第98話: 高次エネルギーの本質
この章はかなり情報量が多めになっていますので、できれば気持ちに余裕があるときに読んでいただけると嬉しいです。
少し詰め込みすぎているかもしれないので、読むのが大変に感じるかもしれません
「……何が起きた? なぜ、私の能力が発動しない?」
アスタイルの声に、初めて明確な驚愕が混じった。彼の掌は依然としてゾアの胸元、心臓の位置に置かれている。しかし、そこから結晶が突き出すことはなく、以前のようにルビーの棘が肉体を貫くこともなかった。彼の顔は強張り、眼差しには自分の身に起きたことが信じられないといった当惑が浮かび、その全身が一瞬の間、硬直した。
その一瞬こそが、ゾアを救った。
ゾアは奥歯を噛み締め、全脚力を一点に集中させると、アスタイルの腹部へ向けて真っ直ぐに蹴りを見舞った。重苦しい衝撃が伝わり、アスタイルは長い距離を吹き飛ばされた。彼の足は地面を削り取り、後方には朦朧とした土煙が舞い上がった。それでも、彼は倒れなかった。身体を滑らせながらも踏みとどまり、空き地の中央に一本の柱のように毅然と立ち尽くした。
静寂に包まれた空間に、ポツリ、ポツリと砂の上に血が滴り落ちる音が響く。アスタイルは視線を落とし、その滴を見つめた。彼の目は僅かに見開かれ、やがて冷徹な理解を宿して細められた。
「……なるほどな。そういうことか」
彼の右手は、すでに失われていた。彼が能力を発動させようとしたその瞬間、ゾアの方が一拍速かったのだ。あまりに鮮やかな一閃だった。即座に痛みを感じさせることさえないほど鋭く断ち切られ、彼は自分が斬られたことにさえ気づいていなかった。その剣技は、以前のような本能的な一撃ではない。絶対的な精度を誇る、明らかに一段上の階梯に達した技術であった。
ゾアは背筋を伸ばして立ち、衣服に付いた塵を軽く払った。手にした剣の刃には依然として血が滴り、星光を受けて鈍く煌めいている。彼の視線はアスタイルを正面から捉えていた。その瞳は冷たく、凪いでいる。
「……それほど容易くお前の手を斬れるということは、お前の身体も同じように斬れるということだ。どうやら、お前はそれほど強くはないらしいな」
その言葉は明白な挑発であった。アスタイルは微かに眉をひそめ、不快の色が瞳を掠めたが、それはすぐに抑え込まれた。先ほどまでの激しい怒りは消え、不安定な揺らぎも霧散していた。彼が応じる声は、より低く、より一定の響きを帯びていた。
「……どうやら、悪くない相手に巡り会ったようだ。ならば――少しばかり慎重に戦うとしよう」
観測モニターの向こう側で、アコウはその全貌を沈思黙考の表情で見つめていた。今起きた出来事は、彼の脳内にある仮説をより強固なものにした。変化は単なる気分の問題ではない。先ほどの接近速度は、アスタイルがこれまで見せてきたものを遥かに凌駕していた。結晶の制御もより緻密で、密度が増している。直接比較するならば、先ほどの人格と今の人格は、一つの肉体を共有する別々の戦士のようなものだ。それはつまり、人格ごとに能力の引き出し方や、さらには強さの絶対値そのものが異なる可能性を示唆している。すべてはまだ推測の域を出ないが、断片的な事実が恐るべき結論へと収束しつつあった。
戦場に視線を戻せば、ゾアがアスタイルの手を斬り飛ばしたことは一見、明確な優位に思える。しかし、考えれば考えるほど、状況は予断を許さないものとなっていた。高エネルギー保持者同士の戦いにおいて、優劣は一太刀で決まるほど単純ではない。通常、実力に差があったとしても、剣は皮膚を裂き、肉に深く食い込むに留まる。このように部位を完全に断ち切るには、圧倒的な実力差が必要とされるはずだ。しかし、目の前の現実は矛盾している。ゾアは先ほどまで、アスタイルの速度に完全にはついていけていなかった。それならば、なぜ相手に気づかせもしないほどの鮮やかな断絶が可能だったのか。
現在の状況を俯瞰しても、問いは変わらない。目の前の一人が最強の人格である保証さえない中で、ゾアは本当にアスタイルを打倒する力を備えているのか。
