第40話 預かる者と老兵の誇り。
一人の老人が、俺の向かいにあるベンチに静かに座っていた。
くたびれた麻の服、皺だらけの顔、白髪混じりの髪。
枯れ木のような痩せこけた身体で、使い古された木製の杖をついている。
老人はしばらく黙って、通りを往来する人々を眺めていた。
やがて、胸の奥から絞り出すように重い息を吐き出す。
「……北が壊滅したそうじゃな」
俺は黙って耳を傾けていた。
「魔王が倒れ、魔王軍も瓦解した。だが……それによって行き場を失った魔物どもが、方々へ流れてきておる」
老人は杖の先で、石畳の地面をコンと軽く叩いた。
「人間に強い敵意を持つ者もおれば……ただ戦いに疲れ、逃げ延びてきた者もおる」
老人は立ち上がり、ゆっくりとしたおぼつかない歩調で歩み寄ってくる。
「……世界から大きな脅威が消えた。だが、その影響まで消えたわけではない」
しわがれた手が、俺のボディにそっと触れた。
骨ばってはいるが、驚くほど大きくて温かい手だった。
「──魔王軍の残党だ!」
路地の向こうから怒号と悲鳴が響き渡った。
街の一角に、不気味で密度の濃い靄が急速に立ち込め始める。
(なんだ……これは!?)
太陽の光に照らされていた街が、あっという間に薄暗い影に侵食されていく。
周囲の色が急速に失われ、建物の輪郭が深く滲んだ。
「暗黒魔術……日光を遮り、環境を塗り変えるか。よからぬものが紛れ込んできたな」
老人は動じることもなく、意味ありげにぽつりと呟いた。
「天聖連と騎士団を呼べ! 緊急事態だ!」
「魔物が街の中まで入り込んできたぞ!」
「ちくしょう。靄のせいで視界が悪すぎる……」
逃げ惑う住民たちの悲鳴が交錯する。
「いたぞ! あそこだ!」
通りの奥から、重厚な装備を身に纏った若い騎士たちが、剣を抜き、盾を構えて駆けてきた。
「敵は魔王軍の残党だ! 一匹たりとも逃がすな!」
先頭を走る隊長格らしい男が、剣を振り上げて叫んでいる。
「……愚か者が」
老人の鋭い目が、一層細くなった。
騎士たちは路地裏で暴れる魔物を取り囲んでいる。
その戦闘を眺めていた俺は、妙な違和感を覚えた。
魔物は確かに暴れているが、人間を殺そうと追っているわけではなさそうだ。
騎士が近づけば必死に振り払うが、その後も視線は絶えず別の方向──路地の奥へと逃げ道を模索するように泳いでいた。
「……待て」
老人が低く制した。
しかし、騎士たちは容赦なく剣を振り下ろそうとする。
「一気に仕留めるぞ!」
「待てと言っておるッ!!」
老人の枯れた身体から放たれたとは思えない一喝が、戦場の空気を一瞬で切り裂いた。
騎士団長が忌々しそうに振り返る。
「なんだ、隠居した爺さんか! 危険だから下がっていろ!」
「お前こそ、今すぐその剣を下ろせ」
「何……!?」
「あれは、お前たちを殺すために暴れているのではない」
「何をわけのわからないことを!」
「……よく見ろ」
老人が骨ばった指で路地の影を指し示す。
魔物の背後──建物の隙間の暗がりを、怯えたように走り抜ける小さな二つの影。
「……逃げている、のか?」
若い騎士の一人が呆然と呟いた。
老人は深く頷く。
「そうじゃ。あの魔物は、お主らの注意を引くための囮」
「仲間を逃がすためだと……!?」
「ワシは長年、魔王軍と戦ってきた。……大切な者を護るため、ああして命を散らしていった戦士を、何度も見てきた」
若い騎士団長が憎々しげに舌打ちをする。
「だから何だ! 魔物は魔物だろ! 人の街を脅かす害獣に過ぎん!」
「……青二才が」
老人の声が、地を這うように低く沈んだ。
「敵だからといって、何も考えずに刃を振るうのが戦いではない」
その瞬間──
追いつめられた魔物が、手近な騎士の一人へ猛然と飛びかかった。
「うわっ!?」
騎士が反射的に剣を薙ぎ払う。
鋭い刃が魔物の胸元を斬り裂いた。
シュウウウ……ッ!
