第十二節
4月12日。夜。
夕食は焼き魚だった。
食卓へ湯気が立つ。
味噌汁の匂い。
テレビでは、明日の皐月賞特集が流れていた。
『混戦模様のクラシック第一冠――』
司会者の声を聞きながら、剛三がちらちらテレビを見ている。
その様子へ、恵が呆れた視線を向けた。
「前にも言ったけど」
箸を置きながら、恵が口を開いた。
「明日、試合やからな」
剣道の大会だった。
朝から夜まで不在になる。
「昼も晩も適当に食べといてや。酒は飲まんから迎えは要らんで。遊び行くなら気ぃ付けてな」
「おう」
剛三は気のない返事をした。
数秒の沈黙。
テレビではパドック映像が流れている。
「…なぁ遼」
剛三が、妙に軽い声を出した。
「明日、梅田行かへんか?」
遼太郎は顔を上げる。
「うめだー?」
「おう。WINSや。皐月賞のお馬さん見れるで」
場外馬券場だった。
「飯も阪急で食おうや。美味いもん食わせたる」
恵が即座に眉を寄せる。
「また競馬ぁ?」
「ええやろ別に。父子での遊びや」
「はいはい……」
呆れ半分。
諦め半分。
「遼、変なとこ連れて行ったらあかんで」
「分かっとるって」
場外馬券場もそこそこ変なとこやけどな。
剛三は笑った。
「おうまさんみれるー!」
遼太郎は両手を上げ、幼児らしく喜ぶ。
だが、その目はどこか待っていたようだった。
剛三は、笑っている遼太郎を見ながら、複雑な気持ちになっていた。
桜花賞。
あれが偶然とは、どうしても思い切れなかった。
だが、認めたくもない。
五歳児が競馬を読む?
そんな阿呆な話があるか。
親として、それを期待していいのか。
そもそも、人としてどうなんだ。
けれど。
もし、本当に当たるなら――。
欲が、頭をもたげる。
剛三は味噌汁を啜った。
ぬるくなっていた。
明日の皐月賞、もう一度だけ、もう一度だけ勝負してみよう。
遼太郎の好きに選ばせる。
それで外れたら終わりだ。
ただの偶然だったと諦めよう。
むしろ、外れてくれ。
そんな矛盾した願いを、心のどこかで抱えていた。
翌日の昼過ぎ。
大阪・梅田。
ビル風の中へ、湿った春の匂いが混ざっている。
昼食は阪急百貨店のレストラン街だった。
剛三は、口いっぱいにハンバーグを頬張った遼太郎の顔を思い出す。
『うまいー!』
鉄板の上で、ハンバーグが音を立てていた。
肉汁。
デミグラスソース。
付け合わせの人参とポテト。
おいしそうに、無邪気に、舌鼓を打つその姿。
やっぱり、ただの子供やないか。
そんな安心が、一瞬だけ胸をよぎった。
WINS梅田へ入った瞬間、空気が変わった。
そこは熱気が支配していた。
人。
煙草。
新聞。
怒号。
笑い声。
巨大モニターには、皐月賞の出走馬が映し出されている。
硬貨の音。
券売機の列。
競馬場とは違う独特の雰囲気だった。
ギャンブルの熱が、建物全体へ染み込んでいる。
剛三はしゃがみ込み、こっそり息子へ耳打ちする。
「なぁ遼」
声が小さい。
「どのお馬さん強そうや?」
試すような声だった。
遼太郎はじっとモニターを見る。
悩んでいるようだ。
返答までの時間が異様に長く感じられた。
そして。
「…サニーブライアン」
剛三の顔が止まった。
「え?」
思わず新聞を見る。
穴馬だった。
一番人気ではない。
桜花賞とは違う。
空気が変わる。
「じゃ、じゃあ二着は……?」
恐る恐る聞く。
遼太郎は、平然と答えた。
「シルクライトニング」
十番人気。
剛三の喉が鳴った。
おいおい。
それ、馬連で来たら――。
倍率を想像し、言葉を失う。
「うまれんやろーよ!」
遼太郎が唐突に言う。
「まえやらんかったやつー!」
遼太郎は無邪気に笑った。
「まえ2万円かったやろー? ぜんぶつかっちゃおーよ!」
剛三の顔から血の気が引く。
2万。
馬連。
数百倍。
もし、本当に来たら――。
頭がおかしくなりそうだった。
いや、そんなわけがない。
当たるわけがない。
桜花賞は偶然だ。
そうだ。
親として、ギャンブルには負けがあることも教えないといけない。
遼太郎は目の前でにこにこしている。
剛三は、自分へ言い聞かせるように息を吐いた。
「…よし」
震える声。
今回は負ける勉強やな。
そう言い聞かせることにした。
時が来た。
場の空気が変わる。
モニター前へ、人が集まり始める。
ざわめき。
新聞を握る音。
剛三は、2万円分の馬券を握り締めていた。
手汗で湿っている。
遼太郎は、その横で静かにモニターを見ていた。
ゲートイン。
歓声。
そして――皐月賞、発走。
ゲートが開くと同時に、サニーブライアンが飛び出した。
「おぉっ!?」
剛三が前のめりになる。
速い。
そのまま先頭集団に入る。
剛三の鼓動が高まる。
そして最終コーナー。
先頭集団から一頭抜け出す。
サニーブライアンだ。
剛三の目は見開かれる。
瞬きをすることも忘れてしまった。
最終直線。
サニーブライアンが粘る。
人気馬たちが届かない。
そして、後ろから来る馬は…シルクライトニング。
剛三の呼吸が止まる。
当たってくれ。
いや、外れてくれ。
いや、でも――。
頭の中で、矛盾した願いが何度も反復する。
その横で、遼太郎は静かに笑っていた。
熱狂の後、モニターへ表示された文字。
一着、サニーブライアン。
二着、シルクライトニング。
馬連 2-18 51,790円。
剛三は、動けない。
周囲では歓声と悲鳴が入り混じっている。
だが、その音が遠い。
理解が追い付かなかった。
2万円。
500倍で1000万円。
脳が現実を拒否する。
その時だった。
「ねー」
ズボンの裾を引っ張られる。
遼太郎だった。
「つかれたー」
無邪気な声。
「はやくかえろーよー」
"はやく換金しよう。"
そう言外に言っているように聞こえた。
剛三は、息子を見る。
笑っていた。
五歳児らしく。
無邪気に。
剛三は、1000万円を超える馬券を握り締めたまま、雑踏の中へ立ち尽くしていた。