一見すれば、手の切断はゾアの優越を証明している。しかし、高次エネルギーの観点から分析すれば、事態はそれほど単純ではない。高次エネルギーとは、皮膚を覆う無形の鎧ではない。
それは直接、肉体に浸透するものだ。
骨はより頑強になり、
肉はより強靭になる。
生物学的な構造が、内部から強化されるのだ。
言い換えれば、高次エネルギー保持者の肉体は、そのエネルギーそのものによって鍛え直されたのと同義である。それを破壊する方法はただ一つ。より大きな差を持つ高次エネルギーを直接叩きつけることだ。
もし両者が互角であれば、斬り裂くことも、断ち切ることも、極めて困難であるはずだ。同質の素材が衝突し、そこに明確な差がなければ、傷は限定的なもの――皮膚の裂傷や浅い肉へのダメージ――に留まり、骨や組織の構造を完全に破壊するまでには至らない。
一撃で手を断ち切りたいのであれば。
それは、攻撃者の高次エネルギーが、相手の強化された構造を粉砕するのに十分なほど圧倒していることを意味する。
しかし、現状を振り返ってみよ。
ゾアは先ほど、アスタイルの速度に完全には対応できていなかった。何度も激突し、押し戻されていた。戦闘全体を見渡しても、ゾアが圧倒的な高次エネルギーで相手を制圧している兆候は見られない。
ならば、なぜこれほどの断絶を可能にする「差」が生じたのか。
そこには二つの可能性が考えられる。
一つは、その瞬間にアスタイルが自らエネルギーの流れを弱め、肉体の強化構造を不完全にしていた可能性。この人格がゾアに対してあまりに脆弱であったということだ。
あるいは、ゾアがあの一瞬において、通常の状態を遥かに超えるレベルのエネルギーを解放したのか。
どちらの可能性にせよ、それは力の天秤が完全にゾアへ傾いたことを意味しない。
もし、現在の人格が最強ではないのだとしたら。
もし、アスタイルにまだ顕現していない上位の力が残されているのだとしたら。
先ほどの斬撃は、単なる一時的な「隙」に過ぎず、絶対的な実力差の証明にはならない。
そして、双方が同質の素材を持ち、明確な差が存在しないのであれば、戦いの結末は一瞬の出来事では決まらない。
どちらが先に、より高い高みへと到達するかにかかっている。
ゾアの左肩からは依然として血が流れ、神経を焼くような痛みが走っている。しかし、その眼差しはかつてないほどに研ぎ澄まされていた。戦いはまだ終わっていない。そして最も懸念すべきは、現在の人格がどれほど強いかではなく、これがアスタイルの「最強」なのかどうかだ。もしそうでなければ、今起きたことは、さらに過酷な死闘への前奏曲に過ぎない。
観測モニターの前で、アコウは椅子の肘掛けを強く握りしめた。これまでの断片的なデータが、もはやバラバラではなく――一つの、それも彼自身が背筋を凍らせるほどに狂気じみた仮説へと組み上がり始めていた。
第一の仮説。
今アスタイルの肉体を操っている人格は……実は比較的「弱い」人格の一人ではないか。
逆説的に聞こえるかもしれない。
しかし細かく分析すれば、ゾアが苦戦を強いられた要因の多くは情報不足に起因している。アスタイルの能力のメカニズムを理解していなかったがゆえに、不用意に接触を許し、内側からのルビーの発現を許してしまったのだ。
その明白な証拠が、アスタイルの手がゾアの肩に置かれたあの瞬間だ。
もしその能力が本当に即時的で完璧なものならば、ゾアはその瞬間に死んでいた。
しかし、実際には違った。
一拍の間。
極めて短いタイムラグがあった。
その後にルビーの棘が噴出し、重傷を負わせた。
そのラグこそが……弱点ではないのか。
アコウは目を細め、その思考が形を成すにつれて鼓動が速まった。
おそらくアスタイルは、エネルギーを集中させる必要があり、相手の体内で結晶化を強制するために全意識を「凝縮」させねばならないのだ。もしそれを適切なタイミング――先ほどの斬撃のように――で中断させられれば、能力は完遂されない。
