第30話
薄暗い石造りの通路を抜け、見慣れた重厚な扉を押し開ける。
ギルド最奥の執務室には、琥珀色のランプの光が揺れていた。煙草の細い煙を燻らせるジンの向かいに、赤髪を揺らしたミラが腰掛けている。彼女は机の上に山積みとなった羊皮紙の束から顔を上げると、口元に咥えていた飴をからりと鳴らした。
「お帰り、ルークくん。大きな仕事の後だってのに、ずいぶんと落ち着いた顔をしてるじゃない」
「ただいま戻りました、ミラさん」
軽く会釈をして部屋の中央へ進む。正面の革張りの椅子に深く身を沈めたジンは、三白眼の鋭い視線を僕に向けながら、灰皿に灰を落とした。
「無事に片付いたようだな。バイスの身柄も、連中の残党も、綺麗さっぱり裏の処理班に引き渡された。学園側は未だに何が起きたのか正確には把握できてねえらしいが……まあ、表の連中なんざそんなもんだ」
「ジンさんの手回しのおかげです。僕一人では、後始末までは手が回りませんでしたから」
「謙遜すんな。単騎でテロ部隊のど真ん中に突っ込んで、指揮系統も極大魔術もまとめて黙らせたのはお前だ。あんな芸当、この王都広しと言えどお前にしかできねえよ」
ジンは口元に微かな笑みを浮かべ、机の引き出しから小さな黒革のケースを取り出した。コン、と乾いた音を立てて机上に滑り込ませる。
「受け取れ。今回の特務に対する正規の報酬と、ギルドの最高評議会から下りた新しい身分証だ」
ケースを開くと、中には王都の銀行で莫大な資産と引き換えられる白金の預金手形と、深く澄んだ黒銀色の金属プレートが収められていた。プレートの中央には、音波を断ち切る刃を模した意匠が緻密に彫り込まれている。
「……これは」
「裏社会における最高位の証、『無響の極致』を示す特級認可証だ。これを持つ者は、組織の全権限を行使できるだけでなく、あらゆる依頼を自らの判断で受諾・破棄できる特権を得る。名実ともにお前はもう、裏社会で最強の暗殺者だ」
ジンの言葉には、いつもの飄々とした軽さはなかった。確固たる重みと、真正面からの敬意が込められている。
僕は指先でその冷たい金属に触れた。かつて学園の修練場で、派手な火花を散らすこともできず、教官たちから出来損ないの烙印を押された日の記憶が脳裏をよぎる。あのとき失ったはずの居場所が、今この手の中に、別の形で確かに存在していた。
「おいおいジン、そんな堅苦しい顔ばっかりしてないでさ。せっかくの大快挙なんだから、景気よく行こうよ」
ミラが立ち上がり、戸棚からガラスの小瓶とグラスをいくつか取り出した。注がれたのは、淡い琥珀色をした果実酒だ。
「未成年には早いけど、ほんの口をつけるくらいなら許されるでしょ。はい、ルークくんの分」
「あ、ありがとうございます」
手渡されたグラスを受け取ると、甘酸っぱい果実の香りが鼻腔をくすぐった。ミラは自分のグラスを掲げ、悪戯っぽく片目を細める。
「学園を裏から丸ごと救っちゃった英雄に、乾杯」
「……乾杯」
小さな硝子の触れ合う音が室内に響く。口に含んだ果実酒は、舌先を微かに痺れさせた後、喉の奥へと温かく落ちていった。
ソファに腰を下ろし、グラスを傾けながら、僕は胸元のポケットから銀の懐中時計を取り出した。スカウトされた日にジンから手渡された、針の進む音が一切しない特注の魔道具だ。
「そういえばジンさん、この時計……今回の戦いで、僕の魔力を一定量溜め込んでいたリミッターが外れたような感覚がありました」
「ああ、気付いたか」
ジンは煙草を消し、満足そうに顎を撫でた。
「お前の固有の力は、あまりに周囲の現象を呑み込みすぎる。無意識のうちに己の生命力まで削りかねねえからな。過剰な魔力波長を一時的に吸収し、器を安定させるための安全弁だったのさ。だがもう、お前自身が力の制御を完全にモノにした。そいつは単なる予備の魔力タンクとして好きに使えばいい」
