第4話
深く息を吸い込み、魔力を全身に巡らせる。
世界から、すべての音が切り取られた。
僕は短剣を逆手に構え、漆黒の闇の中へと足を踏み出した。
夜の王都は、冷たい風が吹き抜けていた。
高い石造りの塀に囲まれた豪奢な屋敷。その外周には、武装した警備兵たちが等間隔で配置され、鋭い視線を巡らせている。
塀の上には微かに光る魔力線が走り、侵入者を感知するための結界が幾重にも張られていた。
僕は塀の死角に身を潜め、石の表面に手をかける。
身軽に跳躍し、塀を乗り越えた。着地の際、足裏に硬い石畳の感触が確かに伝わった。だが、衝撃音は一切鳴らない。
衣擦れも、荒くなった呼吸音も、早鐘を打つ心臓の鼓動すらも、僕の周囲からは完全に切り離されていた。自分の発する音が一切聞こえないという異常な静寂が、逆に僕の集中力を極限まで高めていく。
庭の植え込みに身を隠す。
数メートル先を、二人の警備兵が通り過ぎていく。
彼らの重い足音や、金属製の鎧が擦れる音は、夜風に乗って僕の耳に届いていた。しかし、僕の側からは何の音も発せられない。
「異常はないか?」
「ああ。結界も静かなもんだ。ネズミ一匹入り込めやしないさ」
頭上を交差する魔力灯の光を避けながら、僕は影から影へと滑るように移動した。
彼らは微かな物音や、侵入者を感知する結界の反応に頼り切っている。だが、僕の「消音」魔法は、機械の探知波すらも打ち消してしまう。
かつて学園の魔力測定器を完全に沈黙させたこの力は、警備用の高度な魔道具にもエラー音一つ鳴らさせない。表の世界の常識で構築された警備網など、僕にとっては存在しないも同然だった。
屋敷の壁に張り付き、二階の窓を目指して外壁を登り始める。
その最中、ふと下を巡回する警備兵の一人が、退屈しのぎに手の中で小さな炎の魔法を弄んでいるのが見えた。
揺らめく赤い光。
それが、僕の脳裏に忌まわしい記憶をフラッシュバックさせる。
王立学園の修練場。鼓膜を揺らす轟音と、目を焼くような閃光。
火力偏重の魔法至上主義が支配するあの場所で、僕はただの異物だった。
いくら魔力を練り上げても、僕の魔法は派手なエフェクトも破壊力も生み出せない。
『今回の実技試験をもって、貴様を退学処分とする』
バイス教頭の冷酷な声が、耳の奥で蘇る。
それに続くように、特待生たちの嘲笑が響き渡った。一瞬、指先が止まった。
自分は無能だ。この世界に居場所などない。
あの時の絶望が、冷たい泥のように胃の奥にこびりついている。外壁を掴む手にじわりと汗が滲んだ。
少しでも気を抜けば、その泥が全身に回り、足場を滑らせてしまいそうだった。再び誰からも必要とされず、無能として見捨てられる恐怖が、足元から這い上がってくる。
だが、僕は胸元のポケットに入れた無音の懐中時計越しに、自分の鼓動を確かめた。
失意の底を歩いていた夜の路地裏。そこで待ち伏せていたジンの姿が浮かぶ。
『お前の魔法は、値段がつけられないほどの価値がある』
彼は僕を嘲笑わなかった。完全隠密、無詠唱化、詠唱妨害。表社会では無価値とされた力を、裏社会の規格外の才能だと断言してくれた。
その言葉が、泥のような絶望を打ち払う。
僕は無能じゃない。彼が認めてくれたこの力を、証明しなければならない。
小さく息を吐き出し、再び手足に力を込める。
窓枠に手をかけ、音もなく二階の廊下へと滑り込んだ。
◆ーーーー◆
分厚い絨毯の上を歩く。足が沈み込む感覚はあるが、やはり音はない。
ターゲットの寝室は、廊下の突き当たりにあった。
鍵のかかった重厚な木製の扉の前に立つ。ガルドから受け取った特殊な器具を鍵穴に差し込み、慎重に動かす。
