第3話
翌日の夜。
僕は、王都の裏路地を一人で歩いていた。
手の中には、ジンから渡された無音の懐中時計がある。裏蓋に彫られた地図が示す場所は、歓楽街のさらに奥深く、光の届かない一角だった。
表の世界には、もう僕の居場所はない。
今日、僕は正式に学園を追い出された。荷物をまとめ、誰に見送られることもなく正門をくぐった時、胸に空いた穴を埋めてくれたのは、この冷たい金属の感触だけだった。
『お前の力は、暗殺において最強だ』
ジンの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
本当にそうなのか。僕の魔法は、ただ音を消すだけだ。派手な光も、物を破壊する威力もない。それでも、彼は僕を必要だと言ってくれた。
その恩義に応えたい。もう二度と、誰からも見捨てられたくなかった。
指定された場所には、古びた酒場の裏口があった。
看板はない。僕は小さく息を吐き、重厚な木の扉を三回叩いた。
「はーい。開いてるわよ」
扉の奥から、明るい声が響いた。
恐る恐る中に入ると、そこは薄暗い通路になっていた。壁に立てかけられた木箱に腰掛けていた女性が、こちらに視線を向ける。
派手な装飾品を身につけた、赤髪のショートヘア。彼女は口にくわえていた棒付きキャンディを転がしながら、面白そうに目を細めた。
「君が、ジンさんの言ってた新人くん?」
「……はい。ルークと言います」
「私はミラ。ここの受付兼、情報屋ってところかな。よろしくね、ルークくん」
ミラは軽やかな足取りで近づいてくると、僕の顔をまじまじと覗き込んだ。裏社会の人間というよりは、街で見かける気さくなお姉さんのような雰囲気だ。
「それにしても、本当に普通の男の子ね。魔力も全然感じないし。ジンさんが連れてくるくらいだから期待してたんだけど、本当に通用するのかしら」
悪気のない言葉が、胸の奥をチクリと刺した。
学園で浴びせられ続けた評価がフラッシュバックする。僕は無意識に肩をすくめ、視線を落とした。やはり、ここでも僕は役立たずだと思われるのだろうか。
「まあ、ジンさんの目に狂いはないでしょ。さっそく登録しちゃうわね」
ミラはあっけらかんと言い放ち、通路の奥へと歩き出す。
僕は慌てて彼女の背中を追った。
通路を抜けた先には、酒場の地下とは思えないほど広い空間が広がっていた。壁一面に書類や武器が掛けられ、いくつかの机には見慣れない道具が散乱している。
「はい、登録完了。今日から君のコードネームは『サイレンス』よ」
ミラは一枚の羊皮紙を僕に差し出した。
そこには、複雑な見取り図と、一人の男の似顔絵が描かれていた。
「これが初任務のターゲット。裏で違法な薬を売り捌いてる悪徳商人よ。屋敷の警備は厳重で、魔法使いの護衛も雇ってるみたい」
「これを、僕が……」
「そう。君一人でね」
ミラはキャンディを噛み砕き、真剣な表情を見せた。
「裏社会は結果がすべてよ。失敗すれば死ぬだけ。でも、やり遂げれば君の居場所はここにあるわ」
僕は羊皮紙を強く握りしめた。
居場所。その言葉が、僕の背中を押す。やるしかない。与えられた任務は、必ず完遂する。
「それじゃあ、次は装備の調達ね。ガルドのお爺ちゃんを紹介するわ」
ミラに案内され、地下空間のさらに奥にある工房へと足を踏み入れた。
熱気と油の匂いが鼻を突く。部屋の中央では、煤にまみれた作業着を着た初老の男が、金属の部品を睨みつけていた。筋骨隆々とした腕と、豊かな白髭が目を引く。
「ガルド、新人くんを連れてきたわよ」
「あぁ? 忙しい時に邪魔すんじゃねえ」
ガルドと呼ばれた男は、ぶっきらぼうに振り返った。鋭い眼光が僕を射抜く。
「こいつが例の坊主か。ジンから話は聞いてるぜ。音を完全に消す魔法を使うんだってな」
「はい。……でも、攻撃力は全くありません」
僕が正直に答えると、ガルドは鼻で笑った。
「威力がなんだってんだ。魔法の派手さばかりもてはやされるこのクソみたいな世の中で、お前の能力は最高の技術じゃねえか」
予想外の言葉に、僕は目を丸くした。
学園の教師たちは、僕の魔法を鼻で笑い、無価値だと切り捨てた。だが、この職人は違う。僕の能力を「技術」として評価してくれている。
ガルドは作業台から一本の短剣を手に取り、僕に向かって放り投げた。
慌てて受け取ると、ずっしりとした重みを感じる。刃は黒く塗られ、光を反射しないように加工されていた。
「そいつは俺の最高傑作の一つだ。切れ味は申し分ねえが、刃の形状のせいで振るたびに風切り音が鳴っちまう。隠密行動には不向きでな、ずっとお蔵入りになってた」
ガルドはニヤリと笑い、僕を指差した。
「だが、お前の魔法ならその欠点を完全に消し去れる。そうだろ?」
「……はい。やってみます」
僕は短剣を構え、魔力を練り上げた。
『消音』。
短い言葉と共に、僕の周囲の空間から一切の音が消え失せる。
そのまま短剣を鋭く振り抜いた。
通常なら空気を裂く音が鳴るはずの速度。しかし、刃は完全な無音のまま空を切り裂いた。
「素晴らしい!」
ガルドが手を叩いて喜んだ。
「ピーキーな武器を完璧に使いこなしやがる。お前みたいな使い手を待ってたんだ。存分に暴れてこい、坊主」
胸の奥が熱くなった。
僕の魔法が、誰かの作った道具の価値を引き出している。僕の力が、ここで確かに機能している。
ジンが言っていたことは本当だったのだ。
◆ーーーー◆
数時間後。
僕は黒い装束に身を包み、夜の街を駆け抜けていた。
足音は一切しない。衣擦れの音も、呼吸の音すらも、僕の魔法が完全に打ち消している。
まるで自分自身が夜の闇の一部になったかのような感覚だった。
『死なないでね、サイレンスくん』
ミラの言葉を背に受け、僕は夜の街をさらに加速した。
入り組んだ路地を抜け、歓楽街の喧騒を遠ざけていく。
やがて、目的の屋敷が見えてきた。
高い石造りの塀に囲まれた、豪奢な建物。門の前には武装した警備兵が二人立ち、周囲を鋭い視線で警戒している。
塀の上には、微かに光る魔力線が走っていた。侵入者を感知するための結界だろう。
僕は屋敷から少し離れた路地裏の影に潜み、状況を観察した。
警備兵の動きには隙がない。結界を破れば、すぐに護衛の魔法使いが駆けつけてくるはずだ。
表の世界の常識で考えれば、正面から突破するなど不可能に近い。
手の中の無音の懐中時計を握りしめる。
金属の冷たさが、高鳴る心臓の鼓動を少しだけ落ち着かせてくれた。
僕の能力は、本当に実戦で通用するのだろうか。
もし少しでも音を漏らせば、即座に発見され、命を落とすことになる。
失敗すれば、僕は再び無能として見捨てられる。いや、それ以前に生きて帰ることはできない。
恐怖が足元から這い上がってくる。
だが、後戻りはできない。僕はすでに、裏社会への一歩を踏み出しているのだ。
深く息を吸い込み、魔力を全身に巡らせる。
世界から、すべての音が消え去った。
僕は短剣を逆手に構え、漆黒の闇の中へと足を踏み出した。




