第十三節
4月13日。夜。
春も半ばだというのに、夜気はまだ冷たかった。
玄関の鍵が回る。
「ただいまー…」
疲れた声だった。
剣道の試合と、その後の懇親会。朝から晩まで動き回っていた恵は、肩へ竹刀袋を掛けたまま玄関へ入ってくる。
そこで、足が止まった。
剛三が居た。
玄関先で、じっと待っていた。
顔色が悪い。
まるで葬式帰りのような顔だった。
「…何?」
恵が眉を寄せる。
「遼太郎に何かあったん?」
「いや…」
剛三は、掠れた声を出した。
「遼はもう寝た」
「は?」
「飯も食わせた。今日は、はしゃぎ過ぎてたしな…」
言葉が妙に途切れ途切れだった。
恵は無言で夫を見る。
遼太郎ではない。
問題は、こっちだ。
何をやらかした。
剛三は目を逸らした。
気まずそうに口を閉ざしている。
恵は何も言わなかった。
草履を脱ぎ、着物姿のまま廊下を進む。
居間の襖を開けた。
そして、止まった。
食卓の上には札束があった。
1万円札。
100万円の帯封。
それが十個ばかり、積まれていた。
部屋の蛍光灯が、白く札束を照らしている。
テレビは消えていた。
時計の秒針だけが、やけに大きく響いている。
不思議と驚きは遅れて来なかった。
むしろ、胸の奥で何かが腑に落ちていた。
――やっぱりか。
そんな感覚の方が近かった。
最近の遼太郎は急激に利口になりはじめた。
言葉遣い。
食事。
空気の読み方。
時折見せる、大人のような間。
そして、桜花賞での当て方。
いつか何か起こる。
そんな予感は、ずっとあった。
ただ、こんなに早いとは思っていなかった。
背後で、剛三が震える声を出した。
「…恵」
振り返らない。
「俺……」
声が掠れる。
「俺、あかんかった……」
恵は静かに息を吐いた。
それから振り返り、剛三の肩を強く抱き寄せた。
「座れ」
短かった。
だが、有無を言わせない声だった。
剛三は、糸が切れたように食卓の前にへたりこむ。
その肩が、小刻みに震えていた。
「…桜花賞の時から、怖かってん」
ぽつり、ぽつりと言葉が落ちていく。
「遼のこと、ませてきたなぁって思っとった。好き嫌いも減ったし、急にしっかりしてきたし…」
剛三は、自分の掌を見た。
昼間、馬券を握り締め続けていた手だった。
「でも、桜花賞で全部当てた時…ちょっと怖なった」
声へ、少しずつ嗚咽が混じり始める。
「全部、分かっとるんちゃうかって」
恵は黙って聞いていた。
一言も挟まない。
表情も変わらない。
「…そしたらな」
剛三が笑った。
泣き笑いだった。
「欲、出てもうてん」
その言葉だけで十分だった。
恵は目を閉じる。
「当てられるんちゃうかって」
「親が、子供を金儲けに使うんかって」
「でも、もし本当やったらって」
剛三の呼吸が乱れる。
「ぐちゃぐちゃになって…最後に一回だけ試そう思った」
昼間のWINS。
熱気。
サニーブライアン。
シルクライトニング。
「…当たってもうた」
その瞬間。
剛三の声が崩れた。
「怖かってん……!」
食卓へ額を押し付ける。
「換金して、遼の手ぇ引っ張って、逃げるみたいに帰って…!」
涙が畳へ落ちる。
「遼は何も知らんと笑っとって…!」
帰り道。
ファミレス。
嬉しそうにデザートを食べる息子。
屈託のない笑顔。
無邪気な声。
その顔を見ながら。
ほんの一瞬。
化け物かもしれない、と思ってしまった。
「怖いねん…!」
叫びに近かった。
「でも、怖がるなんてあかんやろ…!」
「俺らの子やぞ……!」
剛三は泣き崩れていた。
「愛おしいねん…!」
「なのに怖いねん…!」
嗚咽が居間へ響く。
恵は、最後まで黙って聞いていた。
時計の音だけが流れる。
長い沈黙だった。
やがて口を開く。
低い声だった。
「よう隠さんと、全部話してくれた」
剛三が、震えながら息を吐く。
「ただな」
空気が変わった。
張り詰める。
剛三が顔を上げた。
恵の目は、静かだった。
静かなまま、怒っていた。
「わが子が怖いから何や」
ドスの効いた声だった。
「あの子は私の子やないんか?」
一歩、踏み込む。
「あんたと私の宝物やないんか?」
剛三が何か言おうとする。
恵は手でそれを制した。
「…ちょっと待っとれ」
