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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
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第十三節

 4月13日。夜。

 春も半ばだというのに、夜気はまだ冷たかった。

 玄関の鍵が回る。

「ただいまー…」

 疲れた声だった。

 剣道の試合と、その後の懇親会。朝から晩まで動き回っていた恵は、肩へ竹刀袋を掛けたまま玄関へ入ってくる。

 そこで、足が止まった。

 剛三が居た。

 玄関先で、じっと待っていた。

 顔色が悪い。

 まるで葬式帰りのような顔だった。

「…何?」

 恵が眉を寄せる。

「遼太郎に何かあったん?」

「いや…」

 剛三は、掠れた声を出した。

「遼はもう寝た」

「は?」

「飯も食わせた。今日は、はしゃぎ過ぎてたしな…」

 言葉が妙に途切れ途切れだった。

 恵は無言で夫を見る。

 遼太郎ではない。

 問題は、こっちだ。

 何をやらかした。

 剛三は目を逸らした。

 気まずそうに口を閉ざしている。

 恵は何も言わなかった。

 草履を脱ぎ、着物姿のまま廊下を進む。

 居間の襖を開けた。

 そして、止まった。

 食卓の上には札束があった。

 1万円札。

 100万円の帯封。

 それが十個ばかり、積まれていた。

 部屋の蛍光灯が、白く札束を照らしている。

 テレビは消えていた。

 時計の秒針だけが、やけに大きく響いている。

 不思議と驚きは遅れて来なかった。

 むしろ、胸の奥で何かが腑に落ちていた。

 ――やっぱりか。

 そんな感覚の方が近かった。

 最近の遼太郎は急激に利口になりはじめた。

 言葉遣い。

 食事。

 空気の読み方。

 時折見せる、大人のような間。

 そして、桜花賞での当て方。

 いつか何か起こる。

 そんな予感は、ずっとあった。

 ただ、こんなに早いとは思っていなかった。

 背後で、剛三が震える声を出した。

「…恵」

 振り返らない。

「俺……」

 声が掠れる。

「俺、あかんかった……」

 恵は静かに息を吐いた。

 それから振り返り、剛三の肩を強く抱き寄せた。

「座れ」

 短かった。

 だが、有無を言わせない声だった。

 剛三は、糸が切れたように食卓の前にへたりこむ。

 その肩が、小刻みに震えていた。

「…桜花賞の時から、怖かってん」

 ぽつり、ぽつりと言葉が落ちていく。

「遼のこと、ませてきたなぁって思っとった。好き嫌いも減ったし、急にしっかりしてきたし…」

 剛三は、自分の掌を見た。

 昼間、馬券を握り締め続けていた手だった。

「でも、桜花賞で全部当てた時…ちょっと怖なった」

 声へ、少しずつ嗚咽が混じり始める。

「全部、分かっとるんちゃうかって」

 恵は黙って聞いていた。

 一言も挟まない。

 表情も変わらない。

「…そしたらな」

 剛三が笑った。

 泣き笑いだった。

「欲、出てもうてん」

 その言葉だけで十分だった。

 恵は目を閉じる。

「当てられるんちゃうかって」

「親が、子供を金儲けに使うんかって」

「でも、もし本当やったらって」

 剛三の呼吸が乱れる。

「ぐちゃぐちゃになって…最後に一回だけ試そう思った」

 昼間のWINS。

 熱気。

 サニーブライアン。

 シルクライトニング。

「…当たってもうた」

 その瞬間。

 剛三の声が崩れた。

「怖かってん……!」

 食卓へ額を押し付ける。

「換金して、遼の手ぇ引っ張って、逃げるみたいに帰って…!」

 涙が畳へ落ちる。

「遼は何も知らんと笑っとって…!」

 帰り道。

 ファミレス。

 嬉しそうにデザートを食べる息子。

 屈託のない笑顔。

 無邪気な声。

 その顔を見ながら。

 ほんの一瞬。

 化け物かもしれない、と思ってしまった。

「怖いねん…!」

 叫びに近かった。

「でも、怖がるなんてあかんやろ…!」

「俺らの子やぞ……!」

 剛三は泣き崩れていた。

「愛おしいねん…!」

「なのに怖いねん…!」

 嗚咽が居間へ響く。


 恵は、最後まで黙って聞いていた。

 時計の音だけが流れる。

 長い沈黙だった。

 やがて口を開く。

 低い声だった。

「よう隠さんと、全部話してくれた」

 剛三が、震えながら息を吐く。

「ただな」

 空気が変わった。

 張り詰める。

 剛三が顔を上げた。

 恵の目は、静かだった。

 静かなまま、怒っていた。

「わが子が怖いから何や」

 ドスの効いた声だった。

「あの子は私の子やないんか?」

 一歩、踏み込む。

「あんたと私の宝物やないんか?」

 剛三が何か言おうとする。

 恵は手でそれを制した。

「…ちょっと待っとれ」

 そのまま台所へ向かう。

 足音は静かだった。

 だが、一切迷いが無かった。

 剛三は動けない。

 時間だけが過ぎる。

 秒針の音。

 冷蔵庫のモーター音。

 外を走る車の音。

 三分ほどだった。

 だが、永遠のように長かった。

 やがて恵が戻ってきた。

 右手に包丁。

 左手に、一枚の紙。

 すっと食卓へ置く。

 剛三は札束の横に置かれた紙面を見た。

 離婚届だった。

 剛三の呼吸が止まる。

