第八節
3月30日。 日曜日の朝だった。
空には春特有の白っぽい青が広がっている。
街路樹は、まだ芽吹き切らない枝を風へ揺らしていた。
遼太郎はワンボックスの後部座席のチャイルドシートへ固定され、不満げに眉を寄せていた。
窮屈だった。
五歳児の身体に合わせた安全装置は、三十四歳の精神からすると拘束具に近い。
身じろぎするたび、ベルトが腹へ食い込む。
「全然進まへんなぁ…」
運転席で父がぼやいた。
生駒山の暗闇を突き抜けて大阪中心部と奈良を繋ぐ、国道308号線は見事に詰まっていた。
前方にはワンボックス、セダン、営業車が延々と連なっている。
信号が青になっても、数メートル進んでは止まるだけだった。
「みんな考えること一緒なんやねぇ」
助手席の母も苦笑していた。
遼太郎は窓へ額を寄せる。
流れていく看板。
中古車屋。
ラーメン屋。
パチンコ屋。
国道沿いの風景は、まだ平成初期の色を濃く残していた。
ここまでは順調やったんやけどな。
遼太郎は昨夜を思い返した。
夕食時だった。
居間のテレビでは、関西ローカルの情報番組が流れていた。
特集されていたのは、前年に開館したばかりの大阪府立図書館と併設のライティホール。
巨大な吹き抜け。
ガラス張りのロビー。
お洒落なカフェスペース。
託児施設まで併設されているらしい。
その瞬間、遼太郎は内心で膝を打った。
図書館。
これ以上ない。
今の自分の知識が、どういう性質を持つのか試すには最適な場所だ。
もし今後、詳しい知識を披露したとしても、
図書館で読んだと誤魔化しやすい。
『ほんいっぱいあるのー?』
遼太郎は幼児らしく目を輝かせた。
『あるみたいやねぇ』
母がテレビを見ながら答える。
『いきたい!』
母がちらりと父を見る。
『…久しぶりに、そういうとこ行くのもええかもねぇ…カフェ、お洒落やし』
少しだけ声色が変わっていた。
母ではなく妻、恋人の顔だった。
遼太郎は内心で父を応援した。
そうだ。
子供がいるとはいえ、若い男女なのだ。
たまには洒落た場所でデートくらいした方がいい。
子供なんぞ図書館へ放り込んでおけば勝手に本を読む。
行け。
剛三、男を見せろよ。
ここで頷け。
母と息子の視線を受けて、父は一瞬咳払いをしたあと、
『……よし、明日行くぞ』
と宣言した。
母が艶やかにほほ笑む。
遼太郎は心の中で拳を握った。
そこまでは完璧だった。
だが現実は、この渋滞である。
「全然動かへんやん……」
「日曜やからねぇ」
目の前の男女は気合が入っていた。
母はアイシャドウを入れ、唇にも色を乗せている。
肩を大胆に出したオフショルダーに細身のブーツ。
九〇年代後半らしい、母の精一杯のお洒落だった。
一方の父も、髭をしっかり整え、洒落たジャケットまで羽織っている。
二人とも明らかに“出掛ける男女”だった。
その気合に反比例するように、車列は進まない。
それでも、信号待ちの合間に二人が小声で笑い合う空気は、どこか楽しそうだった。
信号待ちの間に、父が缶コーヒーを助手席へ差し出す。
「飲むか?」
「運転ちゃんとしてよぉ」
母が笑いながら受け取る。
仲ええなぁ。
遼太郎はチャイルドシートへ拘束されたまま、ぼんやり二人を見ていた。
親をこういう目で見たことは無かった。
男女が解る年齢になった時には、既に完成された“大人”として存在していた。
今は違う。
二人ともまだ若い。
不器用で、背伸びして、恋人のように笑っている。
そのことに不思議な気持ちと、微笑ましい気持ちがあった。
遼太郎は、再び窓の外へ目を向けた。
それにしても退屈だ。
スマートフォンが恋しい。
人を見る。
それが最近の暇潰しだった。
幼稚園の初日に気付いた違和感。
あれは気のせいではなかった。
この二週間、試し続けて分かったことがある。
遠目だと、なんとなく危険度程度しか分からない。
近付くと、見える属性が増える。
さらに会話を交わすほど、より増える。
しかし、両親にはまるで効かなかった。
家族を値踏みするな、ということなのだろう。
知識と力を与えた“何か”なりの線引きかもしれない。
