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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
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第十節

 本能的に理解した。

 ここで露骨に目を逸らすのは、まずい。

 獣と目が合った時に背を向けるな。

 そんな種類の危機感だった。

 遼太郎は、頭を回転させる。

 どうする。

 どうすればいい。

 背中に汗が噴き出す。

 ――そうだ。笑え。

 子供らしく。

 無垢に。

 何も考えていない顔をしろ。

 遼太郎は、口元いっぱいに笑みを作った。

 間の抜けた笑顔。

 今できる唯一の擬態だった。

 女は、必死の笑顔など気にも留めなかった。

 視線は既に遼太郎から外れている。

 もっと奥。

 カフェのシングル席へ座った中年男へ戻っていた。


 女は、何事もなかったように立ち上がる。

 そのままレジの方へ歩いて行った。

 注文をしに行くらしい。

「…ふぅ」

 遼太郎は、ようやく息を吐いた。

 心臓が嫌な脈を打っている。

 目の前では、両親がすっかり二人の世界へ入り始めていた。

「それ、一口ちょうだい」

「自分のあるやろ」

「ええやん減るもんちゃうし」

 お熱いねぇ。

 遼太郎は、付け合わせのブロッコリーへフォークを突き刺した。

 あの女は何だ。

 危険な人間なら、真っ先に“危ない”と見えるはずだった。

 だが、それが出なかった。

 つまり、自分達へ害意は無い。

 ブロッコリーを咀嚼しながら遼太郎は、中年男へ視線を向けた。

 男は、カフェの隅の席で落ち着きなく腕時計を気にしている。

 そして、うっすらと“危ない”側の気配が見えていた。

 ――あぁ。

 そこで、ようやく腑に落ちた。

 周囲を見回す。

 居る。

 何人も。

 一見すると普通の客、通行人。

 だが、注意して見ると、妙に周囲へ目を配っている。

 しかも、どいつもこいつも“有能”寄りだった。

 女ほどではない。

 だが、似た匂いがある。

 時折、中年男へ視線を送っているのも同じだった。

 なるほど、刑事ドラマとかで見る、張り込みってやつか。

 警察か、少なくともその手の人間。

 ご苦労様です。

 そう自分を納得させた瞬間、妙な安心感が湧いた。


 遼太郎はオムライスを大きく掬う。

 卵の甘味とケチャップの酸味が口へ広がった。

 美味い。

 ようやく味覚が戻ってきた。


 その時だった。

 中年男が、おもむろに立ち上がった。

「……ん?」

 男の視線は、ある一点へ向いていた。

 遼太郎も釣られてそちらを見る。


 ロビー側のベンチ。

 雑誌を広げた若い男が座っていた。

 ラフな格好。

 普通の若者に見える。

 だが、少しだけ“有能”が見えた。

 なるほど。

 あれも仲間か。

 ただ、周囲の連中より、ほんの少し質が落ちる気がした。

 態度には出ないが表情は焦っていた。

 あちゃー。

 見つかったか。

 そう思った瞬間だった。

「すいませぇーん」

 隣から、よく通る声がした。

 遼太郎は、オムライスを頬張ったまま横を向く。

 視界いっぱいに谷間が飛び込んできた。

 甘い香水の匂い。

 咀嚼が止まる。

 さっきの女が、真横で屈んでいた。

「…なんでしょう?」

 母が、不思議そうに答える。

 女は遼太郎を指差した。

「チビちゃん、お口にケチャップめっちゃ付いてんで? 服に垂れそう!」

 慌てて口元へ手をやる。

 ぬるりとした感触。

 口から顎まで、見事にケチャップが垂れていた。

 食いしん坊さんめ。


「あらぁ!」

 母が慌ててティッシュを手に取り、遼太郎の口元を拭う。

 父も鞄からウェットティッシュを探し始めた。

「ありがとうございます〜」

 母は、すっかり警戒を解いた顔で笑っている。


 父からウェットティッシュを受け取る。

 指を拭きながら父を見た。

 父は、女を見ている。

 鼻の下が伸びていた。

 剛三、しっかりしろよ。


「いーえー。てか超かわいーですねぇ!」

 女の声はやたら大きい。

「何歳なんですかぁ? お名前はぁ?」

「遼太郎です〜。今月五歳になったばっかりなのに、食いしん坊でぇ」

