第18話
着地音すら消し去り、僕は学園の旧校舎の廊下へと降り立った。
冷たい夜風が、戦闘の余波で割れた窓ガラスの隙間から吹き込んでくる。
制服の下に着込んだ漆黒の装束が、闇に溶け込むように僕の輪郭を隠していた。前もってガルドが完璧に仕上げてくれた短剣の感触を確かめると、僕はすぐさま次なる行動へと意識を切り替えた。微かな焦げ臭さが漂う中、一刻も早く事態を収拾しなければならない。
僕は暗闇の中に身を潜めながら、通信魔道具越しにジンさんから送られてきた配置図を、頭の中で正確に組み立てていた。
学園の主要な通路、正門、そして魔力供給の要となる地下施設に至るまで、すでにバイス教頭の息がかかった汚職貴族の私兵たちによって完全に制圧されている。
窓越しに眼下の中庭を見下ろすと、そこには凄惨な光景が広がっていた。
表社会の精鋭であるはずの王都騎士団や、高位の魔法を操るベテランの教師陣が、次々と地に伏している。普段は生徒たちに魔法の威力を誇示し、絶対的な権威として君臨していた彼らが、今は見る影もなく逃げ惑っていた。
テロリストたちは、特殊な魔法波長を放つ防御結界を展開し、さらに複数人で陣形を組んで大規模な詠唱魔法を放っていた。
魔法の威力と派手さが人間の価値のすべてを決めるこの学園において、彼らの誇る高火力魔法が結界に弾かれ、全く通用しないという事実は、かつてない絶望的な危機をもたらしていた。
炎の槍も、氷の刃も、半透明の結界に触れた瞬間に魔力の霧となって消え去っていく。
指揮系統は寸断され、教師たちはパニックに陥り、ただ無秩序に魔法を乱れ撃つだけの烏合の衆と化していた。
「……ひどい有様だ」
僕は短く呟き、視線を廊下の奥へと向けた。
表では相変わらず目立たない、退学寸前の落第生として振る舞ってきた僕だが、裏社会ではすでに多くの任務をこなし、暗殺者としての技術を磨いてきた。
学園の優秀な生徒たちが束になっても苦戦するような凶悪な魔物や、裏で甘い汁を吸いながら強力な護衛を侍らせる汚職貴族たち。僕は彼らを、誰にも気付かれることなく、音もなく処理してきたのだ。
表の社会では無能と蔑まれるこの力が、裏の世界では最強の刃となる。その事実が、僕の背中を押していた。
火力偏重の価値観に縛られた彼らには、この状況を打破することはできない。
だが、僕の「消音」魔法ならば、彼らの防衛網など存在しないも同然だった。
廊下の先から、鼓膜を揺らすような爆発音と、切羽詰まった怒声が聞こえてきた。
僕は気配を殺したまま、音のする方へと滑るように移動する。
角を曲がった先の広いエントランスホールで、特待生のレオンが数人の私兵に囲まれていた。彼の背後には、主席優等生のエリアが庇われるように立ち、青ざめた顔で震えている。
「ふざけるな! 僕の魔法が効かないはずがない! 僕は特待生だぞ!」
レオンが綺麗に撫でつけた金髪を振り乱し、胸元のバッジを見せびらかすようにしながら、大仰な身振りで長い詠唱を紡ぎ始めた。
魔力の高さが人間の価値だと信じて疑わない彼は、常に強者として振る舞い、弱者を徹底的に痛めつけてきた。
「我が手に集え、万物を焼き尽くす紅蓮の業火よ。愚かなる者どもに、絶対的な力の差を刻み込め!」
彼の手から放たれた巨大な火球は、私兵たちが掲げた魔道具の結界に触れた瞬間、あっけなく霧散した。
熱風だけがホールを吹き抜け、私兵たちは無傷のまま冷酷な笑みを浮かべている。
「な、なんだと……? 僕の最大火力が……」
レオンの顔が引きつり、激しいパニックに陥る。
傲慢で選民思想の塊である彼にとって、自分の魔法が無効化されることは、存在意義そのものの否定に等しかった。彼は後ずさりし、足をもつれさせて床に尻餅をつく。
「無駄だ、特待生。大人しく降伏しろ。お前たちの時代は終わったんだ」
私兵の一人が剣を振り上げ、レオンにトドメを刺そうと踏み込む。
レオンは完全に腰を抜かして悲鳴を上げ、エリアも絶望に目を閉じた。
その瞬間、僕は動いた。
『消音』。
短い思考と共に、僕の魔法が発動する。
