第7話
夜の闇に溶け込むように、僕は屋敷の敷地を囲む石壁へと歩を進めた。
壁の表面には、微かな光を帯びた魔力の糸が張り巡らされている。触れれば即座に警報が鳴り響く、高位の探知結界だ。
僕は右手を前に出し、魔力を練り上げる。
「……」
声には出さない。僕の魔法は、発動のプロセスそのものを無音化できる。
結界の探知波と僕の魔法が衝突し、波長が完全に相殺される。光の糸がふっと途切れ、人が一人通れるだけの穴が開いた。
エラー音すら鳴らない。かつて学園の魔力測定器を沈黙させたのと同じ原理だ。
僕は音もなく壁を蹴り、敷地内へと着地した。
足裏が芝生を踏む感触はあるが、衣擦れの音も、着地の衝撃音も、すべてが僕の支配下にある空間に吸い込まれていく。
巡回する警備兵の動きをうかがいながら、僕はふと、昼間の学園での出来事を思い出していた。
「おい、ルーク。まだ荷物をまとめていなかったのか?」
廊下ですれ違ったレオンが、取り巻きを引き連れて僕の前に立ち塞がった。彼の胸元では、特待生のバッジが誇らしげに光っている。
「追放が決まった落ちこぼれが、いつまでも学園の空気を汚すな。お前みたいな魔力のないゴミは、さっさと路地裏にでも消えればいいんだよ」
傲慢で嫌味ったらしい、選民思想が滲み出る口調。取り巻きの生徒たちも、彼に同調して下劣な笑い声を上げる。
以前の僕なら、その言葉に胃の奥が冷たくなり、俯くことしかできなかったはずだ。実技試験の直後、冷たい声で学園からの追放を言い渡された時の記憶が蘇る。あの時の僕は、足元の床が崩れ落ちていくような感覚に陥り、ただ震えることしかできなかった。
だが、今の僕は違う。
レオンの言葉を浴びながら、僕の目は無意識に彼の隙を探っていた。
顎が上がっている。重心が踵に偏りすぎている。もし今、僕が懐の短剣を抜けば、彼が長い詠唱を終える前に、その喉笛を三度は切り裂ける。
魔力の高さが人間の価値だと信じて疑わない彼らは、実戦における速度と静寂の恐ろしさを知らない。
僕は内心で冷徹に彼を分析しながら、表向きは怯えたように視線を伏せた。
「……ごめん。すぐに、出ていくよ」
適当にやり過ごし、足早にその場を立ち去る。背後から聞こえる嘲笑は、もう僕の歩みを止めることはなかった。
意識を現在に戻す。
目の前の庭園を、二人の警備兵が歩いてくる。手には魔力を帯びた杖が握られ、いつでも強力な攻撃魔法を放てるよう警戒を怠っていない。
彼らの魔法には致命的な弱点がある。
強力な魔法ほど、長く複雑な詠唱が必要になるという、表社会の常識だ。
僕は植え込みの影から滑り出るように移動し、背後から一人目の警備兵に接近した。
距離は一メートル。相手は全く気づいていない。
僕は短剣の柄尻で、男の延髄を正確に打ち抜いた。
「がっ……」
声にならない呻きすらも、僕の魔法が空間ごと呑み込む。崩れ落ちる体を支え、音を立てずに芝生へと寝かせる。
異変に気づいたもう一人が振り返ろうとした瞬間、僕はすでにその懐に潜り込んでいた。
「なっ、貴様——『炎よ、我が敵を——」
男が杖を構え、詠唱を始めようとする。
遅い。
僕は男の顎を下から跳ね上げ、脳を揺らして意識を刈り取った。
詠唱は途切れ、杖の先端に灯りかけた火の粉が虚しく散る。
詠唱の省略と、絶対的な無音。それが、僕の魔法の真の価値。
僕は倒れた二人を一瞥し、屋敷の壁を登り始めた。二階の書斎の窓は、すぐそこだ。
◆ーーーー◆
屋敷から少し離れた時計塔の屋根の上で、俺は単眼鏡を下ろした。
「……末恐ろしいガキだぜ、まったく」
思わず口から漏れた呟きは、夜風に攫われて消えた。
月明かりの下、厳重な警備網が敷かれた汚職貴族の屋敷。その庭園を、黒い影が文字通り音もなく駆け抜けていく。
ルークの動きには、一切の無駄がなかった。
