第25話
拘束を逃れようと蠢くバイス教頭の瞳には、濁った狂気が宿っていた。
「……調子に乗るなよ、小僧がぁ!」
喉の奥から絞り出された掠れ声と共に、教頭は隠し持っていた禁忌の魔導書を懐から引きずり出した。自らの寿命と学園の敷地全域の魔力を代償にして発動する、広域破滅魔術。かつて戦時中に封印されたはずの術式が、不気味な黒紫の光を放ちながら展開していく。
騎士団の駆けつける気配を察知した教頭は、破滅の道連れを選んだのだ。
周囲の大気がきしむ。地面が震え、石畳の隙間から濃密な魔力が噴き上がり、建物の壁面をひび割れさせていく。かつて教頭が誇らしげに語っていた『力と派手さの象徴』そのものが、暴力的な質量となって渦を巻いた。
だが、僕の心は驚くほど平穏だった。
取り乱すことも、恐怖に立ちすくむこともない。ただ静かに呼吸を整え、ポケットの中の懐中時計を指先でなぞる。カチリとも音を立てない針が、僕の中で研ぎ澄まされた魔力と正確に同調していた。
僕は右手を掲げ、対象を教頭の周囲一帯に限定した。
「……落ちて」
展開された術式の中心点へ、僕の『消音』を重ね合わせる。
炸裂するはずだった魔力の駆動音が、ふつりと途絶えた。
教頭が必死に叫び続ける長大な詠唱の言葉も、音波となって空間を震わせる前に、完全に無へと還元される。大気の振動が消え、光を放っていた黒紫の術式は、音という推進力を奪われたことで輪郭を保てなくなり、水滴が霧散するように掻き消えた。
世界からあらゆる響きが失われた。
風のざわめきも、建物の軋みも、教頭の荒い息遣いさえも届かない。完全なる静寂が、廃墟と化した修練場を支配する。
「……ッ!? ……ぁ……!?」
教頭は大きく口を開け、顎を激しく動かして何かを怒鳴り散らしているようだった。しかし、彼の喉から空気が漏れる音すら一切生じない。声帯が震えている視覚的な情報だけが、滑稽な劇のように目の前で繰り広げられている。
強力な魔法ほど、長大な詠唱と空気の共鳴を必要とする。
それがこの世界の絶対的な法則であり、教頭が絶対視してきた魔法至上主義の根幹だった。だが、音を完全に遮断された空間では、どんな大魔術もただの無意味な身振りに成り下がる。
僕は無音のまま、一歩を踏み出した。
踏み込んだ石畳は微動だにせず、埃一つ立てずに距離を詰める。漆黒の装束を纏った僕の姿は、教頭の網膜にすら輪郭を焼き付ける暇を与えない。
教頭が焦燥に駆られて懐から次なる魔道具を取り出そうとした瞬間、僕は彼の懐へと滑り込んでいた。手首を軽く払う。骨が軋む感触が掌に伝わったが、鈍い音すら響かない。取り落とされた魔導書が地面に落ち、転がる。
「……ッ、……!」
教頭の顔が激痛と混乱で醜く歪む。
彼は信じられないといった様子で目を見開き、目の前に立つ僕を見つめていた。かつて学園の修練場で、派手さがないという理由だけで『役立たず』と嘲笑い、退学を言い渡した落ちこぼれの少年。その少年が今、自分の一切の抵抗を封じ込め、完全に命運を握っている。
理解が追いつかない恐怖。
絶対的な強者として君臨していた男のプライドが、音もなく粉々に砕け散っていくのが分かった。教頭は両膝を石畳につき、無様にすがりつくように手を伸ばそうとするが、僕が冷たく視線を落とすと、その手は空中で凍りついた。
教頭の背後、崩れた瓦礫の物陰から、激しい震えが伝わってきた。
特待生のレオンだ。
彼は壁に背中を押し付け、腰を抜かしたままこちらを見上げていた。かつて僕を虫けらのように見下し、自身の強大な魔力を見せびらかしていた金髪の優等生。その端正だった顔は蒼白になり、歯の根が合わずにガチガチと激しく打ち鳴らされているのが見える。
レオンの視界に映っているのは、自慢の炎魔法でも太刀打ちできなかったテロリストの首謀者が、無音の空間で無惨に蹂躙されている光景だった。
魔力の規模がすべてであり、派手な破壊力こそが人間の価値だと信じて疑わなかった彼の選民思想は、今この場で音を立てずに圧殺されていた。叫び声を上げようと喉を押さえているが、僕の展開した領域の中では、命乞いの声すら誰にも届かない。