魔物の傷口から赤黒い霧が激しく噴き出し、斬られた肉体が瞬く間に修復されていく。
「なっ……!? 傷が塞がっていくだと!?」
老人は手にしていた木製の杖を強く握り直した。
「──不死族。知らぬのも無理はない。魔王領の極一部にしか生息しておらんからな」
「な、なんだと!?」
「無闇に斬るな。右の建物の隙間を見ろ。靄の切れ目から、一筋だけ陽光が落ちておるだろう。あの光へ追いやれ」
老人の指示に、若い騎士たちは混乱し、陣形が大きく乱れ始める。
「……守りたいなら動かんか!!」
老人の喝声と威圧感に気押され、数人の騎士が反射的に動いた。
日光を嫌う不死族は、光の差す方向を避けるように大きく旋回する。
「追い詰める方向を誤るな。敵の思考を読め」
老人が即座に制したが、一瞬の迷いが生じた。
追い詰められた魔物は好機とばかりに反転し、無防備になった若い騎士団長へ一直線に突進する。
「しまった──!?」
老人は懐から、古びた銀の小瓶を取り出した。
大きく息を吐いた後、鋭い踏み込みで滑り込み、襲いかかる魔物の顔面へ、すれ違いざまに中の液体を浴びせる。
「ギガアアアアッ!?」
白い聖なる光が弾け、魔物が顔を押さえて悶絶した。
「聖水……!?」
周囲の騎士たちが息をのむ。
老人は手についた水滴を払い、戦況を見極めると、鋭い指示を飛ばし始めた。
「三名は右へ回れ! 臆さず追い込め!」
「は、はい!」
「深追いはするな! 距離を保ち、陽動に専念しろ!」
「了解!」
「負傷者を下げろ。陣形を再構築しろ」
混乱していた若い騎士たちが、老人の的確な指揮によって機敏に動き出す。
バラバラだった戦線が、みるみるうちに『包囲網』へと組み上がっていく。
だが──
「団長! 上ですっ! 空からも敵が!!」
上空の濃い靄を割って、巨大な翼を持つ魔物が飛来した。その口元には、大きな火球が練り上げられている。
騎士たちの頭上に、灼熱の火球が巨大な影を落とした。
「総員、退避ーっ!」
団長が必死に叫ぶが、狭い路地では退路がない。
老人がぎりっと杖を握りしめ、俺の目の前まで戻ってきた。
「……願い箱よ。ワシのこの衰えた体では、もうあやつらを救えん」
老人は静かに、己の限界を認めるように呟く。
「だが……あの若造たちを、ここで無駄死にさせたくはないのだ」
その瞳には、一点の曇りもなかった。
「ワシの最後の任務を……預かってくれ」
その言葉と同時に、俺の頭の中に無機質な声が響いた。
『──対象の《預託意思》を検知──』
(その願い、俺が引き受けた)
『──《引受》を実行します──』
視界が反転した。
⭐︎
意識が繋がった瞬間、強烈な重圧が全身を襲った。
足は鉛のように重く、腕を上げるだけで関節が悲鳴を上げる。一歩踏み出すたびに、骨がミシミシと軋んだ。
(……くそ、これで戦えっていうのかよ……!)
思わず弱音が漏れそうになる。
だが、目の前に広がる戦場を捉えた瞬間──
俺の脳内に、溢れんばかりの『最適解』が閃光のように駆け巡った。
正面から迫る敵の間合い。
上空の魔物が火球を放つまでの数秒の予備動作。
右側の建物の影、路地の裏で逃げ惑う小さな影たちの足音──
その全てが手に取るようにわかる。
(……そうか。これが『老兵の経験』か……!)
数多の死線を潜り抜ける中で、研ぎ澄まされてきた『戦術眼』。
それが、俺の思考と完璧に同期していた。
上空の魔物から、灼熱の火球が咆哮とともに解き放たれた。
紅蓮の火球が一直線に騎士たちの頭上へと迫る。
『──転送可能です──』
《転送》──ッ!
俺は反射的に火球へ視線を固定し、その行き先を変更する。
空間がひずみ、巨大な火の玉が一瞬で姿を消す。
次の瞬間──
ズドオォォォンッ!!
