴り、敷地内へと着地した。


足裏が芝生を踏む感触はあるが、衣擦れの音も、着地の衝撃音も、すべてが僕の支配下にある空間に吸い込まれていく。


巡回する警備兵の動きをうかがいながら、僕はふと、昼間の学園での出来事を思い出していた。


「おい、ルーク。まだ荷物をまとめていなかったのか?」


廊下ですれ違ったレオンが、取り巻きを引き連れて僕の前に立ち塞がった。彼の胸元では、特待生のバッジが誇らしげに光っている。


「追放が決まった落ちこぼれが、いつまでも学園の空気を汚すな。お前みたいな魔力のないゴミは、さっさと路地裏にでも消えればいいんだよ」


傲慢で嫌味ったらしい、選民思想が滲み出る口調。取り巻きの生徒たちも、彼に同調して下劣な笑い声を上げる。


以前の僕なら、その言葉に胃の奥が冷たくなり、俯くことしかできなかったはずだ。実技試験の直後、冷たい声で学園からの追放を言い渡された時の記憶が蘇る。あの時の僕は、足元の床が崩れ落ちていくような感覚に陥り、ただ震えることしかできなかった。


だが、今の僕は違う。


レオンの言葉を浴びながら、僕の目は無意識に彼の隙を探っていた。


顎が上がっている。重心が踵に偏りすぎている。もし今、僕が懐の短剣を抜けば、彼が長い詠唱を終える前に、その喉笛を三度は切り裂ける。


魔力の高さが人間の価値だと信じて疑わない彼らは、実戦における速度と静寂の恐ろしさを知らない。


僕は内心で冷徹に彼を分析しながら、表向きは怯えたように視線を伏せた。


「……ごめん。すぐに、出ていくよ」


適当にやり過ごし、足早にその場を立ち去る。背後から聞こえる嘲笑は、もう僕の歩みを止めることはなかった。


意識を現在に戻す。


目の前の庭園を、二人の警備兵が歩いてくる。手には魔力を帯びた杖が握られ、いつでも強力な攻撃魔法を放てるよう警戒を怠っていない。


彼らの魔法には致命的な弱点がある。


強力な魔法ほど、長く複雑な詠唱が必要になるという、表社会の常識だ。


僕は植え込みの影から滑り出るように移動し、背後から一人目の警備兵に接近した。


距離は一メートル。相手は全く気づいていない。


僕は短剣の柄尻で、男の延髄を正確に打ち抜いた。


「がっ……」


声にならない呻きすらも、僕の魔法が空間ごと呑み込む。崩れ落ちる体を支え、音を立てずに芝生へと寝かせる。


異変に気づいたもう一人が振り返ろうとした瞬間、僕はすでにその懐に潜り込んでいた。


「なっ、貴様——『炎よ、我が敵を——」


男が杖を構え、詠唱を始めようとする。


遅い。


僕は男の顎を下から跳ね上げ、脳を揺らして意識を刈り取った。


詠唱は途切れ、杖の先端に灯りかけた火の粉が虚しく散る。


詠唱の省略と、絶対的な無音。それが、僕の魔法の真の価値。


僕は倒れた二人を一瞥し、屋敷の壁を登り始めた。二階の書斎の窓は、すぐそこだ。


◆ーーーー◆


屋敷から少し離れた時計塔の屋根の上で、俺は単眼鏡を下ろした。


「……末恐ろしいガキだぜ、まったく」


思わず口から漏れた呟きは、夜風に攫われて消えた。


月明かりの下、厳重な警備網が敷かれた汚職貴族の屋敷。その庭園を、黒い影が文字通り音もなく駆け抜けていく。


ルークの動きには、一切の無駄がなかった。


プロの暗殺者でも手こずるであろう高位の探知結界を素通りし、強力な魔法使いであるはずの警備兵たちを、赤子を捻るように無力化していく。


あの日、失意の底で路地裏を歩いていた彼を待ち伏せし、スカウトした時のことを思い出す。


学園で居場所を奪われ、暗い瞳をして立ち尽くしていた少年。


俺の直感は間違っていなかった。