 次の瞬間。

 鈍い音。

 恵が、包丁を突き立てた。

 静かな動作だった。

 刃は離婚届を貫き、そのまま食卓へ深々と刺さっていた。

 柄が微かに震えている。

 恵は静かに言った。

「私はな」

 その目は、一切揺れていなかった。

「あの子守るためにやれって言われたら、これ首に突き立てる覚悟がある」

 包丁へ視線を落とす。

「あんたはできるか?」

 剛三は息を呑む。

「できへんねやったら」

 恵は、離婚届を指差した。

「今すぐ名前書いて出て行け」

 静かだった。

「あの子は私が守る」

 剛三の胸へ、何かが突き刺さった。

 剛三は、突き立てられた包丁を見た。

 食卓へ深々と刺さっている。

 木目へ、包丁の切っ先が深く食い込んでいた。

 恵は微動だにしない。

 だが、その目だけが剛三を射抜いていた。

 剛三は唇を震わせる。

 喉が鳴る。

 言葉が出ない。

 だが、胸の奥では別の感情が膨れ上がっていた。

 そうだ。

 何を迷っていた。

 遼太郎は、自分の息子だ。

 初めて抱いた日のことを思い出す。

 小さかった。

 泣き声がでかかった。

 夜泣きも酷かった。

 ミルクを吐いて、熱を出して、転んで膝を擦りむいて。

 その度に慌てて。

 笑って。

 怒って。

 そうやって育ててきた。

 その全部が、こんな紙の束で消えるのか。

 違う。

 剛三は、震える手を伸ばした。

 包丁の柄を握る。

 だが、びくともしない。

 恵が本気で突き刺したのだ。

 武道家の膂力だった。

「っ……!」

 剛三は歯を食いしばる。

 そして、柄だけではなく刃の方へも手を添えた。

 刃に手を添えた瞬間、掌が浅く裂けた。

 ぬるりとした感触。

 赤い血が、銀色の刃を伝った。

 恵の眉が、僅かに動く。

 剛三は構わなかった。

 力任せに引き抜く。

 食卓が軋む。

 次の瞬間。

 ――ガッ。

 包丁が抜けた。

 勢い余って後ろへよろけそうになる。

 掌は裂け、指の隙間から血が滴っていた。

 ぽたり。

 ぽたり。

 食卓へ赤い染みが落ちる。

 剛三は荒い呼吸のまま、包丁を静かに置いた。

 それから、離婚届を手に取る。

 紙が震えていた。

 指の震えか。

 呼吸の震えか。

 自分でも分からない。

 そして、紙を破いた。

 さらに破る。

 何度も。

 何度も。

 紙片が、居間へ舞った。

 赤く滲んだ離婚届は、まるで桜吹雪のように畳へ落ちていく。

 剛三は、しばらく黙ったままだった。

 外では風が鳴っている。

 春の夜風だった。

 やがて剛三は、小さく息を吐いた。

「…取り乱した」

 声は掠れていた。

「もう迷わん」

 血まみれの手を開く。

 うっすら裂けた掌が痛む。

「あの子は、俺たちの子や」

 剛三は、恵を見た。

「命ある限り守る」

 そして、自分の掌を見下ろす。

「この傷は…俺のけじめや」

 沈黙。

 恵は、ふっと笑った。

「…よう言うた」

 その声には怒気は入っていなかった。

「それでこそ、見込んだ男や」

 恵は剛三へ歩み寄る。

 そして、血だらけの手を取った。

 温かかった。

 そのまま、自分の頬へ当てる。

 小麦色の肌が血に染まる。

 剛三は、呆然とその顔を見ていた。

 まるで戦へ赴く前の戦化粧に見えた。

 この女には敵わない。

 昔からそうだった。

 遼太郎を産む時も。

 金が無くて苦しかった時も。

 自分が仕事で潰れかけた時も。

 最後に腹を括るのは、いつも恵だった。

 剛三は、不意に笑ってしまった。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔だった。

「…怖い女やで、ほんま」

「今さら知ったんか」

 恵は鼻で笑った。

 その瞬間だった。

 廊下の向こうから、小さな寝言が聞こえた。

「…うま…」

 二人が同時に黙る。

 そして、顔を見合わせた。

 数秒後。

 どちらともなく吹き出した。

 緊張が切れたような笑いだった。

 居間には、破られた離婚届が散らばっている。

 血の匂い。

 包丁。

 札束。

 異様な光景だった。

 だが、その中心で二人は、ようやく同じ方向を向くことができていた。


 翌朝。

 春の日差しが、薄いカーテン越しに差し込んでいた。

 食卓では、味噌汁の湯気が立っている。

 遼太郎は眠そうな顔で席へ着いた。

 そして、固まる。

「…え?」

 父の左手へ、ぐるぐると包帯が巻かれていた。

 父がこんな怪我したことあったか?

 無かった。

 少なくとも覚えていない。

 遼太郎は一瞬だけ警戒する。

 父は、困ったように笑った。

「昨日な。100万……いや、1000万か」

 まだ自分でも慣れていないらしい。

 言い直していた。

「それ考えながら洗いもんしとったら、包丁でざっくりやってもうてな」

 母が即座に笑う。

「お父ちゃん、ほんまドジやろー?」

「うるさいわ」

「血ぃ見た瞬間、情けない声出しとったもんなぁ」

「言うなや!」

 二人が笑う。

 自然だった。

 いつも通りに見えた。

 しかし、遼太郎は気づかなかった。

 二人の目。

 何かを決めた目。

 腹を括った人間の目であったことを。

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