第45話 人間の宿も悪くない。
「はぁ〜……! これよ、これ! やっぱり安物でもベッドは最高ね!」
宿の部屋に入るなり、ヴェルは吸い寄せられるようにベッドへ倒れ込んだ。
『おいおい、魔王の娘なんだから、少しは警戒心を持てよな……』
「いいじゃない、鍵はかかってるんだし! 今日くらい羽を伸ばさせなさいよ!」
ヴェルはベッドの上を転がり、天井を見上げた。
慣れない環境で働いていたせいか、かなり疲れているようだった。
『でもまあ……何はともあれ、一安心だな。雨風をしのげるし、騎士団に捕まることもない。人間の宿も悪くないな』
「そうね。……ねえ、恒一」
ヴェルが身体を起こし、じっと手元を見つめる。
「あんたの力……改めて整理しておきたいんだけど。一体どういう仕組みになってるの?」
『仕組みと言われてもな……今の状態そのままだ。第五段階になってからは、主導権も俺の意思で切り替えられるようになった。能力が進化したからか、便利になってきた』
「ふーん……主導権ね。試しにやってみなさいよ」
『よし、じゃあ、やってみる』
意識して、主導権を切り替えてみる。
視界がわずかに揺れ、感覚が切り替わる。
「──どうだ?」
『本当ね。身体が自由に動かせないわ』
頭の中に不満そうなヴェルの声が響く。
「よし、主導権の切り替えは問題ないな」
『仕組みは理解できたから、私の体を返しなさい』
「はいはい。仰せの通りに」
主導権をヴェルに移すと、彼女は手のひらを開閉しながら、自らの身体の感触を確認していた。
「……ねえ。でも、これって時間制限があるのよね?」
『ああ。時間を超過すると、俺の意識は無理矢理引き剥がされて、ポストの中に強制送還される』
「だったら、慣れておいた方がいいんじゃない?」
「慣れるって?」
ヴェルは少し考え込むように指先を顎に当てた。
「時間切れになったら、私一人になるんでしょ? 勇者を探す土壇場で慌てないように、できるだけ《引受》状態のままでいましょう」
『だとすると、四六時中一緒にいることになるぞ?』
「別に、今さら気にすることでもないわ。私は平気よ」
『いや、でも……女の子とずっと一緒ってのは、俺としてもその……』
「口答えするんじゃないわよ!」
どうやら、本気で言っているらしい。
ヴェルはベッドの端に腰掛け、膝を抱えていた。
静まり返った室内で、少しだけ時間が経つと、彼女はポツリと問いかけてきた。
「……ねえ、恒一」
『どうした?』
「ポストになる前は、何をしていたの?」
不意に投げかけられた問い。
これまで聞かれたこともなく、自分から話すこともなかった過去の話。
『……どうだろうな。元の世界では、たぶん……普通の人間だったと思うけど』
「どうして、ポストなの?」
『いや……もうハッキリ覚えていないんだ。どうでもいいような話だよ』
ヴェルはそれ以上、追及することなく、静かに膝に顔をうずめた。
「……家族、とかは?」
『……家族? それも分からない。前はもっと色々覚えてた気がするんだけどな』
静かな沈黙が流れる。
ヴェルはしばらく膝に顔をうずめたまま動かなかった。 やがて顔を上げると、どこかぶっきらぼうに言い放った。
「……忘れたなら、これから新しく覚えればいいじゃない」
『ん?』
「私とのことも、これから起きることも。……あんたが忘れたって、全部覚えておいてあげるわよ」
不器用で、けれど真っ直ぐな彼女なりの気遣いだった。
その言葉が、なぜか妙に嬉しかった。
『……そうだな。頼むよ』
「任せなさい。……さて」
しんみりした空気を振り払うように、ヴェルは勢いよくベッドから立ち上がった。
「それじゃあ、私は疲れたからお風呂に入るわ」
そう言って、風呂場へ向かう。
(風呂? ……待て)
『おい、ヴェル。まさか本当に、このまま入る気か?』
「何を言っているのよ。慣れるために一緒にいるって言ったじゃない」
『いやいや! 視覚も感覚も共有してるんだぞ!? つまり、俺と一緒に風呂に入ることと同じだ!』
ヴェルの足が止まった。
どうやら、今になって気がついたようだ。
「……だ、だったら、あんたは目を閉じなさいよ!」
『俺は今、主導権を握ってないんだから、目蓋を閉じる権限すらないんだが!? 視覚共有してるのに、どうやって見ないようにするんだよ!』
「……やっぱり、出てけっ!!」
ヴェルの意思により、《引受》が強制解除され、俺の意識は強烈な浮遊感と共に街角のポストへと引き戻された。