あいつの魔法が持つ気配の完全な遮断、そして自身の詠唱音を消すことによる実質的な魔法の無音発動。さらには相手の音を奪う詠唱の妨害。


表社会の連中には理解できないだろうが、裏社会において、あれは値段がつけられないほどの規格外の価値を持つ。


目に見える炎の大きさだけで、人間の価値を測る連中だ。笑わせてくれる。


表社会の権威や常識を盲信する連中は、本当に恐ろしいものが何なのかを知らない。


音もなく忍び寄り、気づかれた時にはすでに命を刈り取っている。それこそが、暗殺において最強の能力だ。


ルークは今、俺の期待を遥かに超える速度で成長している。


あいつが裏社会で最強の暗殺者に育ち、表社会の連中の鼻を明かす日も、そう遠くはないだろう。


俺は紫煙を吐き出しながら、再び単眼鏡を構えた。


◆ーーーー◆


窓の隙間に短剣を差し込んで鍵を外し、書斎の分厚い絨毯へと降り立つ。


部屋の中央にある豪奢なデスク。その奥の革張りの椅子に、ターゲットである汚職貴族が深く腰掛けていた。


彼は手元の書類に目を落とし、何やら不機嫌そうに舌打ちをしている。


昼間、学園でバイス教頭と密会していた男。彼が生きている限り、学園の日常は脅かされ続ける。


僕は短剣を逆手に構え、絨毯の上を滑るように歩み寄った。


足音はない。呼吸音も、衣擦れの音も、すべてを消し去っている。


距離が三メートルを切ったとき、男がふと顔を上げた。


「……誰だ?」


男の視線が僕を捉える。その声にはまだ現実感が伴っていなかった。


厳重な警備を抜け、無音で自室に侵入者が現れるなど、彼の常識ではあり得ないことだからだ。


「貴様、どうやってここへ——『風の刃よ、我が敵を切り裂け』!」


男は慌てて引き出しから短い杖を取り出し、早口で詠唱を紡ぐ。


その声は僕の魔法によって空間に遮断され、魔力の励起が途中で霧散した。


「なっ……魔法が、発動しない……!?」


男の顔に、明確な恐怖が浮かび上がる。


僕は無言のまま距離を詰め、男の背後に回り込んだ。


「ひっ、助け——」


命乞いの言葉が紡がれるより早く、僕は短剣で男の頸動脈を引き裂いた。音もなく崩れ落ちる死体を一瞥し、刃の血を拭って鞘に収め、脱出のために窓へと踵を返した。


血しぶきの音すらも消え失せた静寂の中、男の体がビクンと跳ね、やがて力なく椅子に崩れ落ちる。


確かな手応えが、短剣の柄から手のひらへと伝わってきた。


拾ってもらった恩は、仕事の結果で返す。ジンさんたちの期待に応えるためなら、どんな壁でも越えてみせる。


表の学園では無価値とされた僕の力が、裏社会の実戦において、これほどまでに通用する。


僕は短剣の血を拭い、鞘に収めた。


ギルドから与えられた、無音を意味する新たな名。それが、僕が見つけた新たな生きる道だった。


胸の奥に、小さな前進の手応えと、確かな熱が灯るのを感じる。


任務は完了した。あとは、来た道を戻って屋敷を脱出するだけだ。


僕は踵を返し、窓へと向かおうとした。


その時だった。


——ドクン。


足元の床下、屋敷のさらに奥深くから、異様な気配が這い上がってきた。


「……なんだ、今の」


僕は足を止め、息を呑んだ。


それは、これまで感じたことのないほど重く、不気味な魔力反応だった。


まるで、巨大な獣が地下で目を覚ましたかのような、圧倒的なプレッシャー。


汚職貴族の屋敷の地下に、一体何が隠されているというのか。


僕は警戒を強め、短剣の柄に再び手をかけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。