第17話
白み始めた空は、やがて無機質な灰色の雲に覆われた。
冷たい風が窓を叩く音だけが、不気味なほど静かな朝を告げている。
僕は自室のベッドに腰掛けたまま、手元の懐中時計を見つめていた。
針は進む。時間は止まらない。
そして、朝のホームルームが始まる直前。
学園の正門付近から、鼓膜を突き破るような爆発音が轟いた。
地響きとともに窓ガラスがビリビリと震え、遠くから生徒たちの悲鳴が波のように押し寄せてくる。
ついに始まった。
僕は立ち上がり、部屋を飛び出した。
廊下はすでに大混乱に陥っていた。
「なんだ、今の音!」
「正門の方から火の手が上がってるぞ!」
逃げ惑う生徒たちの波に逆らいながら、僕は中央階段へと向かう。
その途中、青ざめた顔のトムと鉢合わせた。
「おい! なんだよこれ、どうなってんだ!」
彼は僕の肩を掴み、パニックに陥ったように叫ぶ。
「落ち着いて、トム。とにかく安全な場所へ逃げるんだ」
僕は彼の腕を引き、普段は誰も寄り付かない旧校舎の備品室へと誘導した。
埃っぽい部屋の中に彼を押し込む。
「お前はどうするんだよ! 一緒に隠れようぜ!」
「僕は……少し様子を見てくる。絶対にここから出ないで。誰が来ても、息を潜めているんだ」
「馬鹿野郎、お前一人で何ができるってんだよ!」
トムの言葉には、純粋な心配が込められていた。彼はずっと、僕を馬鹿にせず対等に接してくれた。
だからこそ、彼を巻き込むわけにはいかない。
「大丈夫。すぐに戻るから」
扉を閉め、外から鍵をかける。
表の冴えない落第生としての役割は、ここで終わりだ。
◆ーーーー◆
中央階段の踊り場から見下ろすエントランスホールは、すでに惨劇の舞台と化していた。
重武装の私兵たちが、無機質な仮面をつけて次々と校舎へなだれ込んでくる。
彼らの先頭に立っているのは、高価な魔法石の装飾品を身につけた恰幅の良い男。バイス教頭だった。
「無能な教師陣も、見掛け倒しの騎士団も、すでに私の配下が制圧した」
教頭の声が、魔道具によってホール全体に響き渡る。
「今日からこの学園は、私の理想通りに生まれ変わるのだ。力なき者は排除され、真の優秀な者だけが生き残る!」
彼の背後に並ぶ私兵たちが、一斉に杖を構えた。
大規模な詠唱が始まる。空気が歪み、圧倒的な魔力が渦を巻く。
迎え撃とうとした数人の教師たちが魔法を放つが、私兵たちの展開した巨大な魔力の壁に阻まれ、次々と弾き飛ばされていく。
「馬鹿な……これほどの規模の魔法を、一瞬で……!」
教師の一人が膝をつき、絶望の声を漏らす。
手も足も出ない。学園は完全に制圧されようとしていた。
僕は息を潜め、死角を縫って移動を開始する。
正面からぶつかれば、一瞬で消し炭にされるだろう。
だが、僕の戦場はそこではない。
廊下の影、柱の裏、視線の通らない暗がり。
そこが僕の領域だ。
渡り廊下を抜けようとした時、鋭い悲鳴が耳に届いた。
声のする方へ視線を向けると、一人の女生徒が私兵に追い詰められていた。
長い銀髪を揺らす主席優等生、エリアだ。
彼女は杖を構えているが、恐怖で手が震え、詠唱の言葉がまとまっていない。
「くそっ……離れなさい!」
彼女が放った牽制の魔法は、私兵の盾に容易く弾かれた。
男が剣を振り上げ、無慈悲な一撃を振り下ろそうとする。
間に合わない。
そう思った瞬間、僕は思考を切り離し、右手に魔力を練り上げた。
空間の音を奪う。
足音も、衣擦れも、呼吸すらも。
僕は影から飛び出し、背後から私兵に肉薄した。
男は僕の接近に全く気づいていない。
振り下ろされる剣の軌道を左手で逸らし、同時に右手の手刀を首筋に叩き込む。
鈍い衝撃。
男の体が崩れ落ちるのを抱き留め、音を立てずに床へ寝かせる。
一連の動作は、わずか数秒の間に、完全な無音の中で行われた。
エリアが目を見開いて、床に倒れた男と僕を交互に見ている。
僕はすでに制服のフードを目深に被り、顔の半分を布で覆っていた。
「あなたは……」
彼女の震える声。
その瞳には、恐怖ではなく、得体の知れない存在への強い憧憬が宿っていた。
表社会の象徴とも言える彼女が、名もなき影に救いを求めている。
かつて僕を透明人間のように扱っていたこの学園で、彼女だけは、僕の正体を知らないまま、確かな信頼の眼差しを向けている。
その事実が、僕の胸の奥に小さな熱を灯した。
僕は何も答えず、ただ短く頷いてから、再び影の中へと溶け込んだ。
「待って……!」
彼女の声が背後で響いたが、振り返ることはしなかった。
◆ーーーー◆
誰もいない空き教室に滑り込み、壁に背を預けて息を吐く。
心臓が早鐘のように打っている。
その時、胸元に忍ばせていた懐中時計が微かに震えた。
カバーを開けると、ガラス面に文字が浮かび上がる。通信用の魔道具だ。
『生きてるか』
ジンの声が、頭の中に直接響いた。
「……なんとか。でも、状況は最悪です。教頭が私兵を引き入れて、教師陣も動けません」
『分かってる。だから連絡した』
ジンの声には、いつもの飄々とした余裕があった。
『あんたの命の恩人様が、大盤振る舞いしてくれてな』
「恩人?」
『セリアンだ。あのお堅い当主様が、ギルドのパトロンとして莫大な資金を出した。ついでに、テロリストの配置図も手に入れてくれたぜ』
ガラス面に、学園の詳細な見取り図と、敵の配置を示す光点が浮かび上がる。
『お前一人に背負わせる気はない。裏の連中も動いてる。表の連中が手も足も出ないなら、俺たちのやり方で片付けるだけだ』
孤立無援だと思っていた。
自分一人で、この巨大な絶望に立ち向かわなければならないのだと。
だが、違った。僕には、僕の力を認めてくれる仲間がいる。
『無理はするな。だが、やるからには完璧にこなせ。それがプロってもんだ』
「……ジンさん」
『なんだ』
「配置図、助かります。ここからは、僕の仕事だ」
『ああ。派手にやらかすなよ。あくまで俺たちは、日陰者だからな』
通信が切れる。
僕は制服のボタンを外し、床に落とした。
その下に着込んでいたのは、闇に溶け込むような漆黒の装束。
手には、ガルドが調整してくれた短剣が握られている。
刃の黒光りが、冷たい決意を映し出していた。
窓の外では、依然として私兵たちが学園を蹂躙している。
彼らは圧倒的な武力と魔力で、表の人間たちを屈服させようとしている。
だが、僕の心は不思議なほど静かだった。
彼らは知らない。
派手な魔法と威力がすべてだと信じている彼らは、音もなく忍び寄る死の恐怖をまだ味わっていない。
僕は窓枠に足をかけ、冷たい風の中に身を躍らせた。
裏社会の支援を受けた影が、学園の闇へと静かに滑り込んでいく。
この反撃がどこまで通用するのか、確証はない。
だが、僕の刃は確実に、彼らの急所を捉えようとしていた。




