第5話
エリアの背中を見送りながら、僕は眉をひそめる。
見えない何かが、この学園の裏側で静かに蠢いている。そんな不穏な気配が、僕の肌を粟立たせた。
彼女が訴えていた原因不明の耳鳴り。医務室でも異常は見つからなかったというが、彼女の周囲でだけ起きるその現象は、ただの体調不良とは思えなかった。何らかの特殊な魔法の波長が、学園内に干渉しているのではないか。だとしたら、その目的は何なのか。
「おい、ルーク。こんな所で何をしている」
冷ややかな声に振り返ると、恰幅の良いバイス教頭が立っていた。高価な魔法石の指輪をはめた指先には、数枚の羊皮紙が握られている。
「退学手続きの最終書類だ。サインして、明日の朝までに提出しろ」
教頭は僕の胸に書類を押し付けるようにして渡してきた。彼の目には、路傍の石を見るような明確な侮蔑の色が浮かんでいる。
「お前のような、派手さも威力もない役立たずが、いつまでもこの神聖な学園に居座れると思うなよ。魔法使いの面汚しめ。さっさと荷物をまとめて出て行け」
吐き捨てるような言葉。以前の僕なら、この言葉に胃の奥が冷たくなり、絶望に打ちひしがれていたはずだ。自分の存在価値を疑い、ただ俯くことしかできなかった。
だが今は違う。胸の奥にあるのは、驚くほどの静けさだった。
表社会での無能扱いは、もはや僕を傷つけることはない。僕には、裏社会という本当の居場所があるのだから。
「……分かりました。手続きは済ませておきます」
僕が淡々と答えると、教頭は拍子抜けしたように顔をしかめ、忌々しげに舌打ちをして去っていった。
書類に視線を落とす。退学宣告。それは僕が表社会から完全に切り捨てられた証だ。けれど、もう恐れることはない。
「ルーク! お前、また教頭に絡まれてたのか?」
廊下の向こうから、制服を少し着崩した小柄な少年が駆け寄ってきた。悪友のトムだ。彼は僕の手にある書類を見て、気まずそうに目を逸らした。
「あー……その、なんだ。気にすんなよ。あいつら、魔力の量しか見てねえ頭の固い連中なんだからさ」
トムは僕の隣に並び、肩を軽く叩いて不器用に励ましてくれる。彼も成績は下から数えた方が早いが、権威に媚びない性格のおかげで、僕を馬鹿にすることなく接してくれた数少ない友人だ。彼との他愛のない会話は、息の詰まる学園生活の中で唯一の救いだった。
「ありがとう、トム。でも、本当に大丈夫だよ」
僕が微笑みかけると、トムは目を丸くした。
「お前……なんか雰囲気変わったな。前みたいに、この世の終わりみたいな顔してないっていうか。ちょっと安心したぜ」
「そうかな。自分ではよく分からないけど」
「まあいいや! 落ち込んでないなら、放課後サボって街に遊びに行こうぜ。美味い串焼き屋を見つけたんだ」
「ごめん、今日は用事があるんだ。また今度誘ってよ」
トムと別れ、僕は学園を後にした。
彼のような普通の学生が笑って過ごせるこの場所は、僕にとってもうすぐ過去のものになる。それでも、この穏やかな日常が嫌いだったわけではない。
◆ーーーー◆
夕暮れ時。王都の喧騒から離れた、薄暗い路地裏を歩く。
石畳に落ちる影が長く伸び、冷たい風が頬を撫でていく。ポケットの中にある、秒針の音がしない懐中時計に触れた。ジンから渡された、裏社会への道標だ。
「随分と足取りが軽いな」
不意に、頭上から声が降ってきた。
見上げると、建物の陰に黒い外套を羽織った男が立っていた。ジンだ。彼は音もなく石畳に降り立ち、僕の前に歩み寄る。彼の足元からは、微かな衣擦れの音すら聞こえない。それがどれほど高度な技術なのか、今の僕にはよく分かっていた。
「昨夜の初任務、見事だった。警備兵の誰一人として、お前の接近に気づかなかったそうだな」
「……あなたが、遠くから見ていたんでしょう?」
僕が尋ねると、ジンは口元に微かな笑みを浮かべた。
「ああ。お前の『消音』魔法は、やはり俺の目に狂いがなかったと証明してくれた。足音や衣擦れ、呼吸音すら完全に消し去る完全隠密。そして、自身の詠唱音を消すことで実現する、魔法の無音発動。表の連中には理解できないだろうが、裏社会においてお前の能力は規格外だ」