自身の気配、足音、そして衣擦れの音すらも、空間から完全にゼロにする。
僕は無音のまま、剣を振り上げた私兵の背後へと滑り込んだ。
僕は私兵の首筋に短剣を突き立て、声すら上げさせずにその場に崩れ落とさせた。
倒れる肉体の音も、床にぶつかる金属音も、すべてが沈黙の中に吸い込まれていく。
「なっ……何が起きた!?」
残る私兵たちが混乱し、周囲を慌ただしく見回す。
だが、彼らの目に僕の姿は映らない。
一人目の首筋を切り裂き、二人目の心臓を背後から貫く。三人目が異変に気付いて振り返ろうとした瞬間には、すでにその顎の下に刃を滑り込ませていた。
肉を断つ鈍い音も、血飛沫が床に落ちる音すらも、僕の魔法が完全に封じ込める。
残った一人が恐怖に顔を引きつらせ、慌てて通信魔道具を取り出そうとしたが、その手が触れるより早く、僕の短剣が彼の喉笛を正確に捉えていた。
あっという間に、レオンたちを追い詰めていたテロリストたちは、物言わぬ骸となって床に転がっていた。
静寂が戻ったホールで、レオンは呆然と座り込んでいた。
自分の身に何が起きたのか、全く理解できていない様子だ。
その隣で、エリアがゆっくりと目を開け、震える瞳で僕を見つめている。
漆黒の装束に身を包んだ僕の姿は、彼女の目にどう映っているのだろうか。
だが、彼女の視線に恐怖の色はなかった。
そこにあるのは、確かな憧れと、深い安堵の色だった。
彼女は、学園の誰もが認める才女であり、光の当たる場所を歩く存在だ。そんな彼女が、闇に生きる暗殺者である僕に、すがるような視線を向けている。
かつて、僕の魔法を役立たずと切り捨てたこの学園で、僕の力が誰かの希望になっている。
表社会の象徴とも言える優秀な彼女が、名もなき暗殺者である僕に希望を見出している。
その事実が、僕の胸の奥に小さな自信を灯してくれた。
僕はもう、ただの役立たずの落第生ではない。裏社会で培ったこの力は、確実に誰かを救うことができるのだ。
僕は彼らに正体を明かすことなく、懐から秒針の音がしない時計を取り出した。
ジンさんから渡された、無音の懐中時計。
単なる隠密用のアイテムだと思っていたそれは、実は僕の力を蓄積するための魔道具だった。
◆ーーーー◆
『いいか坊主。こいつはただの時計じゃない』
煤にまみれた作業着を着たガルドが、工房の薄暗いランプの下で、ぶっきらぼうに言った。
彼は筋骨隆々の腕組みをし、僕の手にある時計を顎でしゃくる。
『お前のその特異な魔力を吸収し、限界まで蓄積するリミッターだ。いざって時に解放すれば、お前の魔法はさらに広範囲の空間を支配できる。だが、使い所は間違えるなよ。魔法の威力ばかりをありがたがる連中には、一生理解できない代物だ。お前のその消音ってのはな、使い方次第で世界をひっくり返せる。俺の技術と、お前の力。その二つが合わされば、どんな強固な守りだって紙切れ同然だ』
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時計の表面には、微かな魔力の光が脈打っていた。
リミッターの解放準備は、すでに整っている。
この力を使えば、学園全体を覆うような大規模な制圧も可能になるかもしれない。
「……逃げろ。中央階段はもう安全だ」
僕は声を低く変え、短く告げた。
レオンはハッとして顔を上げ、何かを言いかけた。
だが、僕はそれに構わず、再び闇の中へと身を翻す。
彼らを見捨てるつもりはない。退路は確保した。あとは彼ら自身で安全な場所へ向かうはずだ。
かつて僕を見下し、無能と嘲笑った者たち。
彼らを救ったことで、僕は自らの力への確信を深めていた。
魔法の威力がすべてではない。確実に標的を仕留め、大切なものを守り抜く技術こそが、今の僕の武器なのだ。
窓の外からは、依然として遠くで戦闘の気配が感じられる。
バイス教頭が企てたこの絶望的なテロ計画を、完全に終わらせなければならない。
僕は無音の刃を握り直し、さらなる深淵へと足を踏み入れた。
次なる標的は、この惨劇を作り出した首謀者たちだ。
僕の戦いは、まだ始まったばかりだった。




