第26話
夜明けの光が、粉々に割れた窓枠の隙間から中庭へと斜めに差し込んでいた。
煙の匂いと石粉の混ざった冷たい空気が、静まり返った学園を漂っている。騒乱を制圧した治安維持部隊の重厚な鎧が擦れ合う金属音と、遠くで響く指示を飛ばす怒号が、ようやく事態の終息を告げていた。
「残党を一人残らず地下牢へ連行しろ! 教頭の身柄は最重要拘束対象だ!」
縛り上げられた残党が次々と連行されていく。昨夜まで傲岸に振る舞っていたバイス教頭も、泥まみれのままぐったりと運ばれていった。
僕は中庭の隅にある植え込みの影で、指定の制服の襟元を整えた。
黒い外套と仮面はすでに学園地下のダストシュートの奥深く、誰も探せない場所へと処分してある。指先に残っていたわずかな火薬の煤をハンカチで拭き取り、深く息を吸い込んだ。
少し離れた講堂の前では、避難所から解放された生徒たちが集まり、互いの無事を確かめ合って抱き合ったり、安堵の涙を流したりしている。その中には、銀髪を乱しながらも毅然とした態度で周囲の手当てを手伝うエリアの姿もあった。
彼女はふと視線を彷徨わせ、何かを探すように周囲の瓦礫を見つめていた。だが、そこにかつて自分を救った影の姿はない。彼女が探している人物が、すぐ近くの木陰で冴えない顔をして立っている落第生だとは、夢にも思わないだろう。
これでいい。僕の役目は、終わったのだから。
「おーーい! ルーク! ルークじゃねえか!!」
耳慣れた、どこか間の抜けた大声が響き渡った。
人混みを掻き分け、転びそうな勢いでこちらへ走ってくる少年がいる。少し着崩した制服に、泥で汚れたそばかす顔。トムだった。
「ルーク! 無事だったのかよ! 探したんだぞ!」
トムは僕の前に辿り着くや否や、肩に思い切り抱きついてきた。勢い余って二人してよろめきそうになる。
「トム……うん、僕は大丈夫だよ」
「大丈夫じゃねえよ! 避難指示が出たとき、お前がトイレに行ったきり戻ってこねえから、俺、生きた心地がしなかったんだぞ! あのデカい魔法の光が見えたときなんて、もうダメかと思ったんだからな!」
トムは涙目で僕の身体をあちこち引っ張り、怪我がないかを確かめている。大げさな身振りに、周囲の生徒が数人、怪訝な目を向けていた。
僕のような落ちこぼれの安否など、誰も気にしていない。だが、このお調子者の親友だけは、本気で僕の心配をしてくれていた。
「本当に、かすり傷ひとつないよ。校舎の地下備品室に隠れて、ずっと丸くなってたんだ」
「マジかよ、お前……運が良すぎだろ」
トムは心底ほっとしたように長い息を吐き出し、乱暴に自分の目元を腕で拭った。
「でも、よかった。本当によかったよ……。お前が死んだら、俺、誰と赤点補習を受けりゃいいんだよ」
「そこなんだ」
僕が苦笑すると、トムは「当たり前だろ!」といつもの調子で僕の肩をバシバシと叩いた。少し痛いくらいのその衝撃が、僕の強張っていた神経を心地よく解きほぐしていく。
裏社会の任務で見せる研ぎ澄まされた集中力も、標的の呼吸を絶つ冷徹さも、この前では綺麗さっぱり消え去ってしまう。僕はただの、出来の悪い一人の学生に戻っていた。
◆ーーーー◆
破壊された外壁の補修作業が始まる中、僕とトムは中庭の石段に腰を下ろしていた。配布された硬い携帯食のパンをかじりながら、青空を見上げる。
昨夜の激闘が嘘のように、空はどこまでも澄み渡っていた。
「なあ、ルーク。噂、聞いたか?」
トムがパン屑を指先で払いながら、声を潜めて言った。
「噂?」
「今朝になってみんなが話してるんだけどよ、昨夜の謎の暗殺者の話、やっぱり本当だったっぽいぜ。騎士団じゃ太刀打ちできなかった教頭一味を、影から現れた凄腕がたった一人で、全員の喉を塞ぐみたいに制圧したんだとさ」
「へえ……そんな人が」
「教頭がどれだけ叫んでも魔法が一つも出なかったらしい。まさに手も足も出ないってやつだな。魔法至上主義のあの偉そうな連中が、音もなくボコボコにされたんだ。痛快だよな」
トムは面白そうに笑いながら、自分の拳を突き出してみせた。
「どんな奴なんだろうな。きっと身長が二メートルくらいあって、血も涙もない筋骨隆々の大男に決まってるぜ」
「……そうかもしれないね」
僕は笑いを噛み殺しながら、静かにパンを口に運んだ。目の前の小柄な少年がその張本人だとは、トムには一生想像もつかないだろう。
だが、それで構わない。誰かに称賛されるためにやったわけではないのだから。
ポケットの中に手を入れると、指先が冷たい金属の感触に触れた。ジンから渡された、秒針の音がしない銀の懐中時計。そしてその隣には、今朝方ギルドの連絡員から人知れず手渡された、裏社会最高位の認可証が収まっている。
『見事な仕事だったな、サイレンス』
引き上げの際、通信機越しに聞こえたジンの短い言葉が思い出される。あの組織には、派手さや家柄を笠に着る者など一人もいない。純粋な結果と技術だけを評価し、僕の居場所を認めてくれる。
学園では相変わらず、攻撃魔法も使えない落ちこぼれ。教官からは呆れられ、特待生からは見下される日陰の存在だ。
けれど、僕の内面には、誰にも奪えない確かな力がある。
「おーい、ルーク。何ぼーっとしてんだよ」
トムが肘で僕の脇腹をつついてきた。
「ほら見ろよ。エリア様がこっち見てるぞ。お前、何か粗相でもしたんじゃないだろうな?」
見ると、遠くの救護テントの前で、エリアがこちらに視線を向けていた。僕と目が合うと、彼女はわずかに会釈をし、どこか探るような、けれど柔らかな眼差しを向けてくる。おそらく昨夜の影の暗殺者と、僕の背格好がどこか重なって見えたのだろう。けれど、彼女が確証を得ることは決してない。
「何もしてないよ。ただの偶然じゃないかな」
「だよな! あんな高嶺の花が、俺たちみたいな補習組に用があるわけねえし!」
トムはあっけらかんと笑い飛ばし、立ち上がって大きく背伸びをした。
「さてと! 校舎が直るまでしばらく授業は自習らしいぜ。食堂の購買が開く前に、残ったパン買い占めに行こうぜ!」
「うん、行こうか」
僕も立ち上がり、制服の埃を払った。
歩き出すトムの背中を追いかけながら、僕は心地よい木漏れ日を浴びる。
表の世界の何気ない平穏と、裏の世界の絶対的な誇り。その両方を抱えながら生きていくこの二重生活は、思っていたよりもずっと痛快で、悪くない。
僕は小さく息を吸い、軽やかな足取りで、親友の隣へと並んだ。




