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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
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第十一節

 4月6日、日曜日。

 朝から雨だった。

 空は低く垂れ込め、灰色の雲が大阪の街を重たく覆っている。

 昨夜から降り続いた雨は弱まる気配を見せず、フロントガラスへ細かな水滴を絶え間なく叩き付けていた。

 ワイパーが一定のリズムで左右へ動く。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 車内で流れるラジオの音も、雨音で半分ほど掻き消されていた。

 その単調な音を聞きながら、遼太郎は後部座席でぼんやり窓の外を眺めていた。

 仁川競馬場――阪神競馬場へ向かう道中だった。


 競馬デビューの日。

 本来なら胸を躍らせるべきなのだろうが、遼太郎はそれどころではなかった。

 あの日。

 図書館での一件以来、神経を擦り減らしていた。

 あの女。

 コギャル風の女。

 名前も所属も知らない。

 ただ者ではないことしか分からない。

 一時の腹立ち紛れとはいえ、牽制のつもりで、余計な真似をした。

 冷静になって考えれば、かなり無謀だった。

 この一週間、遼太郎は周囲を警戒していた。

 幼稚園の先生。

 送迎の親。

 園の前へ停まる車。

 道端で煙草を吸う男。

 ――監視されてないか。

 そんなことばかり考えていた。

 疲れた。

 五歳児らしく無責任に忘れることもできない。

 昨日の土曜日など、家で寝転がりながら、半日近く天井を見て過ごしていた。

 だが、今のところ妙な気配は無い。

 少なくとも、怪しげな幼児へ監視を付けるほど暇ではないらしい。

 そこだけは救いだった。


「今日は勝つでぇ」

 運転席で、父が気合を入れていた。

 バックミラー越しの顔が、真剣である。

 助手席の母が、小さく息を吐いた。

「毎回言うてるやん、それ」

「今日は違う。ちゃんと軍資金も用意しとる」

 父は得意げに笑った。

 昨晩、父は普段の小遣いとは別に、1万5000円を軍資金として確保していた。

「無駄遣いしたら知らんで」

 母の声は冷たい。

 だが、本気で止める気も無さそうだった。

「無駄ちゃうて。今日は遼の競馬デビューやからな」

 父はバックミラー越しに遼太郎を見る。

「1万は、遼が選んだ馬を買ったる」

「おぉ……」

 遼太郎は幼児らしく目を輝かせてみせた。

 その一方で、頭の中では別の計算をしていた。

 どう誘導する。

 キョウエイマーチを選ばせるのは確定として、不自然にならないように持っていかなければならない。

 未来を知っていることが露骨に見えるのはまずい。

 やはりパドックか。

 “実物を見て気に入った”ことにすれば自然だろう。

 雨の高速道路を、白いワンボックスが水飛沫を上げながら走っていった。


 昼過ぎ。

 阪神競馬場へ着いた頃には、雨は弱まっていた。

 空はまだ鉛色だったが、雲の切れ間からぼんやりと春の光が滲んでいる。

 六甲の山並みには薄い霧が掛かっていた。

「うおぉ……」

 遼太郎は思わず声を漏らした。

 芝だった。

 青々とした芝。

 テレビ越しでは何度か見た景色だが、実物はまるで違う。

 広い。

 空気まで違う。

 湿った春の風の中へ、土と青草の匂いが混ざっている。

 巨大なスタンド。

 ざわめき。

 赤鉛筆を耳へ挟んだ男達。

 新聞を広げる老人。

 煙草の煙。

 九〇年代の競馬場だった。

 まだギャンブル場の匂いが濃かった時代だった。

「すごいなぁ遼」

「うん!」

 遼太郎は本気で興奮していた。

 父はそんな息子の顔を見て、嬉しそうに笑う。

 そのまま三人はパドックへ向かった。

 雨に濡れた石畳が鈍く光っている。

 輪乗りする馬達は、どれも美しかった。

 筋肉。

 毛艶。

 張った首筋。

 時折、馬が短く鼻を鳴らす。

 蹄鉄が地を叩く音が、湿った空気の中へ小気味よく響いていた。

 極限まで鍛え上げられた競走馬の身体は、生き物というより、芸術品のようだった。

「どれがええと思う?」