それはつまり、少なくともこの人格においては、彼は決して無敵ではないということだ。
だが、アコウの思考はそこで止まった。
より大きな問題は……「速度」だ。
彼は、アスタイルが以前に姿を現した時のことを鮮明に記憶している。その速度は速かったが、分析と予測の範疇に収まっていた。しかし今回は違う。二人の間の距離は、瞬きする間に消失した。それは単なる加速ではない。
「転移」に近い接近だ。
その考えに至り、アコウの背中を冷たいものが走った。
もし多重人格という仮説が正しいのなら……さらに恐ろしい可能性がある。
各人格は、精神性が異なるだけではない。
「能力の運用方法」そのものが異なるのではないか。
アスタイルの根本的な意識――これまで観測されたもの――は、土の元素、すなわち岩石や鉱物に関連する能力だ。ルビー、クリスタル、結晶化……これらはすべて同じ基盤の変奏に過ぎない。
だが、他の人格はどうだろうか。
それらは独立した「意識」であり、独自の個性、独自の思考、さらには世界に対する独自の捉え方を持っている。
そこまで異なっているのであれば。
なぜ、力までもが同じである必要があるのか。
アコウは微かに唇を噛んだ。
この仮説は、通常の論理に逆行するものだ。
しかし、もし各人格が同じ一つの肉体の中で、異なる「側面」の力にアクセスできるのだとしたら。
この人格は、追加のサブ能力を保持しているのではないか。
速度に関連する何か。
あるいは、最悪の場合――
一定範囲内での「即時移動」能力だ。
もしそれが真実ならば。
ゾアが対峙しているのは、単なる「他人の体内で結晶を操る者」ではない。
操る「人間」を入れ替えるだけで、戦闘スタイルそのものを書き換えてしまう実体なのだ。
アコウは深く息を吸い込み、画面から目を離さない。
「……よしてくれ。これがまだ最強の人格ではないなんてことは」
その思考は、彼の心を重く沈ませた。
もし現在の人格が単なる中間的な変異体に過ぎないのだとしたら。
この先の戦いは、あらゆる計算を遥かに超えたものになるだろう。
戦場へ戻れば、空気は突如として不可解なほどに重苦しく変貌していた。アスタイルは数秒間静止し、あたかも脳内の形なき声に耳を傾けているかのように目を伏せた。そして突如、彼は平然と上着を破り捨て、傍らへ投げ捨てた。布地が地面に落ち、淡い光の下で引き締まった筋躯が露わになる。しかし、人々の目を引いたのはその肉体美ではなく、彼から放たれる「気質」の変容であった。
先ほどまでの狂乱は完全に消え去っていた。
代わりにあったのは、背筋が凍るほどの「静謐」だ。
ゾアは眉をひそめ、剣の柄を握りしめた。彼は「多重人格」という概念など露ほども知らない。彼の目に映る対戦相手は、ただ単に精神の揺らぎが恐ろしいほどに激しい、狂った男に過ぎなかった。
「……一体何なんだ? お前の精神は、狂っているという言葉さえ生温いほど不安定だな」
アスタイルはすぐには答えなかった。彼は首を軽く回し、肩の関節をバキバキと乾いた音を立てて鳴らした。その後、顔を上げ、他人事のように穏やかな眼差しを向けた。
「『長兄さん』は規律正しいけれど……目の前のこいつに対しては、あなたが出るべきじゃない。百切れに斬られてしまうかもしれないから」
彼の口角が極めて微かに吊り上がったが、そこに笑みの気配はなかった。
「アスタイルが戻ってくるまで……僕がとりあえず、こいつを片付けておくよ」
ゾアの動きが半拍止まった。その言葉は、彼にとっては全く無意味な羅列だった。長兄? 戻ってくる? 僕?
彼がそれらの単語を繋ぎ合わせる間もなく、アスタイルが躍り出た。
それは能力による加速ではない。
純粋な「体術」による突進だった。
第一撃。ゾアの顔面を狙った正拳が放たれる。ゾアは即座に剣を立てて防ぐ。続く第二撃、連撃の重さにゾアの腕が痺れる。第三撃は、胸元を遮る刃に直接叩きつけられた。
――ドォォン!
