第9話 君の名前も知らない。
朝。
いつもの時間に、彼女がやってきた。
銀色の髪が、朝の光を受けて淡く輝いている。
勇者は何も言わない。俺の言葉は届かない。
彼女はただ静かに俺の前に立ち、一通の手紙を投函する。
カタン。
小さな音がした。彼女は少しだけ俺を見つめ、それから踵を返した。
数秒。……いや、もっと長かったかもしれない。
何か思い詰めたように足を止め、じっと自分の足元を見つめている。やがて小さく息を吐くと、彼女は今度こそ去っていった。
(……なんだ?)
理由は分からない。
だが、投函口の奥には、いつもと同じように一通の手紙がある。俺は《預かる者》で、その手紙を受け取り、中身を読む。
最初の数行は、普段と何も変わらなかった。
今日の天気。街で見かけた綺麗な花。
昨日食べた食事が美味しかったこと。
そんな、他愛もない日々の報告。
けれど。途中から、文章の雰囲気が一変していた。
──明日、北へ向かいます。
──王都から、特別な任務を受けました。
北。王都。特別な任務。
その文字を見た瞬間、嫌な予感を覚えた。
さらに読み進める。
──みんなは、私なら大丈夫だと言います。
──勇者だから、平気だって。
──でも。私は……自分が思っているほど強くないのかもしれません。
勇者だから強い。絶対に負けない。
誰もがそう信じて疑わないからこそ、彼女は誰の前でも弱音を吐くことができないのだ。息を呑み、静かにその先を追う。
──仲間も、私ならできると思っています。
──私が勇者だから。
──でも、たまに思ってしまう。
──誰か一人くらい、「無理しなくていい」と言ってくれたらいいのに、と。
そこで読むのを止めた。俺はしばらくの間、何も考えることができなかった。
「……そりゃ、怖いだろ」
誰にも聞こえない声で呟く。
「勇者だろうが何だろうが、怖いもんは怖いだろ」
自分だってそうだ。
目が覚めたらポストになっていた。
動けない。まともに話すこともできない。
それでも、周りから見ればただのポストだ。
何でもない存在。
勝手に期待され、勝手に役割を決めつけられる。
背負わされているものの重さはまるで違うが、その孤独の質だけは、ほんの少しだけ似ている気がした。
再び手紙に目を落とす。
文末の近くに、震えるような文字で続きが書かれていた。
──でも、行きます。
──怖いけれど、行かなければいけないから。
──帰ってきたら、また手紙を書きます。
その一文を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
「……ああ」
小さく呟く。
「待ってるよ」
届かないと分かっていても、言葉をかけずにはいられなかった。
ふと、最後に小さく書かれた追伸に気づく。
──そういえば。私はあなたの名前を知りません。
──私の名前も、まだ教えていません。
──変ですね。こんなに手紙を書いているのに。
「……確かにな」
──帰ったら、お互いに名前を言いましょう。
──約束です。
「……名前か」
彼女の名前。俺はまだ、知らない。
それでも──無事に帰ってきたその時には、ちゃんと互いの名を呼び合うことができる。そう思うと、胸の奥が温かくなった。
しばらく、勇者が去った方向を見つめていた。
「おはよう、恒一さん」
それからしばらくして、いつものようにルミナがやってきた。
「ああ」
ルミナは俺の顔を覗き込むと、すぐに違和感に気づいたらしい。
「……どうしたの?」
「何がだよ」
「なんだか、すごく嬉しそう」
「……そうか?」
「うん。なんとなく分かる」
少しだけ、気まずい間が流れる。
「……銀髪の人、来てたんだ?」
「……ああ」
「そっか」
ルミナは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「なんだよ」
「別に」
つれなく言葉をはぐらかす。
「またそれか」
「……あの人と一緒にいるときの恒一さん、ちょっと嫌い」
今度は、ポツリと、けれどはっきりと言った。
「は? なんでだよ」
「なんか、デレデレしてるから」
「してねぇよ!」
「してる」
「してない!」
「してたよ」
「……悪かったな」
「うん。でも別に気にしてないよ」
ルミナはそう言って笑った。
そして、いつものように隣に座る。二人で静かに街の風景を眺める。
「……ルミナ」
「なに?」
「ルミナは俺の名前を知ってるよな」
「うん。『恒一さん』でしょ」
「俺さ……あの人の名前、まだ知らないんだ」
「……そっか」
少しだけ考えてから、ルミナが言った。
「じゃあ、私が代わりに聞いてきてあげようか?」
「そういうことじゃねーよ!」
ルミナは、俺の反応を知っていたかのように、悪戯っぽく微笑んだ。
「帰ってきたら、教えるって」
「……うん」
ルミナはどこか寂しそうに微笑んだ。
「じゃあ、ちゃんと待っていないとね」
「ああ」
その言葉を最後に、二人で空を見上げた。
朝の光が街を優しく包んでいく。
いつもと変わらない、平和な一日。
(……待ってるからな)
届かないと分かっていても。
俺はもう一度だけ、心の中で呟いた。