 父が競馬新聞を片手に訊いてくる。

 遼太郎は、わざと悩むふりをした。

 その横で、父は既に十八番人気のアンダンテへ印を付けている。

「また大穴狙ってる……」

 母が呆れた声を出した。

 父は悪びれもせず笑う。

 新聞を持つ手だけは真剣だった。

 その馬は八着に沈む。

 遼太郎も半ば呆れながら父を見る。

 だが、嬉しそうに馬を眺めている顔を見ると、何となく憎めなかった。

 遼太郎は視線を移す。

 居た。

 キョウエイマーチ。

 薄ピンクのメンコ。

 雨空の下でも目立つ栗毛。

 無駄の無い身体。

 落ち着き払った風格。

 素人目にも分かるくらい、雰囲気が違った。

 強い。

 そう思わせる空気を纏っていた。

「この馬!」

 遼太郎は指差した。

「キョウエイマーチ!」

「おぉ、一番人気やんけ」

 父はつまらなさそうに笑う。

 その視線はもう一度馬へ戻っていた。

「無難やなぁ」

 不満そうだ。

「ほかに良さそうなのおるか?」

 アンダンテと言うのを期待しているのだろう。

 だが、馬連を狙っていく場合を考えると、ここで適当なことは言えない。

「メジロドーベル!」

 遼太郎はパドックを指差した。

「ふむ」

 二番人気だった。

 父は新聞と見比べながら頷いている。

 ふと興味が湧いたのか、顔を上げた。

「他には?」

 遼太郎は迷った。

 ここで露骨に当て過ぎるのも不自然だった。

 ただ、外すのも良くない。

 情報は信用第一だ。

「…ホーネットピアス」

「ほぉ」

 父の眉が少しだけ上がる。

 新聞を見直した。

「なんで分かるん?」

「げんきそうやった!」

 遼太郎は幼児らしく答える。

 一瞬、沈黙。

 それから父は吹き出した。

「ほな今日は遼を信じるか。ただ馬連は中々当たらんからな。単勝でいこう」

 結局、馬券はキョウエイマーチの単勝一点になった。

 1万円。

 父としては、当たれば儲けもの。

 成功体験も与えてやれる。

 外れても、息子へ競馬場の雰囲気、馬券吹雪を見せてやれる。

 その程度の感覚だった。

 だが、遼太郎は違った。

 もし歴史が変わっていたら。

 もし結果がズレていたら。

 未来知識そのものが崩壊する。

 これからの人生設計が根底から狂う。

 祈るような気持ちで、発走時刻を待った。


 一五時四十分。

 桜花賞、発走。

 ファンファーレが響いた。

 空気が震える。

 ざわめきが、一瞬だけ熱を帯びる。

 ゲートが開いた。

 歓声。

 馬群が一斉に飛び出す。

 キョウエイマーチは、前へ出た。

 速い。

 逃げる。

 序盤から先頭争いを繰り広げていた。

 遼太郎の鼓動が速くなる。

 頼む。

 そのまま行け。

 最終直線。

 雨に濡れた芝を、各馬が駆け抜ける。

 後続が迫る。

 だが、伸びない。

 キョウエイマーチだけが伸びる。

 さらに伸びる。

「いけぇぇ……!」

 気付けば立ち上がっていた。

 ゴール板。

 歓声。

 そして――。

 一着 キョウエイマーチ。

「うおぉぉぉ!」

 父が叫んだ。

「当たったぁ!」

 母も興奮している。

「遼ちゃんすごいやん!」

「やったぁ!」

 遼太郎も満面の笑みを浮かべた。

 嬉しかった。

 金ではない。

 史実通りに進んだ。

 そこが大きかった。


 遼太郎と妻・恵がハイタッチする。

 その横で、剛三は2倍となった払い戻しの馬券を握ったまま、黙りこんだ。

 視線の先には着順表示の電光掲示板。

 一着 キョウエイマーチ

 二着 メジロドーベル

 三着 ホーネットピアス

 全部、遼太郎の言った通りだった。

 キョウエイマーチやメジロドーベルは人気も高い。

 そこまでは、まだ分かる。

 だが、ホーネットピアス。

 八番人気のこの馬が来るとは、中々予想できない。

 周囲ではまだ歓声が続いている。

 馬券をまき散らす男。

 新聞を丸めて叫ぶ老人。

 湿った芝の匂い。

 その喧騒の中で、剛三だけが静かだった。

 偶然と言えば済む。

 だが、五歳児が、ここまで当てるか。

 笑いながらはしゃぐ息子を見る。

 その小さな背中から、得体の知れないものを感じた。

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