第11話
裏社会で新たな居場所を見つけた僕の日常に、学園に迫る不気味な危機が、音もなく忍び寄っていた。
ミラの言葉が頭の片隅にこびりついたまま、僕は夜の闇に溶け込んでいた。
最近の僕は、二つの世界を行き来している。
一つは、ギルドの新人として与えられる任務をこなす夜の世界だ。
昨夜の標的は、王都の裏で甘い汁を吸う汚職貴族だった。
分厚い石壁に囲まれた豪邸。庭には魔力探知の結界が張り巡らされ、武装した警備兵が等間隔で巡回している。表の騎士団でさえ、正面から突破するのは容易ではないだろう。
だが、僕にとってはただの散歩道に等しかった。
異能を展開し、自身の発するあらゆる音をゼロにする。足音も、衣擦れも、呼吸音すらも闇に溶け込む。探知結界の波長も、僕の魔法が相殺してエラー音一つ鳴らさない。
僕は誰にも気づかれることなく屋敷の奥深くに潜入し、金庫から秘密の帳簿を奪い取った。警備兵たちは、すぐ背後を通り過ぎる僕の存在に微塵も気づいていなかった。
あるいは数日前。学園の優秀な生徒たちが実技演習で苦戦していた凶暴な魔物を処理した時のことだ。
森の奥深くで、巨大な爪を持つ魔物が暴れ回っていた。生徒たちの放つ派手な炎や雷の魔法は、魔物の分厚い皮膚に弾かれ、逆に彼らを窮地に陥れていた。
僕は木々の影から静かに近づいた。
魔物は目の前の生徒たちに気を取られ、背後から忍び寄る僕に全く気づかない。僕は音もなく跳躍し、職人ガルドに調整してもらった短剣を魔物の急所に突き立てた。
断末魔の叫びすら上げる暇を与えず、魔物は崩れ落ちる。
生徒たちは何が起きたのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くしていた。僕は彼らが振り返る前に、再び闇の中へと姿を消した。
夜の僕は、誰よりも自由に動けた。
標的は自分が狩られたことすら気づかない。僕の異能は、裏社会において圧倒的な優位性を持っていた。
◆ーーーー◆
しかし、朝日が昇り学園の門をくぐれば、僕はただの落第生に戻る。
「おい、そこをどけよ。目障りだ」
学園の廊下で、背後から肩を強く突き飛ばされた。
体勢を崩して壁に手をつく僕を見下ろしているのは、金髪を綺麗に撫でつけたレオンだった。彼の胸元では、特待生のバッジが嫌味なほどに輝いている。
「お前みたいな底辺が、僕たちと同じ空気を吸っているだけで不愉快なんだ。さっさと荷物をまとめて出て行けよ」
周囲の生徒たちがくすくすと笑い声を上げる。
僕は何も言い返さず、ただ俯いて廊下の端に寄った。
夜の僕なら、彼が瞬きをする間に背後を取り、その喉元に刃を突きつけることができる。彼が誇る膨大な魔力も、長い詠唱を必要とするなら僕の前では無意味だ。
けれど、表の学園ではそんな力は何の価値もない。ここでは、派手な光と轟音を伴う魔法だけが絶対的な正義なのだ。
「気にするなよ、ルーク」
レオンたちが通り過ぎた後、トムが小走りで駆け寄ってきた。少し着崩した制服のポケットに手を突っ込みながら、呆れたように肩をすくめる。
「あいつら、魔力が高いだけで自分が世界の中心だとでも思ってんだろ。俺なんて、昨日の小テストでまた赤点だったぜ」
トムの楽観的な声に、僕は曖昧に頷いた。
彼のように権威に媚びない存在はありがたい。だが、表と裏のギャップは、確実に僕の心を削っていた。
夜は命のやり取りをし、昼はただ無能として蔑まれる。その静かな疲労と孤独が、鉛のように胃の奥に溜まっていく。
◆ーーーー◆
午後の魔法理論の授業中、老教師が黒板に複雑な術式を書き連ねるのをよそに、僕は斜め前の席に座るエリアの後ろ姿をぼんやりと見つめていた。
透き通るような銀髪と、隙のない姿勢。彼女は誰に対しても公平であろうとする、この学園の良心のような存在だ。
ふと、エリアの肩が微かに震えた。
彼女はペンを持った手を止め、もう片方の手で耳元を押さえている。
「……っ」
小さな、けれど苦痛に満ちた声が漏れた。
周囲の生徒はまだ誰も気づいていない。老教師も黒板に向かったままだ。
エリアの震えは次第に大きくなり、彼女は机に突っ伏すようにして身を屈めた。
「おい、どうしたんだ?」
隣の席の生徒がようやく異変に気づき、声をかける。
その瞬間、エリアは椅子から崩れ落ち、石造りの床に倒れ込んだ。
「エリア!」
教室中が騒然となる。トムが立ち上がり、他の生徒たちも慌てて彼女の周りに集まった。
僕も思わず席を立ち、彼女のそばへ駆け寄ろうとした。
だが、足が止まる。
床に倒れたエリアは、両手で耳を塞ぎ、浅い呼吸を繰り返していた。彼女の青い瞳は焦点が合わず、見えない何かに怯えているようだった。
「誰か、医務室へ! 早く!」
レオンが人垣を掻き分けて進み出て、エリアを抱き起こそうとする。
「大丈夫か、エリア。僕がついている」
彼は周囲に自分の存在をアピールするかのように大声を上げた。
僕はその輪の外で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
夜の闇の中なら、どんな敵でも排除できる。どんな危険からも身を隠せる。
けれど、今目の前で苦しんでいる彼女を救うための魔法を、僕は持っていない。派手な治癒魔法も、原因を探る探知魔法も、僕には使えないのだ。
表の自分は、ただの無力な落第生でしかない。
◆ーーーー◆
エリアは数人の教師とレオンの手によって、医務室へと運ばれていった。
主を失った教室には、ざわめきと不安だけが残されている。
「急に倒れるなんて、どうしたんだろうな……」
トムが心配そうに呟く。
僕は自分の席に戻り、固く拳を握り締めた。
彼女を苦しめている原因。それは単なる体調不良ではない。以前から彼女が訴えていた耳鳴り。そして、ミラが教えてくれたバイス教頭と汚職貴族たちの密談。
学園の奥深くで、何かが確実に進行している。見えない波長が、この学園の生徒たちを蝕み始めているのだ。
それが何なのか、僕には分からない。
ギルドの力を使えば、あるいは原因を突き止めることができるかもしれない。だが、それを表の学園でどうやって証明する? 無能な落第生が何を言ったところで、誰が信じるというのか。
窓の外では、傾きかけた太陽が学園の尖塔を赤く染めている。
エリアが信じてきた正義や秩序が、根底から腐敗しているとしたら。彼女がそれを知ったとき、どれほど傷つくのだろうか。
僕は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
裏社会でどれだけ実力を示そうと、表の世界では何も変えられない。大切な人が目の前で倒れても、手を差し伸べることすら許されない。
胃の奥が冷たく重い。
学園を覆う見えない波長は、確実に彼女を蝕んでいる。
その正体が何なのか。僕にそれを止める術はあるのか。
答えのない問いだけが、静かな不安となって胸の奥に澱のように溜まっていった。