「ギガァッ!?」
騎士たちを囲んでいた不死族の最前列で、ド派手な爆発が巻き起こった。
上空からの火球を、転送によって地上で暴れる不死族の群れへ叩きつけたのだ。
爆炎と熱風が吹き荒れ、魔物たちの連携も崩壊する。
「な、なんだ!? 敵の火球が地上で……!?」
「今だ! 包囲が破れたぞ、一気に押し通れ!!」
若い団長が千載一遇のチャンスを見逃さず、剣を掲げて叫ぶ。
「視界は晴れた! 日光に晒し、動きを止めろ!」
俺は老兵の声で、頭に流れる思考のまま指示を飛ばす。
騎士たちが俺の指示通りに動き、弱った不死族を逃げ場のない「陽光」の下へと追い詰めていく。
陽の光を浴びた不死族は悲鳴を上げ、全身から煙を吹き出して完全に動きを停止した。
「今だ、捕縛しろ! 殺す必要はない!」
「はっ!」
騎士たちが一斉に網をかけ、不死族を無力化する。
その時、一人の若い騎士が血気盛んに路地の奥へと駆け出そうとした。
「逃げた残党がいます! 追撃して殲滅を──」
「追うな。必要ない!」
俺の声に、騎士が足を止める。
路地の奥へと消えていく小さな影たち。
そこには、武器すら持てない幼い魔物の姿もあった。
「しかし……魔物です! 放っておけばまた人を襲うかもしれんのですよ!?」
「お前がやろうとしているのは戦闘ではない。──ただの虐殺だ」
俺の言葉に、騎士は反論しなかった。
遠ざかっていく幼い影たちを、静かに見送る。
人か魔物か、敵か味方か──そんなことだけで、判断する必要はなかった。
少なくとも彼らは、いまこの街を害するために来たのではない。それだけは間違いない。
その時だった。
「ぐっ……!?」
安堵した瞬間、緊張の糸が切れたのか、若い騎士団長が膝をつき、地面に倒れ込んだ。
そこへ、異様な巨体の魔物が最後の力を振り絞るかのようにして突進する。
(しまっ……!?)
可能な限りの勢いで足を動かして走るが、肉体が悲鳴を上げる。
心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。
間に合わない──そう思った瞬間、俺の意思を超えて、老兵の『肉体』が自然に動いた。
老兵の使い古された手が、素早く木製の杖の柄を捻る。
──ッキインッ!
静かな金属音が響き、杖の中から細身の刃が引き抜かれた。
(仕込み杖……!)
老兵の身体に染み付いた一撃必殺の剣技。
最小限の動作で身を動かし、魔物の巨体が通り過ぎる刹那──鎧のような皮膚に覆われた肉体ではなく、関節の『繋ぎ目』へ細身の刃を滑り込ませた。
正確に関節を破壊された巨体が、大きくブレて、最後には崩れるようにして倒れる。
「今だっ! 抑え込め!」
若い騎士たちが一斉に飛びかかり、魔物の巨体を完全に制圧した。
「ハァ……ハァ……年寄りに……無理させるなよな」
静寂が、薄暗い路地裏を包み込む。
『残り時間──十秒』
俺は倒れ込んでいた騎士団長を見下ろした。
怪我は負っているが、命に別状はない。
周りの若い騎士たちも、全員無事だ。
それを見届け、俺の意識は、静かに元の場所へと戻っていった。
⭐︎
視界が再び反転する。
気がつけば、俺は街角のポストに戻っていた。
老人はその場に凛と立ち、しばらく自分のシワだらけの手を見つめていた。
「……まだ少しは、役に立てるらしいな」
老人は小さく笑った。
その笑顔には、過去を懐かしむような寂しさはなく、己の誇りを守り抜いた男の、晴れやかな光が宿っていた。
若い騎士団長が、部下に肩を借りながら老人の前まで歩いてくる。
そして、深く、真っ直ぐに頭を下げた。
「……ご協力、感謝いたします。……元騎士団長殿」
老人はしばらく無言で若い団長を見つめていたが、やがて呆れたように小さく息を吐く。
「素直に礼を言いたくないのなら、大人しく年寄りの話を聞け。若僧が」
若い騎士団長が、照れくさそうに苦笑いを浮かべた。
「……はい。肝に銘じておきます」
老人は振り返ることもなく、杖を突きながら静かに去っていった。
(今回、俺は何もしていない。爺さんが何十年も積み重ねてきたものを……ほんの少しだけ預かっただけだ)
長い年月を生きてきた人間には、その人にしか持てないモノがある。
積み重ねた経験。戦場を生き抜いた知恵。ブレない判断。そして──決して消えることのない誇り。
俺はそれを預かって、次の世代へと届けただけ。
(……これも、俺の大切な仕事ってことか)
夕暮れの街に、涼やかな風が吹き抜けていく。
魔王が倒れ、世界は少しずつ変わり始めている。
北からは行き場を失った者たちが流れてきて、この街も変化していくのだろう。
それでも俺は──今日もここで、誰かに何かを託されるのを待っている。
ただの郵便ポストとして。
そして、人々の想いを預かる者として。