カチリという手応えだけが指先に伝わり、無音のまま錠が外れた。
扉を押し開け、室内へ足を踏み入れる。
豪華な天蓋付きのベッドで、標的である悪徳商人がいびきをかいて眠っていた。部屋の隅には金貨の詰まった袋が無造作に積まれ、贅を尽くした調度品が月明かりに照らされている。
隣の部屋には、護衛の魔法使いが控えている気配がある。微かにカードゲームに興じる声が聞こえてきた。彼らは「詠唱」の音や、物理的な侵入音を警戒しているはずだ。
だが、音という概念そのものを消し去る僕の魔法には、全く対応できない。
ベッドに近づき、短剣を逆手に構える。
迷いはなかった。僕は裏社会で生きていくと決めたのだ。
与えられた任務は必ず完遂する。それが、僕を拾ってくれたジンへの恩返しになる。
刃を振り下ろす。
肉を裂き、命を絶つその瞬間すら、完全な静寂に包まれていた。
標的は悲鳴を上げることもなく、ただ目を見開き、そして事切れた。
黒ずんだ血がシーツを染めていく。
僕は自分の両手を見下ろした。
人を殺めたという事実は重い。だが、それ以上に、自分の力が「任務を完遂した」という確かな手応えが全身を満たしていた。
プロの暗殺者たちですら困難な潜入と暗殺を、僕は無傷で、誰にも気づかれずに成し遂げたのだ。
裏社会の実戦において、僕の魔法は最強の武器になる。
新たな生きる道が、はっきりと目の前に開けていた。
◆ーーーー◆
屋敷を離脱し、指定された合流地点の路地裏へ戻る。
闇の中から、灰色の髪を無造作に伸ばしたジンが姿を現した。
「お疲れさん。見事な手際だったな」
彼は飄々とした笑みを浮かべ、僕の肩を軽く叩いた。
「護衛の連中、お前が侵入して出て行くまで、ピクリとも動かなかったぜ。規格外の才能ってやつだ」
「あなたのおかげです」
僕は短く答え、深く頭を下げた。
「俺はただ、お前の力を見抜いただけだ。それをどう使うかは、お前次第だ」
ジンは満足げに微笑み、夜の闇へと視線を向けた。その横顔には、見出した才能を絶対に潰させないという強い意志が滲んでいた。
彼が拾ってくれたこの才能を、僕はもう二度と手放さない。
◆ーーーー◆
翌日。僕は王立魔法学園の廊下を歩いていた。
退学処分が正式に執行されるまでの、わずかな猶予期間。
周囲の生徒たちは相変わらず僕を「冴えない落第生」として扱い、すれ違うたびに蔑むような視線を向けてくる。
だが、僕の心は驚くほど穏やかだった。
表社会での無能扱いは、もはや僕を傷つけることはない。僕には、裏社会という本当の居場所があるのだから。
「……っ」
不意に、前方から小さな呻き声が聞こえた。
顔を上げると、透き通るような銀髪の少女——主席優等生のエリアが、壁に手をついて立ち止まっていた。
彼女は苦しげに顔をしかめ、自分の耳を塞いでいる。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、エリアは弾かれたように顔を上げた。
「ええ……平気よ。ただ、またあの不快な耳鳴りがして……」
彼女の青い瞳が、微かな怯えを帯びて揺れている。
耳鳴り。
最近、彼女が時折訴える原因不明の症状だ。
学園の医務室でも異常は見つからなかったというが、彼女の周囲でだけ起きるこの現象は、ただの体調不良とは思えなかった。
「ルークも、気をつけてね。最近、学園の空気が少しおかしい気がするの」
エリアは無理に微笑みを作り、足早に立ち去っていった。
彼女の背中を見送りながら、僕は眉をひそめる。
見えない何かが、この学園の裏側で静かに蠢いている。
そんな不穏な気配が、僕の肌を粟立たせた。




