第13話 初めての〒。
「お待たせ、恒一さん」
「……よう」
俺はルミナの瞳を真っ直ぐに見つめた。
これから行うのは、人生で一度も経験したことのない試みだ。
だからこそ、始める前にもう一度だけ確認しておく。
北の街道で行方不明になった勇者の足取りは、未だ掴めていない。
だが、俺たちが焦っても意味はない。
絶望的な状況だと決まったわけではないのだから。
「本当に、短時間だけだからな。異変を感じたら、俺は能力を解除する」
「うん、何かあったらすぐ解除してね」
ルミナは力強く、はっきりと頷いた。
「私を──恒一さんに預けます」
その言葉が引き金となり、俺の意思と呼応するように能力が反応した。
『──対象の同意を確認しました──』
『──《引受》を開始します──』
俺は神経を極限まで研ぎ澄ます。
「……行くぞ!」
次の瞬間、世界が激しく反転した。
視界が急激に跳ね上がり、地面までが遠い。
そして、肌に直接当たるやわらかな風の感触──
「……よ、し……っ!」
口から出たのは、俺の低い声ではなく、可憐なルミナの声だった。
それと同時に、波のように押し寄せてきたのは──あらゆる「声」の嵐。
(──痛い痛い、そんなに強く踏むんじゃない!)
(──あらやだ、この染みとれないわ……)
(──おいおい、今日の陽気は最高だな!)
足元の石畳のつぶやき。
街灯の柱の愚痴。
風に揺れる看板のボヤキ。
ありとあらゆる無機物の叫びが、奔流となって俺の頭の中に流れ込んでくる。
うるさい。とんでもなくうるさい!
脳みそが爆発しそうだった。
「……ルミナ、お前……いつもこんなに色んな声を同時に聞いてたのか……!?」
俺の問いかけに、ルミナの意識が、隣で答える。
『……うん。いつも、こんな感じ』
「よく正気を保っていられたな……頭がおかしくなりそうだぞ……」
『ふふ、私はもう昔から慣れちゃったから』
俺は自分の手──ルミナの華奢な両手を見つめた。
繊細な指がある。俺の意思で曲げ伸ばしができる。
「……動く。動くぞ……!」
喜んだのも束の間。
実際に脚を動かそうとすると、信じられないほどぎこちなかった。力の入れ方が全く分からない。
脳内には、本から取り込んだ『体術の極意』の完璧なイメージが存在している。
だが、それを繊細な少女の肉体でどう再現すればいいのか、脳からの命令が完全に迷子になっていた。
「えっと……右足を引いて、重心を──」
『恒一さん?』
「ちょっと待ってくれ! 頭の中では完璧なんだ!」
『でも、生まれたての小鹿みたいにプルプル震えてるよ!?』
「それを言うな!」
一歩踏み出そうとした瞬間、盛大によろめいた。
『キャッ!? だ、大丈夫……!?』
「大丈夫じゃない。難しくて仕方ない」
その時、ルミナの意識がふと周囲を見回した。
それに引っ張られるように、俺の首も自動的にクルリと回る。
『……あれ?』
「どうした?」
『……ポストが、ないよ?』
ルミナに指摘されて、俺も気がついた。
本来なら俺のポストが立っているはずの街角の定位置が、空っぽになっている。
「……そういえば、俺の本体、影も形もないな」
『もしかして……恒一さんの身体ごと、私の中に入ってるのかな……?』
「言い方に語弊がありすぎるが……俺がルミナの中に入っているという表現は正しいのかもな」
ルミナの意識が、あからさまに動揺して波打った。
『……今の、すごく変な感じ』
「俺だってそうだよ」
二人で一つの身体を共有したまま、俺たちはしばらくその場に呆然と立ち尽くした。
あまりにも前代未聞の感覚に、お互い困惑を隠せない。
「……まあいい、とりあえず少し歩く練習をしてみるか」
『うん……!』
ゆっくりと右足を出し、次に左足を押し出す。
普通の人間なら無意識で行っている歩行という動作のすべてを、意識的にコントロールしなければならない。
「不便すぎる……! 自分の体なのに自分の体じゃないみたいだ」
『私も、自分の身体なのに勝手に動くからすごく不思議な気分……』
「これ、主導権はどっちが握ってるんだ?」
『うーん……お互いの意識が半分ずつ混ざり合ってる感じかな?』
ぎごちない足取りではあったが、それでも一歩一歩、前へと進むことはできた。
人目を避けながら、街の外れにある広場まで移動していく。
北から吹き抜ける風が冷たい。
ふと、意識が勝手に北の街道の方角へと向いてしまう。
『恒一さん、集中して! 足元!』
「す、すまん! 焦りが出た……!」
足元の小石につまずきそうになり、慌てて体勢を立て直す。思考と肉体の連動が追いついていない。
「……このままじゃ、ダメだな」
『うん。危ないね』
本当に危険な現場に遭遇した時、この不完全な操作感では助けるどころかルミナを危険に晒すだけだ。
足手まといになる未来しか見えない。
俺は自分の無力さを改めて痛感した。
だが、一つ大きな発見があった。
同意なしで引き受けた猫の時と比べて、体感時間が格段に長いのだ。
現に、定位置から数十メートル離れた噴水広場まで移動できている。
「ふぅ〜……あー、疲れだぁ……」
噴水の縁にどっしりと腰を下ろす。
『私の声でお爺さんみたいな声ださないでほしいな?』
「仕方ないだろ! 久々に人間として脚を伸ばせたんだから……気持ち良くて」
『なにこのT!?』
ルミナが叫んだ。
水面に浮かぶ、ルミナの顔を見る。
額の真ん中に浮かぶのは光り輝く〒マーク。
「……ああ、これはただの『T』みたいなもんだ。害はないから安心しろ」
『T!? ただの『T』って!?』
ルミナが動揺し始める。
「正確にはTじゃなくて〒だ」
『もっと分からないよ! ちゃんと発音して!』
「だから〒だって。落ち着けって、ちょ、あ、解ける」
ルミナのパニックに同調するように、彼女の体内から俺の意識が強烈に引き剥がされていく。
二つの意識が急速に分断され、視界が歪んだ。
俺はいつもの定位置に戻っていた。
ルミナが肩を小さく上下させて立ち尽くしている。
「……T」
額に浮かんだ謎の紋章が余程気に食わなかったらしい。
「もう変なマークはないぞ。落ち着いてくれ」
「落ち着けないよ! オデコだよ! しかもT!」
「なんか、このやり取り、見覚えがあるな」
女神に出会ったときの忌々しい記憶が蘇る。
しばらくすると、ルミナが落ち着きを取り戻した。
「恒一さん、取り乱してごめんなさい」
「仕方ないさ。俺も最初、〒には驚かされた」
「……もっと練習、しないとダメだね」
「ああ。だが無理は禁物だ。今日はここまでにしよう。ありがとう、ルミナ」
ルミナは小さく笑って、手を振った。
「うん。じゃあ、また来るね」
「気をつけてな」
夕闇が迫る路地へと、ルミナが消えていく。
「…………」
確かに、人間の身体を動かすことはできた。
だが──これじゃ、まだ足りない。
北へ向かい、あの勇者の助けになってやるには、あまりにも技術も絆も未熟すぎる。
俺には、まだ足りないものが多すぎる。
夕焼けに染まる街並みを見つめながら、そう痛感していた。




