第36話 余熱。
魔王が死んで、二日が経った。
だが、街の熱はまだ冷めていない。
大通りの掲示板には新しい号外が何枚も重ねて貼り直され、酒場からは昼夜を問わず、同じ熱に浮かされた大声が漏れ聞こえてくる。
銀髪の勇者。
遥か北の地。
一夜にして潰えた、魔王城。
俺の目の前を行き交う人々の足取りは、どこか宙に浮いているようだった。
「おい、祝杯だ! 酒を持ってこい!」
「浮かれてる場合かよ、これからが本当の本番だろ」
「天聖連が本格的に動く前に、何が利権として残るかだな……」
風に乗って流れてくる言葉の断片。
(……くだらない)
魔王が死んだ。
それ自体は、どうやら紛れもない事実らしい。
けれど、俺の胸の奥に澱のように溜まった違和感は、一向に消えてくれなかった。
世界から責任を背負わされた少女。
彼女と、噂話の中で誇張され続ける『城ごとすべてを吹き飛ばした英雄』の姿が、どうしても重ならない。
カタン。
軽やかな音を立てて、投函口から一枚の手紙が滑り込んできた。
中身を改めれば、街の無事を知らせる親族への祝報。
『無事だ。お前も早く帰ってこい』と、少し雑で、けれど温かい文字が躍っていた。
(無事、か……)
俺は自分の中の、まったく別の『一通』に意識を向けた。
あの日、あの銀髪の少女が残していった手紙。
それは今も、俺の中にある。
ずっと、大切に預かっている。
直接触れることすら叶わないのに──今日はなぜか、ほんのりと熱を帯びている気がした。
「……気のせいか」
午後。
賑わう通りの向こうで、武装した騎士の一団がふと足を止めた。
彼らは街の人々と歓談するためではなく、あからさまな『確認』のために動いている。
「この街区の郵便流通に異常はないか」
「はっ、滞りなく稼働しております」
「不審な投函、あるいは出所の不明な書簡は?」
「今のところ、特には」
「勇者の所在についてはどうだ」
「……未だ、不明です」
短く冷淡なやり取りを終え、騎士たちは去っていく。
(……郵便の動きまで洗っているのか)
魔王が死に、世界は歓喜に湧いている。
だがその足元で、権力者たちは手紙の流れにまで目を光らせ、情報と『彼女』の足取りを追おうとしていた。
夕刻。
橙色に染まる街並みの中を、ルミナが歩いてきた。
「恒一さん」
「ああ」
「静かだね」
「……人間はそうだろ。熱しやすく冷めやすい」
「恒一さんも人間でしょ?」
「……そういえば、そうだったな」
「それより聞いた? もう新しい噂が出てるの。『銀髪の勇者が行方不明』だって」
その言葉に、思わず意識が跳ねた。
「……そうらしいな。事実なのか?」
「分からない。色々な情報が、飛び交っているから」
ルミナは静かに首を振った。
噂なんてものは、誰かの元へ届く前にコロコロと形を変えていく。
「恒一さん」
「どうした」
「勇者さんを探すの……まだ、続ける?」
小さな問いかけに、俺は少しだけ間を置いた。
「……続けるよ」
「今のままじゃ、きっと難しいよ」
「それも分かってる」
ルミナの視線が、俺の投函口へと注がれる。
覗き込むわけではない。
ただ、そっと包み込むような眼差しだった。
「手紙、まだ……あるんだね」
「……ああ。ある」
「……重そう」
「重くはないさ。ただの紙切れ一枚だ」
「ううん。……恒一さんの方が、すごく重そう」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
夜が訪れ、人通りがまばらになっていく。
昼間の騒ぎも遠くへ退き、街は静まり返っていた。
俺は、静かになった街の向こうに広がる夜空を見上げた。
そこに輝く星々は、魔王が生きていた頃と何一つ変わっていなかった。
(……早く帰ってこい)
声には出さない。
出したところで、届く宛先もない。
それでも、胸の奥にある手紙は、今日も確かにそこにあった。
魔王が死んだあとも、日常は何も変わらない。
だが、俺の知らないどこかで、次の手が打たれ続けている。
動けない俺を置き去りにして、時代は確実に変わり始めていた。
カタン。
深夜の静寂を破り、投函口が鳴る。
投函されたのは、差出人の名もない手紙。
中を確かめると──そこには文字一つ書かれていない、ただの白紙が入っていた。
(……なんだ、これは)
文字はない。
けれど、紙の縁がほんの少しだけ、焦げついている。
確証はない。ただの悪戯かもしれない。
それでも──これが彼女に繋がる、唯一の手がかりかもしれない。
俺は誰にも悟られないよう、その白紙を体の奥深くへと引き込んだ。
これだけは。絶対に、誰にも回収させない。