ジンは僕の目を真っ直ぐに見据えた。
「値段がつけられないほどの価値がある。ルーク、お前はもう、路地裏で震える落第生じゃない。俺たちの世界で生きる覚悟は、完全に決まったようだな」
「はい。僕を認めてくれたあなたたちを、絶対に裏切りません。与えられた任務は必ず完遂します」
僕の言葉に、ジンは満足げに頷いた。
「いい目になった。さあ、ギルドへ行け。お前の新しい居場所が待っている」
◆ーーーー◆
懐中時計の地図が示す通りに進み、裏路地の奥にある酒場へと足を踏み入れる。
昼間は閑散としている店内だが、カウンターの奥にはいつものように赤髪の女性が座っていた。情報屋であり、ギルドの受付嬢でもあるミラだ。彼女は派手な装飾品を揺らしながら、口にくわえていた棒付きキャンディを転がし、面白がるような視線を向けてきた。
「あら、ルークくん。いらっしゃい」
「昨夜の任務の報告に来ました。ターゲットの処理、完了しています」
僕が静かに告げると、ミラは手元の書類から顔を上げ、目を瞬かせた。
「……本当に? 報告書は上がってきてるけど、まさか無傷で、しかも誰一人として警備に気づかれずに帰還するなんてね。正直、ジンが連れてきたとはいえ、最初は半信半疑だったのよ」
ミラはカウンターから身を乗り出し、僕を頭から爪先まで観察する。
「魔力測定器すら沈黙させる特異な魔法。それが暗殺においてどれほどの脅威になるか、昨夜の実戦で証明したわね。見直したわ、ルークくん」
「ありがとうございます。でも、まだ始まったばかりですから」
「謙虚なのもいいけど、裏社会じゃもっと自信を持っていいのよ。ほら、これ」
ミラはカウンターの下から、黒い金属製の小さなプレートを取り出し、僕に差し出した。そこには、僕のコードネームが刻まれている。
「今日から君は、正式なギルドのメンバーよ。新人暗殺者『サイレンス』。これが君の新しい名前であり、居場所の証明」
プレートを受け取ると、金属の冷たい感触が手のひらに伝わってきた。
サイレンス。
表社会では無能と嘲笑され、退学を宣告された僕が、裏社会で手に入れた新たな証。
僕はプレートを強く握り締めた。もう、誰からも必要とされず、見捨てられる恐怖に怯えることはない。僕にはこの力があり、それを必要としてくれる人たちがいる。
そして、表社会の平和な日常——トムのような友人が笑って過ごせる場所を、裏側から守ることもできるかもしれない。
学園で感じたあの不穏な気配。エリアを苦しめていた原因不明の耳鳴り。もしあれが、誰かの悪意によるものだとしたら。
僕は、手に入れたこの居場所を守り抜くためにも、暗殺活動を完璧にこなす決意を固めた。
「さて、感慨に浸っているところ悪いんだけど」
ミラが軽い調子で言いながら、新たな羊皮紙をカウンターに滑らせた。
「早速だけど、次の仕事よ。サイレンスとしての初任務ってところね」
羊皮紙に目を落とす。そこには、ターゲットの顔写真と詳細な情報が記されていた。肥え太った体躯に、傲慢さを隠そうともしない冷酷な瞳。
「この男……」
「そう。王都の裏で違法な魔導具を密売している汚職貴族よ。厄介なことに、君が通っている王立魔法学園の運営にも深く関わっているわ」
ミラはキャンディの棒を指で弾き、真剣な目を向けた。
「学園の内部にも、彼の息がかかった連中が潜り込んでいる可能性が高い。どうする? 学園に関わる標的だけど、やれる?」
僕は羊皮紙を見つめたまま、静かに息を吸い込んだ。
学園に影響力を持つ貴族。もし彼を放置すれば、あの不穏な気配はさらに広がり、トムやエリアたちの日常を脅かすことになるかもしれない。表社会では何もできない落第生でも、裏社会の暗殺者としてなら、彼らの明日を守ることができる。
「やります」
僕の答えに迷いはなかった。
「僕の魔法で、すべての音を消し去ります。誰にも気づかれることなく、確実に」
裏社会で生きる覚悟は、すでに決まっている。
僕は依頼書を手に取り、静かに酒場を後にした。




