第7話 ポストに飲み物を与えないで下さい。
夜。
街の明かりはすっかり途絶え、昼間の喧騒もどこかへ消え去っていた。
俺はいつもの定位置で、ただ静かに佇んでいる。
「…………」
静かだ。
昼間なら手紙を入れる人が次々とやってくるが、夜になるとそれも途絶える。
吹く風の音だけが、耳を撫でていく。
ふと空を見上げれば、満天の星が広がっていた。
綺麗なものだなと思う。
……かなり暇だけど。
「恒一さん」
聞き慣れた声がして、思わず意識を向ける。
月明かりが差し込む路地から、ゆっくりとルミナが歩いてきた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「起きてたんだね」
「お前こそ、さっき別れたばかりだろ」
「なんだか、恒一さんに会いたくて。寝ないの?」
「眠りたくても、眠れないんだよ!」
ルミナは何かを考えるように首を傾げ、俺を見つめてくる。
「そっか」
「そっか、じゃないだろ」
「ずっと?」
「ああ」
ルミナは少し黙った。
「……大変だね」
「今さら気づいたのかよ」
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないけど」
ルミナは俺の隣にしゃがみ込んだ。
「じゃあ、今日は一緒にいる」
「なんで?」
「恒一さん、一人だから」
「……お前だって一人だろ?」
ルミナは少しだけ、嬉しそうに目を細めた。
「だから、一緒にいるんだよ」
「…………」
なんだか不思議な感覚だった。
勇者は毎朝やってきて、手紙を預けると少し話して去っていく。
けれどルミナは違う。用事がなくてもやってくる。ただ、俺と話すためだけに。
「そういえば」
ルミナが懐から何かを取り出した。
「飲み物、持ってきたよ」
「……お前、まさか」
嫌な予感がする。それも猛烈に。
「何をするつもりだ」
「お腹、すかない?」
「ポストに胃袋があると思うか?」
「わからない」
「わからないのかよ。あったら怖いだろ!」
ルミナの手には小さなガラス瓶があった。中でチャポチャポと液体が揺れている。
「試してみよう」
俺の予感は的中した。
「よせ」
「大丈夫だよ」
「やめろ。手紙が濡れる」
「はい」
ジョボジョボジョボ。
「…………」
投函口にジュースが勢いよく入ってきた。
(良い子は絶対に真似しないでください)
「…………」
俺はしばらく沈黙した。
内部構造はわからないが、手紙は多分、濡れていない。
「おいしい?」
「……」
「どう?」
意識をポストの中の液体に集中する。
予想に反して飲めるかもしれない。
いや、むしろ飲める。
ポスト全体に柑橘系の爽やかな味わいが広がっていく。
「うまい!」
「よかった!」
ルミナはまるで自分のことのように喜んでいる。
不思議な子だなと思った。
「うまいけど!」
「うん」
「なんで飲めるんだよ!」
「私に聞かれても……不思議なポストだから?」
俺にもわからない。わかるはずもない。
ポストなのにジュースが飲める。
異世界だからこれくらい普通なのか? それか俺がすごいだけなのかも。
「じゃあ、もう一口」
「待て。お前、完全に楽しんでるだろ」
ルミナが小さく笑った。
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけかよ。もっとくれよ」
暗い街角で、二人して小さく笑い合った。
ポストと少女。誰から見ても頭のおかしい光景だ。
そして、最悪なことに、少し離れた場所を通りかかった住民と目が合ってしまった。
「…………?」
立ち止まる住民。
ルミナが郵便箱に楽しそうに話しかけている。しかも笑いながらジュースを注ぎ込んでいる。
「……何してるんだ、あの子」
別の住人が通りかかる。
「ああ、あの変わった子か」
「ポストに話しかけてるぞ」
「いや、普段はもっと酷い。花瓶とか如雨露とか」
「……触らぬ神に祟りなしか」
「……見なかったことにしよう」
おっさん二人が顔を見合わせ、そそくさと去っていく。
「…………」
俺はその背中を見送った。
「ルミナ」
「なに?」
「今の、絶対見られたぞ」
「うん」
「俺たち、変な目で見られてないか?」
「たぶん」
「お前は気にしないのか?」
ルミナは少しだけ俯く。
「……いつものことだから。気にしないよ」
「…………」
「今さらかな」
「……そうか」
俺は少しだけ、心の中で笑った。
顔なんてないけれど、確かにいま、笑えた気がした。
「じゃあ、俺も気にしないことにする」
「うん」
それから、心地よい沈黙が流れた。
今度の沈黙は不思議と嫌じゃない。誰かが隣にいてくれるだけで、これほど夜が短く感じられるとは思わなかった。
ルミナが空を見上げた。
「綺麗だね」
「ああ」
「恒一さんは、ずっとここで空を見てるんだね」
「まあな。見飽きたくらいだよ」
「じゃあ、また夜に来てもいい?」
「……ああ」
「約束?」
「指切りはできないけど、約束してやる」
ルミナは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、また来るね」
「気をつけて帰れよ」
「うん」
ルミナが軽やかな足取りで路地の奥へ消えていく。
俺はその背中を、姿が見えなくなるまで見送った。
相変わらず夜は長い。
それなのに、眠ることも、散歩することもできない。
それでも。
今日は、少しだけ違った。
「…………」
誰もいない街角で、俺は小さく呟く。
「……明日も来てほしいな」




