第2話
男の手が外套の懐からゆっくりと引き抜かれる。
刃物か、それとも魔法の触媒か。僕は無意識に息を止め、目をきつく閉じた。
しかし、予想した痛みはいつまで経っても訪れない。
「そんなに怯えんなよ。取って食おうってわけじゃねえ」
飄々とした声が頭上から降ってきた。
恐る恐る目を開けると、男の指先には細長い煙草が挟まれていた。彼は指を軽く鳴らし、小さな火種を生み出して先端に火をつける。
紫煙が夜の空気に溶けていく。
男は深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「昼間の試験、見させてもらったぜ」
その言葉に、僕はびくりと肩を震わせた。
昼間の試験。僕が魔力測定器の前で無様に立ち尽くし、教頭から退学を宣告されたあの時間。
思い出すだけで、胃の奥が冷たく重くなる。
「あの馬鹿でかい魔力測定器が、エラー音ひとつ鳴らさずに完全に沈黙したのには驚いたな。周りの連中は機械の故障だって騒いでたが」
「……笑いに来たんですか」
絞り出すように声を出した。
僕の魔法は、攻撃力ゼロ。派手な光も、鼓膜を揺らす轟音も生み出せない。
学園の誰もが僕を嘲笑った。この男も、きっと同じだ。
「笑う? なんで俺がそんな無駄なことをしなきゃならねえんだ」
男は呆れたように肩をすくめた。
そして、鋭い三白眼で僕を真っ直ぐに見据える。
「俺はジンだ。お前のその『消音』の魔法、俺たちの組織で買いたいと思ってな」
ジンと名乗った男の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
買う? 僕の魔法を?
「からかわないでください。僕の魔法には、何の価値もありません」
僕は視線を落とし、自嘲気味に笑った。
長年浴びせられ続けた言葉が、脳裏にこびりついている。
派手さも威力もない。お前がいても何の役にも立たない。
その言葉を思い出すたびに、無意識に身体が萎縮してしまう。
「学園の連中がそう言ったのか?」
ジンの声が、少しだけ低くなった。
煙草の火が暗闇の中で赤く明滅する。
「あいつらは、魔法の威力と派手さしか評価できねえ。長い詠唱をして、でかい火の玉をぶっ放すのが至高だと信じ込んでやがる。目に見えるものしか信じねえ権威主義のクソ野郎どもだ」
ジンは地面に唾を吐き捨てた。
その横顔には、表社会の常識に対する強い嫌悪感が滲んでいた。
「だから、お前みたいな才能を平気でドブに捨てる。あの測定器が沈黙したのは故障じゃねえ。お前の魔法が、機械の探知波そのものを打ち消したんだよ」
「探知波を……打ち消した?」
「そうだ。お前の魔法は、指定した空間や対象の音を完全に消し去る。そうだろ?」
「……はい。でも、それだけです。物を壊すことも、人を傷つけることもできません」
「だからいいんじゃねえか」
ジンは口角を上げ、獰猛な笑みを浮かべた。
「足音、衣擦れ、呼吸音。それらを完全に消し去る『完全隠密』。これだけでも裏社会じゃ喉から手が出るほど欲しい能力だ」
裏社会。
その単語に、僕は息を呑んだ。
ジンから漂う血と死の匂いの理由が、ようやく腑に落ちた。彼は、暗殺者だ。
「だが、お前の魔法の真価はそこじゃねえ」
ジンは煙草を地面に落とし、靴の裏で踏み消した。
「魔法を使うには詠唱が必要だ。強力な魔法ほど、長く複雑な言葉を紡がなきゃならねえ。それはつまり、発動する前に必ず『音』が出るってことだ」
ジンの言葉が、僕の頭の中でパズルのピースのように組み合わさっていく。
「お前が自分の詠唱音を消せば、それは実質的な『無詠唱化』になる。相手からすれば、何の予備動作もなく突然魔法が飛んでくるわけだ」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
無詠唱化。
それは、どんな高位の魔術師でも不可能とされている神業だ。
「さらにだ。お前が相手の口元に『消音』をかければどうなる?」
「……詠唱が、完成しない」
僕の口から、無意識に答えが漏れていた。
詠唱は、言葉として音にならなければ魔力を形にできない。音を奪われれば、どれほど強大な魔力を持っていようと、魔法は発動しない。
「その通りだ。つまりお前は、相手の魔法を完全に封じることができる『詠唱妨害』の使い手でもある」
ジンは満足げに頷いた。
「完全隠密、無詠唱化、詠唱妨害。これらが揃って、価値がないだと? 冗談じゃねえ。お前の力は、暗殺において最強だ」
最強。
その言葉が、暗い路地裏に反響した。
今まで誰からも認められず、無能だと切り捨てられてきた僕の力が。
派手さがないと蔑まれてきたこの魔法が。
「俺たちの世界じゃ、派手な花火なんていらねえ。確実に標的を仕留める技術だけが全てだ。お前の力には、値段がつけられん」
ジンは懐から何かを取り出し、僕に向かって放り投げた。
反射的に両手で受け止める。
それは、銀色に鈍く光る懐中時計だった。
「俺が所属するギルドに来い。表の連中の鼻を明かしてやるんだよ。一度拾った才能は、俺が最後まで面倒を見てやる」
手の中の懐中時計は、ひんやりと冷たかった。
耳を澄ませても、秒針の刻む音は全く聞こえない。ただの時計ではない。微かな魔力の脈動を感じる。
「……僕に、人を殺せと言うんですか」
震える声で問いかける。
暗殺ギルド。そこに入れば、僕は人殺しになる。
今まで虫一匹殺したことのない僕に、そんなことができるのだろうか。
もし失敗すれば、今度こそ本当に誰からも必要とされず、闇の中で死んでいくことになる。
再び無能として見捨てられる恐怖が、足元から這い上がってきた。
「決めるのはお前だ」
ジンは背を向け、闇の中へと歩き出す。
「明日、日が落ちたらその時計の裏に彫られた場所に来い。来なければ、それまでの縁だ」
足音ひとつ立てず、ジンの姿は夜の闇に溶けていった。
後には、冷たい風が吹き抜ける路地裏と、僕だけが残された。
僕は手の中の懐中時計を見つめる。
無音のまま、時間だけが過ぎていく。
この時計は、僕の力を蓄積するための魔道具なのだろうか。それとも、裏社会への片道切符か。
表の世界には、もう僕の居場所はない。
退学を宣告され、明日には学園を出て行かなければならない。
だが、裏社会へ足を踏み入れる覚悟が、今の僕にあるのか。
自分を認めてくれたジンの言葉が、耳の奥で何度もリフレインしている。
『お前の力は、暗殺において最強だ』
恩義を感じる一方で、得体の知れない闇が僕を飲み込もうと口を開けて待っているような気がした。
無音の懐中時計を強く握りしめる。
金属の冷たさが、手のひらから全身へと伝わっていく。
僕は、どうすればいい。
答えの出ない問いを抱えたまま、僕はただ、深い夜の底で立ち尽くしていた。




