第24話 街外れでオッさんが英雄となる。
俺はいつものように街角で静かに佇んでいた。
頭の上ではネコウイチが丸くなり、のんきに寝息を立てている。
今日も平和な一日。
そう思っていた、次の瞬間だった。
頭の上のネコウイチが、バッと飛び起きて威嚇するように毛を逆立てた。
——ズシン、と地面がわずかに揺れる。
投函口の蓋がカタカタと小刻みに揺れた。
直後、遠くの路地の向こうから、甲高い悲鳴が上がった。
買い物袋を投げ出して逃げ惑う人々。子供の手を引いて必死に走る親子。昨日までの平和な光景が、一瞬で悲鳴と怒号に塗りつぶされていく。
「でかすぎる、あれは魔獣だ! 天聖連を呼べ!」
「北門が破られたぞ!」
俺は当然、動けない。様子を見にもいけない。
土煙を巻き上げ、路地から一匹の魔獣が姿を現した。
巨大な体躯、異常に太い腕。爛々と輝く目玉が、獲物となる人間を探している。
逃げ惑う住民の一人が、まっすぐこちらへ走ってきた。
くたびれた服を着た、冴えない中年男だ。
特別な武芸者にはとても見えない。ただ必死に逃げているだけの、どこにでもいるオッさんだ。
「うわぁぁっ!?」
ドスンッ、と強い衝撃。
もつれた足で逃げてきた男が、俺の本体に激しくぶつかった。
「た、助かった……!」
オッさんはそのまま俺の背後に回り込み、俺を盾にするように身を縮めた。
「ちょ、おい! 俺を盾にすんな!」
その直後だった。
魔獣が咆哮を上げ、こちらへと突っ込んでくる。
「ひぃぃっ!?」
(おいおい、待て! こっちに来てるぞ!?)
俺の目前まで、魔獣の爪が迫る。
『本体への危険を検知』
『緊急預かり条件を満たしました』
『対象の同意は不要です』
『預かり可能時間──五分』
その瞬間、俺にしがみついていたオッさんの身体が、ぐっと前へ引かれた。
「な、なんですとぉ!?」
俺の投函口へ向かって、オッさんの身体が一気に引き寄せられた。
「……は? 待て──このオッさんかよ!?」
投函口がパカッと開き、オッさんの身体が俺の中に吸い込まれていく。
視界がぐるりと反転した。
⭐︎
視線が高い。
肺が痛くなるほどに呼吸が荒い。
体が重い。中年特有の、鈍重な肉体だ。
膝がガクガクと恐怖と疲労で震えている。
他人の身体。しかも、お世辞にも戦える身体じゃない。
額の皮膚に、焼けるような熱さを感じた。
見なくても分かる。〒の印だ。
「……五分」
魔獣が、逃げ遅れた者たちへ向き直る。
幼い子供が派手に転び、母親らしき女が庇うように飛び込む。魔獣の爪が振り上げられる。
俺は、オッさんの重い足を必死に動かした。
「こっちだ、バカヤロー!」
足元の石ころを拾い、渾身の力で投げつける。
カツン、と外皮に当たったが、魔獣にとってはハエが止まった程度だろう。だが、意識を逸らすのには十分だった。
不気味に光る赤目が、こちらを捉える。
「走れ! 早く逃げろ!」
親子を背にかばい、俺は魔獣を引きつけるために走り出した。
正確にはもつれる足を「引きずって」逃げる。
かつて脳内に叩き込んだ体術の極意も、この怠けた肉体では何一つ再現できない。
避けて、転んで、また這い上がる。
ガツン、と鋭い爪が袖を裂いた。
熱い痛みが走る。浅いが、肉が切れた。
『残り時間──三分』
「まだニ分かよ。長すぎる!」
周囲から人影が遠ざかっていく。避難は完了しつつある。
俺の役割は、この怪物を取り押さえることじゃない。あくまでも時間稼ぎだ。
ゼーゼーと肺が鳴る。
切れた唇が口を濡らす。血の味に耐える。
「……まだかよ、誰でもいいから来い」
祈るような思いで天を仰いだ、その瞬間、ぴたりと空気が変わった。
路地の入り口に、黒髪の少女が立っていた。
「飛燕。来てくれたんだな」
彼女は冷徹な瞳で街の被害状況を確認し、最後に俺と魔獣を見つめた。
次の瞬間。
魔獣の胴体が、風船のように膨張し始めた。
破裂音すらない。空間が歪み、一瞬にして魔獣が身体の内側から消滅した。
飛燕は、ただ静かにそこに立っているだけだった。
「……やっぱ、怖いわ。飛燕先輩」
魔獣相手に一歩も動かずに、終わらせた。
俺は、こんな女と対峙していたのか。
思い出すだけで、体がガクガクと震え出す。
飛燕の視線が、ゆっくりとこちらに向けられた。
「……よくやった」
短くそれだけ言うと、彼女はすっと袖を整えた。
『残り時間──十秒』
「ああ。ポストとしては、死ぬほど頑張った方だ」
世界が反転する。
⭐︎
いつもの場所。いつもの街角。
目の前では、人だかりができていた。
「あの人が、体を張って守ってくれたんだ!」
「額に変な印が浮かんでただろ! あれは英雄の証だ!」
「おじさんが、命がけで子供を庇ってたんだよ!」
「あんたこそ、この街のヒーローだ!」
人々の中心で、さっきの中年男が地面にペタリと座り込んでいる。
自分が一体何をしたのか、全く理解できていない茫然自失の顔だ。
だが、周囲の称賛の嵐に押され、次第に鼻の下を伸ばし始めた。
「いやぁ〜参りましたな! ハハハ、大したことはしてませんぞ! ハッハッハ!!」
オッさんは街の英雄になってしまった。
(また俺じゃねーのかよ!!)
思わず心中で絶叫していると、路地の奥からルミナが息を切らせて走ってきた。
「恒一さん! 大丈夫!?」
「無事だ。まあ、またヒーローにはなりそびれたけどな」
ルミナは湧き上がる人だかりと、誇らしげなオッさんの姿を見て、すぐに状況を察したらしい。いつものように優しく微笑んだ。
「恒一さんは、それでいいんだと思うよ」
「なぜ! 俺だってモテたい! チヤホヤされたい!」
「モテたいの?」
口調は優しいが、ルミナの目はとても冷たい。
「今のは嘘です。調子に乗りました。微塵も思いません」
「うん」
あたたかな夕暮れの光が、静かに街角を染めていく。
「額に変なマークがあったらしいぞ」
「何のマークだ?」
「さあな? でも、確かに光ってたんだってよ」
耳をすませば、「額に印のあった男」の噂話が聞こえてくる。
残ったのは、オッさんの英雄譚。
たった五分。
それでも、誰かを守ることはできた。
俺の手柄は、またしても別の宛先へ行ってしまったけどな。
「……預かったからな。オッさんも無事でよかったよ」
冷たい秋風が、妙に心地良く感じる。
今日も俺は、街の隅っこでポストをやっていた。




