第24話
教頭の指先から、けたたましい光線が放たれようとしていた。
「消えろ、消え失せろ化け物めが!」
なりふり構わぬ絶叫とともに、バイス教頭は身に着けた指輪の魔力をごっそり引き出す。中級火炎弾の構築陣が空中に展開されかけた。
だが、構築の要となる発声が形を成す前に、僕の魔力がその周囲の空気を包み込む。
音のない世界では、魔力の波長すらも摩擦を失う。
術式は音響の支えを失って霧散し、教頭の手元からぽふ、と小さな煙が上がっただけだった。
「な……あ……?」
「もう一度やりますか」
短剣を右手に提げたまま、僕は淡々と歩を進める。
擦れる布の音も、敷石を踏む靴音も生じない。僕の周囲数メートルは、完全に外部から遮断された無響の牢獄だ。
教頭は脂汗に塗れた額を拭おうともせず、背中で地面を擦りながら後退した。
「貴様、いつから……いや、あり得ん! あの時、測定器すら鳴らせなかった無能が、何故こんな真似ができる!?」
「測定器が沈黙したのは、魔力がなかったからじゃありません。あの機械の計測音ごと、僕が遮断していただけです」
事実をありのままに告げると、教頭の顔が怒りと屈辱で真っ赤に染まった。自分が長年誇ってきた学園の評価基準そのものを、根底から否定されたのだ。
「ふざけるな……! 派手な破壊力こそが魔法の真髄だ! 音を消すだけの小細工など、ゴミ溜めの蛆虫が使う下劣な手品に過ぎん!」
教頭は懐から取り出した予備の短杖を突き出した。
無詠唱に近い発動を可能にする高価な魔道具だ。切迫した魔力が青白い雷光となって収束する。
僕は身じろぎもせず、ただ左手を軽く掲げた。
教頭の杖の先端に向けて、消音の領域を針のように尖らせて打ち込む。
パキン、と乾いた破裂音すら鳴らずに、圧縮された雷光の芯が崩壊した。魔道具の先端に小さな亀裂が走り、青い光粒が床へとこぼれ落ちて消える。
「そんな……私の特注品が……」
「小細工で悪かったですね。でも、戦場で音が鳴らないというのは、こういうことです」
教頭が次の行動を起こす隙を与えず、僕は間合いをゼロにした。
踏み込みの予兆すら察知できなかった教頭の胸倉を、左手で掴み上げる。巨体がふわりと浮き上がり、背後の大理石柱へと叩きつけられた。
鈍い衝撃が柱を揺らしたが、破壊音は僕の領域に吸い込まれて響かない。
「がはっ……!?」
「ジンさんに叩き込まれた体術は、大振りな魔法使いには少し荷が重いかもしれません」
僕は短剣の柄頭で、教頭の右肩の関節を正確に打ち据えた。魔力経路の集中する急所だ。教頭は激痛に目を剥き、声にならない悲鳴を喉の奥で詰まらせる。
反撃の魔力を練ろうとするたび、僕はその起点となる呼吸と音を奪い、関節を封じていった。
圧倒的な蹂躙だった。威力も派手さもない。だが、相手に何もさせず、反撃の選択肢を一つずつ確実に削り取っていく。
かつて僕を役立たずと切り捨てた男が、いまや虫のように手足を痙攣させているだけだった。
◆ーーーー◆
柱の影に身を潜めていたレオンは、呼吸の仕方を忘れていた。
金髪は乱れ、特待生のバッジは泥に汚れている。テロリストに包囲されたとき、命乞いをして見逃された情けない姿のまま、彼は修練場の惨劇を見つめていた。
(嘘だ……嘘だろ……)
信じられるはずがなかった。
教頭は学園でも指折りの高位魔導士だ。放たれる魔法の一撃は城壁すら粉砕する。それこそが力であり、選ばれた人間の証だとレオンは信じて疑わなかった。
その教頭が、手も足も出ずに打ちのめされている。
相手は、昨日まで自分たちが散々嘲笑い、ゴミのように見下していた落第生だ。
ルークの動きには、華々しい光も、空を震わせる咆哮もない。
ただ静かで、滑らかで、あまりにも残酷だった。
教頭がどれほど強力な術式を起動しようとしても、ルークが指を僅かに動かすだけで、まるで最初から何もなかったかのように消滅してしまう。
魔力の大きさで全てが決まるはずの世界で、その魔力を発揮する機会すら与えられない。
(あいつは……あんな怪物を、僕たちは無能だと笑っていたのか……?)