プロの暗殺者でも手こずるであろう高位の探知結界を素通りし、強力な魔法使いであるはずの警備兵たちを、赤子を捻るように無力化していく。
あの日、失意の底で路地裏を歩いていた彼を待ち伏せし、スカウトした時のことを思い出す。
学園で居場所を奪われ、暗い瞳をして立ち尽くしていた少年。
俺の直感は間違っていなかった。
あいつの魔法が持つ気配の完全な遮断、そして自身の詠唱音を消すことによる実質的な魔法の無音発動。さらには相手の音を奪う詠唱の妨害。
表社会の連中には理解できないだろうが、裏社会において、あれは値段がつけられないほどの規格外の価値を持つ。
目に見える炎の大きさだけで、人間の価値を測る連中だ。笑わせてくれる。
表社会の権威や常識を盲信する連中は、本当に恐ろしいものが何なのかを知らない。
音もなく忍び寄り、気づかれた時にはすでに命を刈り取っている。それこそが、暗殺において最強の能力だ。
ルークは今、俺の期待を遥かに超える速度で成長している。
あいつが裏社会で最強の暗殺者に育ち、表社会の連中の鼻を明かす日も、そう遠くはないだろう。
俺は紫煙を吐き出しながら、再び単眼鏡を構えた。
◆ーーーー◆
窓の隙間に短剣を差し込んで鍵を外し、書斎の分厚い絨毯へと降り立つ。
部屋の中央にある豪奢なデスク。その奥の革張りの椅子に、ターゲットである汚職貴族が深く腰掛けていた。
彼は手元の書類に目を落とし、何やら不機嫌そうに舌打ちをしている。
昼間、学園でバイス教頭と密会していた男。彼が生きている限り、学園の日常は脅かされ続ける。
僕は短剣を逆手に構え、絨毯の上を滑るように歩み寄った。
足音はない。呼吸音も、衣擦れの音も、すべてを消し去っている。
距離が三メートルを切ったとき、男がふと顔を上げた。
「……誰だ?」
男の視線が僕を捉える。その声にはまだ現実感が伴っていなかった。
厳重な警備を抜け、無音で自室に侵入者が現れるなど、彼の常識ではあり得ないことだからだ。
「貴様、どうやってここへ——『風の刃よ、我が敵を切り裂け』!」
男は慌てて引き出しから短い杖を取り出し、早口で詠唱を紡ぐ。
その声は僕の魔法によって空間に遮断され、魔力の励起が途中で霧散した。
「なっ……魔法が、発動しない……!?」
男の顔に、明確な恐怖が浮かび上がる。
僕は無言のまま距離を詰め、男の背後に回り込んだ。
「ひっ、助け——」
命乞いの言葉が紡がれるより早く、僕は短剣で男の頸動脈を引き裂いた。音もなく崩れ落ちる死体を一瞥し、刃の血を拭って鞘に収め、脱出のために窓へと踵を返した。
血しぶきの音すらも消え失せた静寂の中、男の体がビクンと跳ね、やがて力なく椅子に崩れ落ちる。
確かな手応えが、短剣の柄から手のひらへと伝わってきた。
拾ってもらった恩は、仕事の結果で返す。ジンさんたちの期待に応えるためなら、どんな壁でも越えてみせる。
表の学園では無価値とされた僕の力が、裏社会の実戦において、これほどまでに通用する。
僕は短剣の血を拭い、鞘に収めた。
ギルドから与えられた、無音を意味する新たな名。それが、僕が見つけた新たな生きる道だった。
胸の奥に、小さな前進の手応えと、確かな熱が灯るのを感じる。
任務は完了した。あとは、来た道を戻って屋敷を脱出するだけだ。
僕は踵を返し、窓へと向かおうとした。
その時だった。
——ドクン。
足元の床下、屋敷のさらに奥深くから、異様な気配が這い上がってきた。
「……なんだ、今の」
僕は足を止め、息を呑んだ。
それは、これまで感じたことのないほど重く、不気味な魔力反応だった。
まるで、巨大な獣が地下で目を覚ましたかのような、圧倒的なプレッシャー。
汚職貴族の屋敷の地下に、一体何が隠されているというのか。
僕は警戒を強め、短剣の柄に再び手をかけた。