絶対的な力の差。
それは破壊の規模ではなく、相手に何もさせずに目的を完遂する冷徹さによって示されていた。
僕はレオンに歩み寄ることも、言葉をかけることもしなかった。
ただ、冷淡に教頭の首筋へ手刀を打ち込む。神経を正確に断ち切られた巨体が、音もなく崩れ落ち、瓦礫の山に突っ伏した。今度こそ、完全な気絶だった。
領域を解除する。
ふっと、夜の空気の流れる気配が耳に戻ってきた。遠くの街並みから届くざわめきと、学園の門を破って突入してきた騎士団の足音が、かすかに響き始める。
『――見事な手際だ、サイレンス』
耳元に仕込んだ通信用の小型魔道具から、ジンの低く落ち着いた声が届いた。ノイズ混じりのその声には、一切の揺らぎがない。
『敵の主戦力および指揮系統の完全沈黙を確認した。ギルド本部からも正式に通達が下りたぞ。今回の任務達成に伴い、お前には裏社会における最高位の称号と、特級案件相応の報酬が支払われる』
「……ありがとうございます、ジンさん」
僕は短く応えた。
学園を揺るがした大規模なテロ計画は、表の騎士団や教師陣の手ではなく、闇に生きる暗殺者によって未然に完全に断ち切られたのだ。
『さて、表の兵隊どもがお出ましだ。英雄の顔を拝みたがっている連中に見つかる前に、さっさと引き揚げるぞ』
「了解しました」
通信を切り、僕は身を翻す。
その際、瓦礫の陰で涙と鼻水に塗れて震えているレオンへ、冷ややかな一瞥だけを向けた。
彼は怯えきった瞳で僕を見つめ、声にならない悲鳴を上げながら後ずさろうとしていた。僕の正体が、自分が嘲笑していた落第生だと気づいているのかどうかは分からない。だが、彼が信じていた傲慢な世界は、今日この瞬間に永遠に失われたのだ。
僕は一度も振り返ることなく、石畳を蹴った。
足音は一切しない。衣擦れの響きすら空間に溶かし、僕は夜の深い闇の中へと身を躍らせた。数秒後には、修練場に松明の光を掲げた騎士たちが雪崩れ込んでくるのが見えたが、そこには気絶した教頭と、恐怖で言葉を失った特待生が残されているだけだった。
◆ーーーー◆
翌朝、王立魔法学園の中庭には、いつもと変わらない澄んだ日差しが降り注いでいた。
昨夜の襲撃事件は、騎士団の迅速な対応によって未然に防がれたと公式に発表されていた。バイス教頭は職権を乱用した重大な背信行為によって拘束され、学園の幹部陣は事後処理に追われて大混乱に陥っている。
僕はいつものように、少しサイズの合わない制服に身を包み、旧校舎の裏庭にある古びたベンチに座っていた。
手元には、派手さの欠片もない初級魔法の教科書。
「よう、ルーク! 無事だったか?」
騒がしい足音と共に現れたのは、そばかす顔のトムだった。彼は昨夜の騒動を興奮気味に身振り手振りを交えて語り始める。
「すげえよな、昨日の事件。なんでも、騎士団が突入した時には、教頭も敵の幹部も全員倒れてたらしいぜ。裏社会の凄腕の暗殺者がやったんじゃないかって噂だ。名前は確か――」
「さあ、僕にはよく分からないよ」
僕は教科書から目を上げず、控えめに笑って見せた。
「僕みたいな落第生には、遠い世界の話だからね」
「だよな! ま、俺たちには関係ないか。それより次の実技補習、教官がめちゃくちゃ機嫌悪いらしいから覚悟しとけよ」
「『遅れるなよ!』
トムはあっけらかんと笑って僕の肩を叩き、昇降口へと駆け出していった。
遠くの廊下を、やつれた顔のレオンが取り巻きも連れずに一人で歩いていくのが見えた。かつての傲慢な輝きは完全に消え失せ、周囲の物音に過剰に怯えるその姿に、かつての特待生の面影はない。
ポケットの中で、秒針の音がしない懐中時計が、静かに僕の体温を吸い込んでいた。
表の世界では、相変わらず無能と見下される冴えない生徒。
だが、裏の世界には、僕の真の価値を認め、背中を預けてくれる仲間と居場所がある。
僕は教科書を閉じ、青く澄み渡る空を見上げた。
確固たる力と誇りを胸に、この痛快な二重生活を歩んでいく決意を、誰にも聞こえない静かな息吹と共に噛み締めながら。