「へぇ〜! 遼ちゃんって言うんやぁ!」

 女は両手を叩いて笑った。

「五歳とか一番かわいい時期やーん。ウケるぅ〜。癒されるわぁ〜」

 頭の悪そうなノリだった。


 遼太郎は脇目で中年男を見る。

 男は、こちらを見ていた。

 しかし、すぐ興味を失ったように座り直し、また腕時計へ視線を落とす。

 その瞬間、理解した。

 ――こいつ。

 仲間を庇うために、わざと目立ったのか。

 こちらへ男の注意を引き付けるために、自分達家族を、“背景”として利用した。

 盾にしやがった。

 じわりと腹が立った。

 それがお巡りさんのやることかよ。

 文句を言いたかった。

 だが無理だ。

 女は、もう完全に母の間合いへ入っている。

 人懐っこい笑顔で、母と自然に会話していた。

 この距離感の詰め方。

 異常に上手い。

 太刀打ちできる気がしない。

 何もできない悔しさが湧きたつ。

 何か、何か一発くらい返したかった。

 その時、女の手元が目に入った。

 透明なプラスチックカップ。

 中には真っ黒な液体。

 ブラックコーヒー。

 遼太郎は、口元を緩めた。


「ねーねー」

 女のスカートを軽く引っ張る。

「んー? どうしたん?」

 女がしゃがみ込む。

 目線が合う。

 胸元が眩しかった。

「それってカフェオレー?」

 遼太郎は、女の手元を指さした。わざと無邪気に首を傾げた。

「のみたーい」

 一瞬だった。

 女の目が、僅かに揺れた。

 カフェオレ。

 さっきの言葉。

 それなのに、手元にあるのはブラックコーヒー。

 遼太郎は内心でほくそ笑んだ。

 どうだ?

 ちょっとは嫌な汗かいたか?

 だが女は、すぐ立て直した。

「んー? これぇ?」

 カップを軽く振る。

「残念、これ無糖のやつぅ。欲しい?」

「ううん、にがいからいらなーい!」

 遼太郎は満面の笑みで答えた。

 動揺を誘えただけでも、仕返しとしては十分だった。

 女は一瞬だけ遼太郎を見つめ、それから笑った。

「そっかぁ〜」

 その笑顔だけ、素のように感じた。


「ほな、ウチ行くわぁ」

 息子自慢に気を良くした母へ軽く会釈し、そのまま去っていく。

「ばいばーい」

 遼太郎は幼児らしく手を振った。

 女も振り返し、雑踏の中に消えていった。


「遼も隅に置けんなぁ」

 息子が美人とお知り合いになれたとばかりに、父がにやけていた。

 お前はまず隣を見ろ。

 母が、恵が、剛三を睨みつけていた。

 夫婦喧嘩の気配を感じ取り、遼太郎は静かに意識を食べかけのオムライスへ戻した。

 いつの間にか、中年男の姿は消えていた。

 カフェには、また普通の日曜日の空気だけが残っていた。


 人気の少ない通路を、女が歩いていた。

 春の風が吹く。

 厚底ブーツは音を立てない。

『統括より各局。マルタイが動いた。一五四二、ホールを出て北へ徒歩移動開始』

 耳に着けたインカムから無機質な男の声が響く。

 女は即座に応じた。

「こちらクロチヨ。マルタイの現視、追尾を移動班へ引き継ぐ」

 先ほどまでの間延びした口調は、完全に消えていた。

 鋭く冷たい。

 刃物のような声だった。

『統括より各局。ホール内の緊密は現解。速やかに離脱せよ』

 一拍置いて、無線が続く。

『……なお、クロチヨ。先ほどのマルサン接触について、理由を報告せよ』

 声の温度が、わずかに下がった。

 女は口元を歪める。

「こちらクロチヨ。マルサンにカウンターの疑い有り。アタリを敢行した」

『…結果は』

「雑談による反応を見るに、悪意なし。偶然と判断。支障なし」

 短い沈黙。

『統括了解。現解せよ』

「クロチヨ、了解」

 クロチヨと呼ばれた女――羽黒遙は、インカムを外した。

 それから、手元のプラスチックカップを傾ける。

 ブラックコーヒーを一口。

 ぬるくなっていた。

 コーヒー党の悪癖か、それとも本質まで値踏みそうな視線に動じたか。

 思わず、普段のブラックを注文してしまった。

 それにしても…

「五歳で“無糖”が苦いってよく知ってるね。遼太郎くん」

 ぽつりと呟く。

 そして、したり顔の幼児を思い出した。

 あの妙に察しの良い目。

 年齢に似合わない間。

 羽黒は、ふっと笑った。

 春の風が、結い上げた金髪を揺らしていた。

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