第12話
答えのない問いだけが、静かな不安となって胸の奥に澱のように溜まっていった。
医務室に運ばれたエリアは、その後すぐに馬車で帰宅したと聞いた。だが、彼女を苦しめていた耳鳴りの原因は取り除かれていない。
僕は学園の制服を脱ぎ捨て、裏社会で纏う黒装束に着替えた。表の落第生として彼女に近づくことは許されない。ならば、影から彼女の無事を確認するしかなかった。
夕闇が王都を包み込み、ガス灯が石畳に淡い光を落とし始める頃。
僕は屋根伝いに移動し、エリアを乗せたはずの馬車の軌跡を追った。しかし、彼女の姿は思わぬ場所にあった。
大通りから外れた、薄暗い裏路地。
エリアは壁に手をつき、荒い息を吐いていた。青白い顔には苦痛が滲み、時折耳を塞ぐように首を振っている。馬車を降りて、一人で歩いていたのだろうか。
その時、路地の奥から複数の影が滲み出た。
「やはり、この波長に過敏に反応する生徒がいたか」
くぐもった声が響く。黒いローブを深く被った三人の男たちが、エリアの退路を塞ぐように立ち塞がった。
彼らの手には、鈍く光る杖が握られている。
「学園の優等生殿。お前には少し、耳が良すぎたようだ」
男の一人が杖を構え、呪文を紡ぎ始めた。
エリアは弾かれたように顔を上げ、自身の魔力を練ろうとする。だが、体調不良のせいか、彼女の指先から光は生まれない。
「くっ……あなたたちは、一体……」
彼女の声は震えていた。
男たちの狙いは明らかだった。学園に仕掛けられた何らかの計画。その準備段階で発せられる特殊な波長に、エリアが気づきかけている。だからこそ、口封じのために襲撃してきたのだ。
男の杖の先端に、赤黒い炎が収束していく。
僕は屋根を蹴り、路地へと飛び降りた。
空中で魔力を練り上げる。
僕に使える唯一の異能。空間の音を根こそぎ奪い去る力。
着地と同時に、世界から一切の響きが消失した。
「なっ……!?」
男の唇が動くが、声は出ない。
紡がれていた呪文が強制的に途切れ、杖の先端に集まっていた炎が霧散する。魔法の威力が全てを決めるこの世界において、呪文を封じられることは死を意味する。
男たちが混乱し、周囲を見回す。
僕は無音の世界を滑るように駆け抜け、一番手前にいた男の背後に回った。手刀を首筋に叩き込む。骨の軋む感触だけが手に残り、男は声もなく石畳に崩れ落ちた。
「……!」
残る二人が僕の存在に気づき、慌てて距離を取ろうとする。
だが、遅い。
気配を完全に遮断した僕の動きを、彼らが捉えられるはずもない。僕は二番目の男の懐に潜り込み、短剣の柄で鳩尾を突いた。くの字に折れ曲がった男の顎を蹴り上げ、意識を刈り取る。
最後の男が恐怖に顔を引き攣らせ、懐から短剣を抜いて振り回した。
僕はその腕を掴み、関節を極めて地面に押さえつける。抵抗する力を奪い、そのまま後頭部を打ち据えた。
三人の男たちが、ピクリとも動かなくなる。
僕はゆっくりと息を吐き、異能を解除した。
路地に、遠くの喧騒と夜風の音が戻ってくる。
「あなたは……」
背後から、微かに震える声が聞こえた。
振り返ると、エリアがへたり込んだまま、僕を見上げていた。
その青い瞳には、恐怖ではなく、強烈な熱が宿っている。
「音もなく、彼らの呪文を封じるなんて。それに、あの身のこなし……」
彼女はフラフラと立ち上がり、僕に向かって一歩を踏み出した。
「助けていただいて、恩に着ます。あなたのような凄腕の方が、この街にいらっしゃるなんて」
真面目で正義感の強い彼女らしい、真っ直ぐな言葉だった。
表の学園では、僕はただの役立たずだ。誰からも期待されず、蔑まれるだけの存在。
だが、今の彼女は僕を「凄腕」と呼び、憧憬の眼差しを向けている。その事実は、僕の胸の奥に小さな温もりを灯しかけた。
けれど、僕は声を出せない。
ここで言葉を発すれば、正体が露見してしまう。彼女が憧れているのは、あくまで正体不明の影であり、落第生のルークではないのだ。
彼女の真っ直ぐな視線を受け止めることができず、僕は顔を背けた。
「待ってください。せめて、お名前を……」
エリアが手を伸ばしてくる。
僕はその手を躱し、路地の壁を蹴って屋根へと跳び上がった。
振り返ることなく、夜の闇へと溶け込む。
背中越しに彼女の気配が遠ざかっていくのを感じながら、僕は深く息を吐き出した。
◆ーーーー◆
王都を見下ろす時計塔の屋根。
冷たい夜風に吹かれながら、僕は眼下に広がる街の灯りを見つめていた。
「随分と甘い真似をしたな」
背後から、飄々とした声が降ってくる。
振り返ると、灰色の髪を無造作に伸ばしたジンが、腕を組んで立っていた。
「……見ていたんですか」
「お前さんの初仕事からこっち、放任主義ってわけにもいかないんでな」
ジンは鼻で笑い、僕の隣に並んで街を見下ろした。
「表の優等生を助けたところで、お前さんの評価が上がるわけじゃない。むしろ、余計な厄介事を背負い込んだだけだぞ」
「分かっています」
僕は短く答えた。
エリアを救った。彼女から感謝の言葉ももらった。
だが、胃の奥には冷たく重い鉛のような感覚が居座っている。
彼女を襲った男たちは、末端の実行犯に過ぎない。彼らが何を企み、なぜ学園に特殊な波長を仕掛けているのか。その全貌は依然として闇の中だ。
そして何より、僕は素顔のまま彼女を救うことができなかった。
表の世界では何もできず、裏の世界の力を使わなければ大切な人を守ることすらできない。彼女が憧れを抱いたのは、僕が作り上げた虚像でしかないのだ。
「あの連中、学園で何かを企んでいます」
「だろうな。だが、深入りはするなよ。俺たちは依頼を受けて動く。正義の味方ごっこに付き合う気はない」
ジンの言葉は冷徹だった。
引き受けた仕事はやり遂げる。それが彼の、そしてこの組織のルールだ。個人的な感情で動くことは、裏社会では命取りになる。
「……分かっています」
僕はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
ジンはそれ以上何も言わず、闇に紛れて姿を消した。
一人残された時計塔の上で、僕は自分の両手を見つめる。
敵の呪文を封じ、音もなく制圧する力。裏の世界でこそ輝くこの異能は、確かに僕に居場所を与えてくれた。
だが、この力で学園の陰謀を暴くことができるのか。
エリアを苦しめる見えない波長の正体。学園を狙う組織の真の目的。
それらを突き止めたとして、表の落第生である僕の言葉を誰が信じるというのか。
問題は何も解決していない。
冷たい夜風が、僕の黒装束を揺らす。
眼下に広がる王都の灯りは、どこまでも遠く、冷たく見えた。
答えのない問いと、底知れぬ無力感だけが、静かな不安となって胸の奥に降り積もっていく。
僕はただ、闇の中で立ち尽くすことしかできなかった。




