第29話
王立魔法学園の中庭には、初夏の柔らかな陽光が降り注いでいた。
テロの傷痕が残る外壁では、工事業者と土属性魔法専任の教員たちが共同で修繕作業を進めている。巨大な石材が宙を浮き、欠けた柱が元の形を取り戻していく光景は、どこかのんびりとした日常の再開を思わせた。
数日前までここが戦場となり、悲鳴と破壊の嵐に呑まれていたことなど、嘘のようだった。
「ルーク、ぼさっと突っ立ってると作業員さんの邪魔になるぞ」
隣で制服を崩して着たトムが、昼食の入った紙袋を指先で揺らしながら言った。
「ごめん。思っていたより復旧が早くて、つい見てたんだ」
「そりゃあ表向きは『正体不明の凶悪テロを学園防衛機構が撃退した』って話になってるからな。騎士団もメンツがあるし、大急ぎで元の通りに繕わなきゃいけないんだろ」
トムは鼻を鳴らし、購買で買った硬いパンを口に放り込んだ。学園上層部が発表した公式見解の欺瞞など、彼にとっては昼のメニューほどにも重要ではないらしい。
だが、あの混乱の真相を知る者はごく限られている。
表の魔法至上主義を盲信し、強力な詠唱と派手な火力さえあればすべてを支配できると過信していたテロ集団。そして学園を裏切ったバイス教頭。
彼らの放つ極大魔法や連携の号令を、僕は何一つ音を立てずに無力化し、影の中からすべての息の根を止めた。
叫びも、爆轟も、断末魔すらも奪われた空間で、絶対的な強者だったはずの大人たちが成す術もなく崩れ落ちていった光景が、僕の脳裏をかすめる。
威力の高さこそが正義だと教え込まれてきた世界で、僕の持てる特異な技術は、彼らの積み上げた常識を根底から粉砕したのだ。
「……あ」
トムが顎で示した回廊の角から、数人の生徒が歩いてくる。
先頭を歩いているのは、特待生のレオンだ。
いつもなら黄金色の髪を完璧に撫でつけ、胸元の特待生バッジをこれ見よがしに輝かせながら、取り巻きを引き連れて傲慢に肩を揺らしていたはずだった。
しかし今の彼には、かつて周囲を威圧していた尖った気配が微塵も残っていなかった。
整えられていない前髪が額に落ち、視線は力なく地面を彷徨っている。すれ違う下級生が恐る恐る頭を下げても、気づかないのか、あるいは応える気力すらないのか、生気のない足取りで通り過ぎようとしていた。
あの襲撃の際、レオンは信奉していた教頭に切り捨てられ、命乞いをしながら蹲っていた。そして、自らが見下していた無音の刃が、いとも容易く巨大な悪意を解体していく様を間近で目撃したのだ。
自分の信じていた魔法の優劣という絶対の物差しが、音もなくへし折られた衝撃は、彼のプライドを完全に削ぎ落としてしまったようだった。
僕たちの前を通り過ぎる際、ふとレオンの視線が僕と交錯した。
「ひっ……」
微かに喉を鳴らし、レオンの肩が大きく跳ね上がる。彼の瞳に走ったのは、かつての侮蔑や嘲笑ではなく、底知れない深淵を覗き込んだような純粋な怯えだった。
僕は何も言わず、ただ無表情のまま道を譲った。
復讐したいわけでも、今さら謝罪を求めたいわけでもない。彼が僕を恐れようと、以前のように蔑もうと、僕自身の価値には何の影響もないのだから。
レオンは逃げるように足早に去っていき、トムが不思議そうに首を傾げた。
「なんだあいつ。テロにビビりすぎて腰が抜けちまったのか? いつもなら『落ちこぼれが視界に入るな』とか嫌味を言ってくるのによ」
「さあね。色々あって、ショックだったんじゃないかな」
「ふーん。まあ、静かでせいせいするけどな」
トムはあっけらかんと笑い、再び紙袋から別のパンを取り出した。
◆ーーーー◆
本館の渡り廊下へ向かうと、前方から賑やかな声が聞こえてきた。
生徒たちが輪を作って、一人の少女を取り囲んでいる。
透き通るような銀髪を揺らし、凛とした姿勢で立っているのは学園の首席、エリアだった。
「エリアさん、本当なんですか!? あのテロリストたちを一網打尽にしたっていう、謎の人物の話!」
「ええ、本当です」
取り巻きの女生徒たちの問いかけに、エリアは真剣な眼差しで頷いた。その青い瞳は、普段の冷静沈着な優等生のそれとは異なり、熱を帯びた輝きを宿している。