衝突点から黒い電光が炸裂し、大気を引き裂く耳障りな音が響く。剣を媒介として直接的なエネルギー爆発が引き起こされ、その振動がゾアの身体へと逆流した。内臓が激しく揺さぶられ、喉元まで生臭いものが込み上げるが、彼は歯を食いしばってそれを飲み込み、血を吐き出すことを許さない。
アスタイルは追撃の手を緩めず、ゾアの頭部を掴もうと手を伸ばす。本能的な危機感に突き動かされ、ゾアは即座に後退し、地面を滑るように距離を取った。ほぼ同時に、身体を捻って横一線の薙ぎ払いを放つ。
アスタイルは完全には避けきれなかった。
刃が彼の腹部を切り裂き、鮮やかな赤が走る。
だが、それは浅い。
血が噴き出した次の瞬間には、その流れは止まり、肉は異様な速度で接合された。――完全回復。
ゾアの瞳が沈む。
こいつは……結晶だけではない。
アスタイルは半歩退くと、地面を強く踏み抜いた。石の棘が突き出し、驚異的な速度でゾアへと迫る。地面が震え、土石が砕け散った。ゾアは跳躍して回避し、突き出した石の柱を足場にしてさらに加速し、相手へと肉薄した。
距離は一瞬で消失する。
戦いは完全な近接戦へと移行した。
無人の森の中で、拳と剣が火花を散らす。金属が肉を叩く音、翻る身体に合わせて唸る風の音、乾いた土を蹴る足音。アスタイルは、ゾアの身体に触れて内側から棘を発現させる機会を伺う。しかし以前とは違い、ゾアは彼に一瞬の停滞さえ与えなかった。
絶え間なく繰り出される剣筋が間合いを詰め、斬撃の角度を変え続けることで、アスタイルにエネルギーの集中を許さず、体術による防御と反撃を強いたのだ。
彼が力を溜めようとするたびに――
一筋の剣が襲いかかる。
彼が触れようとするたびに――
ゾアの膝蹴りや肘打ちが、その軌道を強引に逸らす。
純粋な武術と洗練された剣技の衝突が、周囲の大気を幾度も震わせた。
アスタイルは一歩退き、口角を上げた。
「……その程度の小手先の剣術で、勝てると思っているのか?」
ゾアは答えない。耳元を掠める拳を身を捩って避け、乾いた地面を軸足で回ると、鋭く狭い軌道の剣で即座に応戦した。鋼の刃がアスタイルの脇腹を滑り、細い血の線を引く。止まることなく、ゾアは槌のごとき重い一撃の間を縫い、回避するたびに相手の肉体へ新たな切り傷を刻んでいった。彼の戦い方は、もはや仕留めるためのものではない。――時間を稼ぐためのものだ。
問題は、ゾアが依然として「高次エネルギー・爆発」を覚醒させていない点にあった。
彼は基本的な斬撃、純粋な技術とテンポだけに頼って時間を稼ぎ、好機を待つしかない。今、ゾアが完全に使いこなせている唯一の高次エネルギーは「完全回復」――肉体を元の無傷の状態へと再構築する、絶対的な防御形式だ。しかし、完全回復には攻撃性がない。それを刃に纏わせることも、打撃に浸透させて相手に圧力をかけることもできない。ゆえに、ゾアにはアスタイルの回復能力を減退させる手段がなかった。
実のところ、ゾアが無意識に「爆発」を誘発させた瞬間はこれまでにもあった。死線の最中、彼の体内のエネルギーは本能に従って暴発し、一撃を限界以上に押し上げた。しかし、それは「制御」ではない。ただの無意識の反射だ。火花が散っては消えるように、必要な時に再現することは叶わなかった。
では、高次エネルギーの「爆発」とは本来何をもたらすのか。
「爆発」に覚醒した個体は、エネルギーを単に肉体の強化に留めず、直接打撃に「纏わせる」ことができる。そうなれば、一太刀、一拳ごとに明確なエネルギーの格差が生じる。そしてその差こそが、強化された相手の構造を直接叩き、高次エネルギーに基づいた回復能力そのものを減退させるのだ。
言い換えれば、ゾアが剣に高次エネルギーを纏わせることができれば、与える傷はもはや純粋な物理的損傷ではなくなる。それはエネルギー的な侵食となり、アスタイルの再構築プロセスを阻害するのだ。
だが、それを成すには、ゾアは何よりも先に「爆発」に目覚めねばならない。
「爆発」は攻撃的な覚醒であり、
「完全回復」は防御的な覚醒だ。
両者は全く異なる位相に位置している。
ゾアが依然として防御の閾に囚われている一方で、今の人格のアスタイルは、その一拳一拳に高次エネルギーを纏わせていた。
人格が変わってから、彼の気質は冷たくなっただけでなく、より重くなった。振り下ろされる拳は空気を押し潰さんばかりの圧力を伴い、ゾアは回避に全神経を注がねばならない。たとえ完全回復を持っていようとも、数発でもまともに喰らえば、再構築が間に合う前に肉体は内部から震動圧力に破壊されてしまうだろう。
拳が肩を掠めた。
背後の地面が爆発し、抉れる。