遼太郎は内心で感謝した。
もし家族にまで能力が効いていたら、おかしくなっていただろう。
車窓の向こうへ視線を流す。
営業スマイルの男。無害。
疲弊したサラリーマン。無害。
水商売風の女。ちょっと危ない。
死んだ魚の目をしたタクシー運転手。危ない。
ウィンカー無しで路地に曲がっていった。
本当に危ない奴だ。
そんな人物評を頭の中でしているうちに、車はようやく目的地へ近付いていた。
荒本の交差点を曲がった瞬間だった。
「……おぉ」
思わず声が漏れた。
東大阪の古い住宅街の中に、それはあまりにも異質だった。
巨大なガラス。
打ち放しのコンクリート。
鋭角的な外壁。
まるで未来の要塞だった。
大阪府立中央図書館。
前年に完成したばかりの図書館は、九〇年代特有の“未来への自信”をまだ纏っていた。
併設のライティホールのロビーへ入る。
高い天井から光が落ちている。
新築特有の、乾いたコンクリートと新品の絨毯が混ざった匂い。
磨かれた床へ、人々の靴音が高く反響していた。
「すごーい…」
遼太郎は本物の感嘆を漏らした。
館内へ入る。
本。
本。
本。
膨大だった。
両親は当然のように遼太郎の手を引き、幼児本コーナーへ向かおうとしていた。
まずい。
非常にまずい。
このままだと絵本を読まされた挙句、託児スペース送りである。
ここまで来た意味が無くなる。
遼太郎は高速で思考する。
何なら自然か。
何なら五歳児として許されるか。
そして閃いた。
「きょうりゅう!」
「ん?」
「きょうりゅうのほんみたい!」
両親が顔を見合わせる。
「あぁ、図鑑かぁ」
「男の子やねぇ」
遼太郎は冷や汗を拭った。
自然科学の専門書コーナー。
読書机には恐竜図鑑の塔がそびえ立っている。
ちょうど、父が手洗いに行ったタイミングだった。
チャンスだった。
「ちょっと、ごほんみてくるー」
母は図鑑を返しに行こうとしている。
「遠く行ったらあかんよー?」
母の声を背に受ける。
よし、自由だ。
遼太郎は早速、本棚へ向かった。
片っ端から本を開く。
経済、金融、証券。知識が自然に流れ込んでくる。
科学技術、半導体、通信、工学、数式。頭痛を引き起こす知識が頭に流れ込む。
ここまでは想定内。
ふらつきながら洋書を開く。
「…マジか」
英語、独語、仏語。読める。
内容を口に出してみる。
完璧な発音、口の中で音が自然に組み上がる。
新発見だ。
「語学まで…ありがてぇ…」
遼太郎は震えた。
だが、まだ確認したいことがある。
受験。
あれだけは嫌だった。
人生の半分を削られたも同然だった。
遼太郎は教育本コーナーへ駆け込む。
あまり遅くなるのは良くない。
適当な大学の赤本を手に取った。
数学。
問題文を一瞥する。
その瞬間。
答えが流れ込んできた。
数式、解法、途中式、解。
全部だった。
遼太郎は震える手で模範解答のページを開く。
一致。
完全一致。
「ありがとう…ありがとう…」
思わず小声で感謝した。
受験地獄を回避できる。
それだけで人生が明るくなる。
だが。
数ページを捲った瞬間、違和感が走った。
止まった。
知識の流入が途切れる。
真っ白になる。
「……え?」
さらにページを捲る。
汗が噴き出す。
待ってくれ。
また途切れる。
受験勉強は嫌だ。
どこの問題ページだ。
日本史。
世界史。
「あっ…」
遼太郎は初日の事を思い出した。
事件や事故は教えてくれなかった。
歴史を含む”出来事”の知識には制限があるのか。
「自力で勉強しろってことか……」
少しだけ落胆する。
だが、歴史自体は嫌いではなかった。
歴史シミュレーションゲームは散々やり込んだ。
暗記もそこまで苦ではない。
安堵と同時に疑念が湧く。
何故、”出来事”だけ駄目なのか。
遼太郎はふと天井を見上げた。
「…歴史は、自分で作れってことか?」
問い掛けても、当然返事は無かった。
高い吹き抜けへ、子供達の声だけが響いていた。
2026/06/16 言い回しなどを少し直しました。改稿前にお読みいただいた方には申し訳ございません。