「最初から、僕の体を気遣ってくれていたんですね」
「当たり前だろ。拾った才能をみすみす使い潰すような真似はしねえ主義だ。それに……お前が自分の力に誇りを持てるようになるまで、見守るのが俺の役目だったからな」
飾り気のないジンの台詞に、胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。
学園では誰からも顧みられず、欠陥品だと罵られ続けた。だが、僕の持っていた異質さは、正しい場所で正しい目で見極められたことで、誰にも真似できない唯一無二の技術となったのだ。
「ルークくん、これからの予定はどうするの? 学園を辞めて、こっちの仕事一本に絞ることもできるけど」
ミラがテーブルに肘をつき、興味津々といった様子で覗き込んでくる。僕は少しだけ考え、それから首を横に振った。
「いえ、学園にはこのまま通い続けます。あそこには、僕をただの友人として接してくれる人もいますから」
「ふふ、いいね。表では冴えない落第生、裏では街の支配者すら震え上がらせる凄腕の始末人。最高に痛快じゃない」
ミラは楽しそうに喉を鳴らし、飴を噛み砕いた。ジンもまた、薄い笑みを浮かべて頷く。
「好きにしな。お前がどんな道を選ぼうと、このギルドはお前の背中を預かる場所だ。困ったことがありゃ、いつでもここへ戻ってくればいい」
「はい。ありがとうございます」
僕は深く頭を下げた。疑いようのない承認と、信じ合える仲間たちの温もり。それらすべてを胸に刻み込みながら、夜の更けていくギルドの部屋で穏やかな時間を過ごした。
◆ーーーー◆
翌朝、青く澄み渡った空から柔らかな朝光が降り注いでいた。
僕はいつも通り王立魔法学園の制服に袖を通し、鞄を肩にかけて校門をくぐる。敷地内では、テロによる破損箇所の修復作業が着々と進められており、生徒たちの賑やかな声があちこちから聞こえていた。
「おーい、ルーク!」
背後から聞き慣れた声が響き、振り返るとトムが手を振りながら小走りで駆け寄ってきた。
「おはよう、トム」
「おう、おはよう! いやあ、昨日の補習はキツかったな。お前が予習のノートを見せてくれなかったら、俺また教官に怒鳴られてたところだぜ」
トムは頭を掻きながら、屈託のない笑みを浮かべる。僕の隣に並んで歩き出すその足取りは、いつもの日常そのものだった。
「役に立てたなら良かったよ。今日も放課後に図書館で続きをやろうか」
「助かる! お前って魔法の実技はいまいちだけど、座学のまとめ方は本当に上手いよな。なんで落第寸前なのか不思議なくらいだぜ」
悪気のない友人の言葉に、僕は苦笑いを返す。
校舎の玄関へ向かう途中、前方から数人の特待生を引き連れたエリアが歩いてくるのが見えた。すれ違いざま、彼女はふと足を止め、こちらに丁寧な会釈を寄越す。瞳の奥には、どこか遠くの誰かを探すような、淡い追憶の色が浮かんでいた。
僕は目立たないよう小さく会釈を返し、何食わぬ顔で彼女の横を通り過ぎる。
自分が救った学園の誰も、僕の真の姿を知ることはない。称賛も名誉も表舞台には存在しないが、それで十分だった。守るべき平穏な日常が、こうして手の届く場所にあるのだから。
制服の胸元にそっと手を当てる。
薄い生地の奥には、確かな重みを持った黒銀の認可証と、静かに時を刻む懐中時計が潜んでいる。
光差す教室で友人と笑い合い、夜が訪れれば闇を駆けて獲物を刈り取る。
自らの特異な力を完全に受け入れた僕にとって、この二つの世界を行き来する日々は、何物にも代えがたい自由そのものだった。
「ほらルーク、ぼさっとしてるとチャイムが鳴るぞ!」
「あ、待ってよトム」
前のめりに階段を駆け上がっていく友人の背中を追い、僕は一歩を踏み出す。
足音を立てず、軽やかに、そして確かな力強さを持って。
晴れやかな青空の下、僕の新しい日常がどこまでも続いていく。




