第23話 ポストを観察する女。
足音もなく、その人は不意に現れた。
静まり返った路地裏に、美しい黒髪のポニーテールが揺れていた。
「……飛燕か。今日はどうしたんだ?」
声をかけてみたものの、まだ俺の声は完全には届いていないらしい。
飛燕は俺からの返事を待つ風でもなく、近くのベンチへ静かに腰を下ろした。
「…………」
特に何かを語るわけでもない。ただ二人の間に、無言のまま穏やかな時間が流れていく。
しばらくして、彼女がふと小さく呟いた。
「……ここは、落ち着くな」
「そうか?」
「一人で……寂しくはないのか」
飛燕はそう呟くと、すっと涼やかな視線を俺に向けてきた。
「別に、寂しくは──」
そこまで言いかけて、俺は口を閉じた。
彼女は追及するでもなく、ただ少しだけ目を細め、俺を見つめている。
「……そうか」
やがて静かに立ち上がると、俺を見下ろし、ポンと親しげに天板(頭)へ手を置いた。
「無理はするなよ。……また来る」
「あ……飛燕!」
突然の距離感に困惑し、思わず呼び止めてしまう。
飛燕が足を止め、肩越しに振り返った。
「……何だ?」
「いや……なんでもない」
「そうか」
(やはり、聞こえかけているのか?)
それだけ言うと、飛燕は静かに歩み去っていった。
俺はしばらく、その凛とした背中を見送っていた。
「……何なんだよ、アイツ」
⭐︎
手紙の投函も人通りも少なく、俺はいつもの路地裏でただのポストとして静かにたたずんでいた。
(……暇だな。平和すぎるのも考えものだ……)
そんなことをぼんやり考えていると、路地の向こうから見慣れた漆黒のポニーテールが現れた。
「……飛燕?」
彼女は相変わらず足音もなく俺の前を通り過ぎ、いつものベンチへ静かに腰を下ろした。
「…………」
「…………」
何も言わない。ただ座っているだけだ。
気になってチラチラと視線を向けると、いつの間にか飛燕もこちらをじっと見つめ返していた。
「……あの、何でしょうか」
「…………」
再び訪れる重い沈黙。
飛燕はずっとこちらを見つめている。
「……どうして俺を見てるんだ?」
「…………」
(観察している? それとも何か他の目的があるのか)
返事はない。膝の上で長い指を弄びながら、無言の圧力をかけてくる。
やがて、飛燕がすっと立ち上がった。
「ど、どうした?」
彼女は俺の目の前まで歩み寄ると、そのまま腰をかがめて投函口をじっと覗き込んできた。
「…………」
顔が近い。ものすごく、近い。
「……ひ、飛燕?」
「…………」
「ち、近くないか……!?」
飛燕は俺の投函口の中を静かに覗き込んでいる。
凛とした美しい表情。整いすぎている目鼻立ち。長いまつ毛。本当に顔が良い。美人すぎる。
「…………」
物理的に視線を逸らせない。
ただのポストのはずなのに、胸が高鳴るような錯覚に襲われる。
(なんなんだよ、一体!)
飛燕がゆっくりと顔を上げた。
近い。今度はさらに至近距離から、吸い込まれそうな黒い瞳と目が合った。
「…………」
(……この、イケメン女!!)
「何の話だ?」
「いや、何でもない!!」
思考が漏れたのか、直感的なものなのか、飛燕は不思議そうに首を傾げた。
その時だった。ぽつ、と天板に冷たい感触が伝わる。
「……雨か」
飛燕が空を見上げた。あっという間に暗雲が広がり、雨脚が強くなってくる。
「飛燕、傘は──」
言い終わるより早く、彼女は懐から見慣れない折りたたみ傘を取り出すと、バッと開いて俺の頭の上に立てかけた。
「使え」
「……え、俺に?」
「他に誰がいる」
「いや、でも飛燕は?」
「私は必要ない」
「いや必要だろ! 土砂降りだぞ!?」
飛燕先輩はこちらの制止を聞く耳持たず、そのまま雨の中へ悠々と歩き出した。
「傘! 本当にいいのかよ──!」
飛燕先輩は振り返らない。ただ背中越しに、すっと片手を高く掲げて見せた。
俺はその背中を呆然と見送る。
よく見ると──雨の中を悠然と歩いているというのに、彼女は全く濡れていなかった。
降り注ぐ雨粒が、彼女に触れる直前で弾かれ、まるで目に見えない障壁に阻まれるように避けているのだ。
(……カッコいい。じゃなくて、徐々に会話が成り立って来ている……!?)
⭐︎
その日の夕方。
雨が上がり、オレンジ色の夕空が広がる頃、飛燕が戻ってきた。
ベンチに静かに腰かけ、夕日を浴びる俺をじっと見つめている。
やはり、何も言わない。無言の圧と迫力がすごい。
緊張感が漂う中、飛燕がふと立ち上がり、俺のすぐそばまで歩み寄ってきた。
「恒一」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
いつもは『ポスト』としか呼ばないはずの彼女の口から、俺の名前が呼ばれたのだ。
「いい、名だな」
(俺を試しているのか……この、胸の奥が妙にざわつく感覚はなんだ……!?)
飛燕は少し思案するように俺を見つめ──直後、ほんの少しだけ、唇を綻ばせて微笑んだ。
そして、そのまま静かに歩き出す。
「恒一」
「ん?」
「また来る」
「……飛燕!」
心の中の謎の衝動に突き動かされ、強く呼び止めてしまった。飛燕は立ち止まるが、振り返らない。
「…………」
何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
「……私を呼んだのか」
「い、いや……なんでもない……」
「そうか。なら、いい」
飛燕はそれだけ言い残し、夕闇の街へ消えていった。
俺はその背中を、ただじっと見送るしかなかった。
(……目的がわからない。この心を見透かされたような感覚はなんだ……?)
俺には心臓なんて存在しない。
それなのに、なぜか胸の奥がざわついていた。