「私が地下区画で追い詰められたとき、現れてくださったんです。一切の足音も気配も立てず、敵の強固な防御壁や詠唱を瞬く間に無効化して……。敵の指揮官が叫ぶことすら許されず、あっという間に制圧されていきました」
彼女の熱弁に、周囲の生徒たちから「すごい……」「どんな魔法を使ったの?」と興奮混じりの声が上がる。
「魔法の詳細は分かりませんでした。ですが、あれは派手な光や爆発に頼るものではなく、無駄を極限まで削ぎ落とした、美しくすらある完璧な技術でした。私は……あの方に、命だけでなく、魔法というものの本当の深淵を教えていただいたような気がします」
エリアは胸元に両手を添え、遠くを見るような瞳で語り続ける。
彼女がこれほどまでに誰かを無条件で称賛し、憧憬を露わにする姿は、学園の誰も見たことがなかったはずだ。
「へえ、すっげえな。そんな化け物みたいな奴が助けてくれたのかよ」
トムが感心したように呟きながら、輪の近くを通り抜ける。僕もその後ろを、歩調を崩さずに歩いた。
ふと、エリアの視線がこちらに向いた。
目が合うと、彼女は語っていた熱っぽさを一度落ち着かせ、丁寧な会釈を返してきた。
「ごきげんよう、ルークさん、トムさん」
「あ、エリアさん! うっす、怪我なくてよかったですね」
トムが気さくに手を振る。僕も小さく頭を下げた。
「こんにちは、エリアさん。無事で何よりです」
「ありがとうございます。お二人もご無事で本当によかったです」
エリアは穏やかに微笑み、それから少しだけ申し訳覚悟を滲ませたように眉を下げた。
「学園はまだ落ち着きませんが、授業もじきに通常通り再開されるそうです。もし課題などで困ったことがあれば、いつでも私を頼ってくださいね。……ルークさんのことも、以前から気になっていましたから」
彼女の言葉には、落第寸前の僕を気遣う優等生としての純粋な善意が溢れていた。
自分が熱烈に憧れを抱き、命を救われた相手が、目の前で冴えない笑みを浮かべている落ちこぼれだとは、夢にも思っていないのだろう。
「ありがとう、エリアさん。その時はお願いするよ」
僕は柔らかく返答した。正体を打ち明けるつもりは毛頭ない。
彼女が抱く正義や理想、そしてあの謎の人物への憧れは、この表の光の世界にあるべきものだ。僕が属する裏の世界の暗がりと交わらせる必要はどこにもない。
エリアは満足そうに小さく頷くと、再び生徒たちに囲まれながら講義室の方へと歩いていった。
◆ーーーー◆
「なあ、ルーク」
並んで教室へ向かう廊下で、トムが肘で僕の脇腹をつついてきた。
「ん? なに?」
「お前もさ、あのエリアさんが言ってた謎の凄腕みたいに、いつかどかんと強くなれたらいいのにな」
トムはおどけた調子で笑い、両手を広げて大げさな身振りをしてみせる。
「そしたら俺が一番弟子になって、学園中の奴らに威張り散らしてやるのにさ。『こいつは俺のダチだぞ!』ってな」
「あはは、僕には無理だよ」
僕は苦笑交じりに肩をすくめてみせた。
「僕の使える魔法なんて、音を消すくらいしかないんだから」
「だよなー! ま、お前はお前らしく、のんびり落第回避を目指そうぜ。俺が補習に付き合ってやるからさ」
トムは屈託のない笑顔で僕の背中をばんと叩いた。その痛みのない衝撃が、僕の足元を日常の地面へとしっかりと繋ぎ止めてくれる。
制服の内ポケットに、そっと指先を滑らせた。
そこには、ギルドから支給された漆黒の認可証と、秒針の響かない無音の懐中時計が収まっている。
裏社会の最高幹部たちが僕の実力を認め、破格の報酬と最高位の序列を用意してくれた。昨夜、工房の頑固な職人や、好敵手を名乗る少年、そしてジンたち仲間が示してくれた確固たる居場所の感覚が、今も掌の奥にじんわりと残っている。
表の学園で喝采を浴びる必要はない。
誰からも称賛されず、ただの冴えない落第生として扱われていようと、僕の力は僕自身と、大切な場所を守るためにここにある。
「ほらルーク、早く行かないと予鈴が鳴っちまうぞ!」
「うん、今行くよ」
駆け出していく悪友の背中を追いかけながら、僕は口元に小さな笑みを浮かべた。
陽光に満ちた平穏な教室と、夜の闇に潜む確固たる居場所。
二つの世界を行き来するこの痛快な日常は、まだ始まったばかりだった。




