第九節
赤本を棚へ戻す。
そろそろ戻った方が良さそうだ。
五歳児の自由時間は、短い。
遅くなれば、それだけで目立つ。
教育本コーナーを抜けたところで、父と鉢合わせた。
「おぉ、遼」
トイレ帰りらしく、手を拭きながらこちらへ歩いてくる。
「えらい遠くまで来たなぁ」
遼太郎は、とっさに子供らしい笑顔を浮かべた。
「いろんなほん、よんでたー。あとたんけんしてたー」
「そうかそうか」
父は大して疑いもせず頷く。
「腹減ったやろ。飯行こか」
「いくー」
父に手を引かれ、母の元へ戻る。
読書机に戻ると、母が腕を組んで待っていた。
図鑑の塔は消え去っていた。
母はこちらを見るなり、開口一番。
「遅かったなぁ。うんこ?」
遼太郎は顔をしかめた。
母からは関西人の悪いノリが出ていた。
「ちゃうわ」
父が苦笑する。
「トイレ混んどったんや」
「はいはい」
母は雑に流した。
会話が雑なのに、険悪さは無い。
恋人同士のような空気が残っていた。
一階ロビー。
吹き抜けには白い春の光が落ちていた。
エントランスの自動扉が開くたび、まだ冷たさの残る風が館内へ入り込む。
ロビー横のカフェスペースは、日曜日ということもあり、かなり混雑していた。
家族連れ、学生、本を抱えた若者、老夫婦。
コーヒーの香りと、料理の匂いが混ざっている。
ガラス張りの窓から入る陽射しは明るく、九〇年代後半特有の“新しい場所”の空気がそこにはあった。
幸運にも、少し待っただけで家族席が空いた。
「座れてよかったぁ」
母が息を吐く。
遼太郎はゆっくりとお子様用のハイチェアへ上がる。
視界が開けた。
「遼、何食べる?」
父がメニューを見せてくる。
お子様ランチAセット。
お子様ランチBセット。
Aはカレー、Bはオムライスか。
オムライスだな。
さっきの“うんこ”発言が地味に尾を引いている。
「これー」
オムライス側を指差す。
「はいはい、Bねぇ」
無邪気な注文に母が笑う。
そこから、今度は両親のメニュー会議が始まった。
「どうする?」
「せっかくやしなぁ…ステーキ…」
「結構するで?」
「たまにはええやん」
気持ちと、値段との勝負だった。
遼太郎は、周囲を見渡した。
視界の端に、妙に浮いた存在が映った。
女だった。
二十代前半くらい。
金髪。
高い位置で結ばれたポニーテール。
細い眉。
濃いアイシャドウ。
短いスカート。
ルーズソックス。
いかにも、今流行のコギャルだった。
落ち着き気味の母とは違ったタイプの派手なギャルだ。
図書館には似つかわしくない、と感じた。
しかし、女の派手な色彩は、洒落たカフェに居ても不思議ではない気もした。
「……おぉ」
派手ではあるが、目を引く美人だった。
中身が中身なので、つい視線が行く。
女はおもむろに、アクセサリーがじゃらじゃら付いたPHSを取り出した。
「あー、ウチやけどぉー」
声が大きい。
「いまカフェ着いたでぇ。めっちゃ混んどるやーん」
周囲の客が顔を顰める。
遼太郎も、残念な気持ちになった。
好みのタイプなのに、マナーが終わっている。
厚底ブーツをガツガツ鳴らす歩き方といい、頭はあまり良くなさそうだった。
…惜しいなぁ
心の中で勝手に評価する。
「来週、桜花賞あるしなぁ……」
「あー……せやったなぁ。じゃあこれやな」
ようやく両親の注文が決まった。
来週のイベントに備え、控えめにするようだ。
「注文して持ってくるから、ここで待っといてな」
「どっか行ったらあかんで?」
二人がレジへ向かった。
一人になった。
待ってる間、さっきのコギャルでも眺めて癒されましょうかね。
遼太郎は口元を緩めた。
女は電話しながら席を探しているらしく、うろついている。
癖になりつつある値踏みをしようと、意識を女に向けてみる。
その瞬間。
背筋へ、冷たいものが走った。
瞬間的に、胃が縮む。
これまでの観察で見てきた属性、“有能”とは質が違う。
桁違いの有能さを感じた。
混乱する。
見た目だけなら、軽薄な若い女にしか見えなかった。
喋り方も、態度も、服装も。
なのに、中身だけが異様だった。
女は、席を探してこちらへ近付いてくる。
厚底ブーツが床を鳴らす。
ガツ。
ガツ。
ガツ。
近付く。
遼太郎は、恐怖を感じていた。
なんだこいつ。
見た目と中身が一致していない。
女は電話を続けている。
「えー、マジだるいんやけどぉ」
「人多すぎやろぉ〜」
近付くにつれて、さらに“見えて”しまう。
忠誠の属性。
ぶっちぎりだった。
今まで見たどんな会社員よりも強い。
思わず喉が鳴る。
何に向けた忠誠なのかまでは分からない。
少し離れた席が空いた。
女は電話を続けたまま、すかさずそこへ座る。
遼太郎は、さりげなく女を観察する。
耳を澄ます。
「つーか今日マジ疲れるぅ〜」
相変わらず、馬鹿っぽい喋り方だった。
その時、エントランスの自動扉が開いた。
冷たい風を感じる。
冴えない風体の中年の男が入ってきた。
一瞬だった。
女の空気が変わる。
中年男へ、鋭い視線を向けたのだ。
冷たい。
刃物みたいな目だった。
次の瞬間には、元のコギャルへ戻る。
電話口へ向かって、間を置いてから言った。
「…注文、カフェオレで」
口調はさっきまで間延びしていたものとは違った。
冷徹そのもの。
遼太郎は縮み上がった。
見なかったことにしよう。
相手には気づかれていない。
何も接点はないのだ。
忘れよう。
食にだけ集中するのだ。
遼太郎は考えることを放棄した。
そこへ両親が料理を持って戻ってきた。
「はい、おまたせー」
目の前へ置かれたお子様ランチは、かなり豪華だった。
旗。
唐揚げ。
ハンバーグ。
ナポリタン。
ポテト。
ゼリー。
そしてオムライス。
「おぉ……」
いただきますもそこそこに、一口食べる。
「おいしー!」
本当に美味かった。
オムライスの卵は柔らかく、ケチャップライスも懐かしい味がする。
両親も笑いながら料理を食べ始める。
ただ、遼太郎の意識は、どうしてもあの女へ向いてしまっていた。
目の保養のつもりだった。
それだけだったはずなのに、異質なものを見つけてしまった。
見なければよかった。
ご馳走を食べている気がしない。
せっかくのオムライスが勿体ない。
女は時折、さりげなく中年男へ視線を送っていた。
観察している。
そんな様子だった。
そして、不意に。
女と目が合った。
「――っ」
心臓が跳ねる。
女はにっこりと笑った。
人懐っこい、軽い笑顔。
目だけが、笑っていない笑顔。