レオンの全身を、冷たい戦慄が駆け抜ける。
自分がこれまで積み上げてきた特待生としての誇りや、他者を見下すことで得ていた優越感が、音を立てずに崩壊していくのを感じていた。
ルークが教頭の腕を極め、短杖を取り上げて床に落とす。
その冷徹な横顔には、怒りも憎しみも浮かんでいなかった。ただ仕事を淡々と片付ける職人のような、底知れない静けさだけがあった。
レオンは物陰で小さく丸まり、ただ歯の根を鳴らして震えることしかできなかった。
もし、あの男の標的が自分に向いたら。そう考えただけで、膀胱が縮み上がるような恐怖に襲われた。
声を出して助けを呼ぶことすら、今のレオンには許されない禁忌のように思えた。
◆ーーーー◆
教頭の魔力反応は完全に潰えた。
膝をつき、荒い息を吐きながら僕を見上げる男の目には、もはや権威の欠片も残っていない。
「た、助けてくれ……頼む、ルーク……! 私が悪かった、退学は取り消す! 特待生の地位も、将来のポストも全て用意しよう……!」
見苦しい懇願が、途切れ途切れに耳へ届く。
僕は静かに黒刃の短剣を持ち直した。
「結構です。僕の居場所は、もうここにはありませんから」
「待て、待ってくれ! 私は教頭だぞ! 私を殺せば、貴様もただでは済ま――」
僕は短剣の切っ先を、教頭の喉元へとぴたりと突きつけた。
ひ、と喉を鳴らして教頭が言葉を飲み込む。
「テロ組織と手を組み、学園の地下に爆薬を仕掛けた首謀者を、裏社会の人間がどう処理するか。想像がつきますよね」
冷徹な宣告に、教頭の瞳から完全に光が消えた。
修練場に漂う煙の向こうから、ゆっくりとした足音が近づいてくる。
姿を現したのは、灰色の髪を揺らしたジンだった。黒いコートを翻し、いつもの飄々とした笑みを口元に浮かべている。
「上出来だ、ルーク。地下の連中も片付いたし、お前の仕事ぶりも完璧だったぜ」
ジンは腰のホルダーに煙管を戻しながら、床に転がる教頭を一瞥した。
「こいつの身柄はギルドで引き取る。表の騎士団に引き渡す前に、色々と吐かせなきゃならねえ情報が山ほどあるからな」
「了解です。後の尋問はお任せします」
僕は短剣を引き、静かに息を整えた。
ジンは僕の肩をポンと叩くと、懐から重みのある革袋と、銀色に輝く小さな牌を取り出して放ってきた。
受け止めると、ずっしりとした金貨の重みと、精巧に刻まれたギルドの最高位を示す紋章が手のひらに伝わる。
「今回のテロ阻止、ギルドマスターからの特級報酬と、最高位の認可証だ。お前はもう、ただの新人じゃねえ。裏社会で誰一人として無視できない一流の『影』だ」
「……ありがとうございます、ジンさん」
「礼を言うのはこっちだ。お前を拾った俺の目に狂いはなかったってわけだ」
ジンの言葉には、確かな誇りと信頼が込められていた。
かつて誰も認めてくれなかった僕の力を、この人たちは最初から信じ、居場所を与えてくれたのだ。
僕たちの背後では、騒ぎを聞きつけた騎士団の足音が遠くから近づいてきていた。
「さて、表の連中が来る前にずらかるぞ。お前は明日からも、冴えない落第生をきっちり演じ続けなきゃならねえんだからな」
「ええ、分かっています」
僕は懐中時計をポケットに収め、ジンとともに影の中へと足を踏み出す。
学園では相変わらず、無能と見下される日々が続くだろう。
だが、僕の胸にはもう一片の迷いもなかった。確固たる力と、信じ合える仲間がいる。この二重生活こそが、僕の選んだ生き方なのだ。
倒れ伏す教頭の背後を振り返ることなく、僕は冷たい夜の帳の中へと溶け込んでいった。
だが、戦いの余波はまだ完全に消え去ったわけではない。
拘束された教頭の瞳に宿る、底知れぬ狂気と最後の足掻きを、僕はこの時まだ見落としていた。