ゾアは半歩退き、呼吸が一拍分だけ乱れた。
観測モニターの向こう側で、アコウがついに声を漏らした。その声は低く、焦燥を隠しきれていない。
「……この期に及んで、ゾアの身体はまだ『爆発』の感覚を思い出せないのか? あまりに遅すぎる」
彼は腕を組み、画面上のあらゆる動きを凝視した。
「『完全回復』に目覚めたのなら……その感覚を辿って、すぐにでも『爆発』に触れるべきはずなのに」
アコウは目を細め、自分の記憶の中で、ゾアが「爆発」を使用した瞬間をかつて目撃したことがなかったか反芻した。記憶は判然としない。まるで薄い霧に覆われているかのようだ。しかし、否定できない一つの事実がある。――アスタリオンとの戦いだ。
あの時、ゾアは彼に重傷を負わせた。
アスタリオンのような次元の存在に対し、高次エネルギーを纏わせない攻撃でそこまでの傷を負わせることは、ほぼ不可能に近い。あの傷は単なる肉体の損壊ではなく、内部のエネルギー階層にまで達した損傷であった。
ならば、可能性は極めて高い。……あの瞬間、ゾアは無意識に「爆発」を発動させていたのだ。
ゾア自身さえも知らないこと。
意識が理解するよりも早く、肉体が反応していた。
アコウは手を軽く握りしめ、画面を見つめ続けた。
(それを使いこなせばいいだけだ。あの感覚を思い出すだけでいい)
(……本来は、そうであるはずなのに)
しかし、現在のゾアにはそれができない。
忘れてしまったのか。あるいは何かが阻んでいるのか。理論上、この肉体は借り物であり、器だ。かつて使われた力があるならば、肉体の記憶を呼び覚まし、かつての反射を辿れば、「爆発」は再び現れるはずだ。
本来はそれほど単純なはずだった。
だが、その推論が形を成したのと同時に、全く別の思考が彼の頭を横切った。
アコウの動きが止まる。
(……能力の、そして高次エネルギーの本質は、意識に由来するものであり、肉体ではない)
肉体は単なる伝達器官に過ぎない。
ゾアが実験体として残されたのは、特別な肉体を持っていたからではなく、彼の「意識」が異常なまでのポテンシャルを秘めていたからだ。ジークがゾアを選んだ理由はそこにある。筋線維でも骨格構造でもない、あの瞳の奥に存在する「何か」だ。
もしそうであるならば。
ゾアが現在使用している肉体には、元の主人の残滓など何も残っていないことになる。
それはただの空っぽの殻に過ぎない。
ということは――これまで起きたすべての覚醒は、ゾアが自らの力で勝ち取ったものだということだ。
継承でも、再発動でもない。
自ら切り拓いたもの。
ならば……
あの「炎」は何だったのだ?
かつての意識に属していたはずの、あの感覚は。
アコウは背筋が冷たくなるのを感じた。
思考が脳内を駆け巡り、激しい痛みを伴うほどに加速する。断片的なピースが衝突し、一つの仮説として噛み合った瞬間、彼の鼓動が一つ遅れた。
「……ゾアの兄は、死んだ」
アコウの声は、独り言のように小さかった。
「……だが、意識は完全に消え去ってはいなかったのか」
極めて小さな断片。破片。排除されきれなかった残滓。
そして、その意識の欠片は……今もこの肉体の中に留まっている。
支配するには足りず、
奪い返すには至らず。
しかし、導くには十分な、
潜在意識へと言葉を投げかけるには十分な、
残されたものを伝えゆくには十分な何かが。
それは今、その肉体に「最後のこと」を教えている。
自らの肉体を占有している意識へと、力を受け渡しているのだ。
音もなく導く、意識の残滓。自らの持てるすべてを現在の意識へと授ける――言葉なき継承として。
アコウは画面を凝視した。その瞳に怒りはない。
ただ、驚きと。
そして名前の付けられない感情があった。
「……あなたは、それでも彼を救いたいと思っているのか」
アコウの声が微かに震えた。それは怒りからではなく、自分がこれまで思いもしなかった事実に触れたがゆえの震えだった。
ジーク――かつて、自らの手であの男を殺した者。
ジーク――冷徹に人を実験体へと変えてきた者。
それなのに……。
彼は、残されたわずかな意識を完全に排除してはいなかった。
消去せず。
根絶やしにせず。
彼はそれを、留めていたのだ。
真実を隠し、
いつかその意識が再生するか、あるいは別の形として救われる瞬間を待っていたのか。
アコウは微かに唇を結んだ。
驚きを含んだ、淡い苦笑が漏れる。
「……なるほど。あなたは、僕が思っていたような血も涙もない男ではなかったらしい」
画面の中で戦い続けるゾアを見つめる彼の眼差しが、和らいだ。
「……あなたも、人間だったんだな。ジーク」