そのまま台所へ向かう。
足音は静かだった。
だが、一切迷いが無かった。
剛三は動けない。
時間だけが過ぎる。
秒針の音。
冷蔵庫のモーター音。
外を走る車の音。
三分ほどだった。
だが、永遠のように長かった。
やがて恵が戻ってきた。
右手に包丁。
左手に、一枚の紙。
すっと食卓へ置く。
剛三は札束の横に置かれた紙面を見た。
離婚届だった。
剛三の呼吸が止まる。
次の瞬間。
鈍い音。
恵が、包丁を突き立てた。
静かな動作だった。
刃は離婚届を貫き、そのまま食卓へ深々と刺さっていた。
柄が微かに震えている。
恵は静かに言った。
「私はな」
その目は、一切揺れていなかった。
「あの子守るためにやれって言われたら、これ首に突き立てる覚悟がある」
包丁へ視線を落とす。
「あんたはできるか?」
剛三は息を呑む。
「できへんねやったら」
恵は、離婚届を指差した。
「今すぐ名前書いて出て行け」
静かだった。
「あの子は私が守る」
剛三の胸へ、何かが突き刺さった。
剛三は、突き立てられた包丁を見た。
食卓へ深々と刺さっている。
木目へ、包丁の切っ先が深く食い込んでいた。
恵は微動だにしない。
だが、その目だけが剛三を射抜いていた。
剛三は唇を震わせる。
喉が鳴る。
言葉が出ない。
だが、胸の奥では別の感情が膨れ上がっていた。
そうだ。
何を迷っていた。
遼太郎は、自分の息子だ。
初めて抱いた日のことを思い出す。
小さかった。
泣き声がでかかった。
夜泣きも酷かった。
ミルクを吐いて、熱を出して、転んで膝を擦りむいて。
その度に慌てて。
笑って。
怒って。
そうやって育ててきた。
その全部が、こんな紙の束で消えるのか。
違う。
剛三は、震える手を伸ばした。
包丁の柄を握る。
だが、びくともしない。
恵が本気で突き刺したのだ。
武道家の膂力だった。
「っ……!」
剛三は歯を食いしばる。
そして、柄だけではなく刃の方へも手を添えた。
刃に手を添えた瞬間、掌が浅く裂けた。
ぬるりとした感触。
赤い血が、銀色の刃を伝った。
恵の眉が、僅かに動く。
剛三は構わなかった。
力任せに引き抜く。
食卓が軋む。
次の瞬間。
――ガッ。
包丁が抜けた。
勢い余って後ろへよろけそうになる。
掌は裂け、指の隙間から血が滴っていた。
ぽたり。
ぽたり。
食卓へ赤い染みが落ちる。
剛三は荒い呼吸のまま、包丁を静かに置いた。
それから、離婚届を手に取る。
紙が震えていた。
指の震えか。
呼吸の震えか。
自分でも分からない。
そして、紙を破いた。
さらに破る。
何度も。
何度も。
紙片が、居間へ舞った。
赤く滲んだ離婚届は、まるで桜吹雪のように畳へ落ちていく。
剛三は、しばらく黙ったままだった。
外では風が鳴っている。
春の夜風だった。
やがて剛三は、小さく息を吐いた。
「…取り乱した」
声は掠れていた。
「もう迷わん」
血まみれの手を開く。
うっすら裂けた掌が痛む。
「あの子は、俺たちの子や」
剛三は、恵を見た。
「命ある限り守る」
そして、自分の掌を見下ろす。
「この傷は…俺のけじめや」
沈黙。
恵は、ふっと笑った。
「…よう言うた」
その声には怒気は入っていなかった。
「それでこそ、見込んだ男や」
恵は剛三へ歩み寄る。
そして、血だらけの手を取った。
温かかった。
そのまま、自分の頬へ当てる。
小麦色の肌が血に染まる。
剛三は、呆然とその顔を見ていた。
まるで戦へ赴く前の戦化粧に見えた。
この女には敵わない。
昔からそうだった。
遼太郎を産む時も。
金が無くて苦しかった時も。
自分が仕事で潰れかけた時も。
最後に腹を括るのは、いつも恵だった。
剛三は、不意に笑ってしまった。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔だった。
「…怖い女やで、ほんま」
「今さら知ったんか」
恵は鼻で笑った。
その瞬間だった。
廊下の向こうから、小さな寝言が聞こえた。
「…うま…」
二人が同時に黙る。
そして、顔を見合わせた。
数秒後。
どちらともなく吹き出した。
緊張が切れたような笑いだった。
居間には、破られた離婚届が散らばっている。
血の匂い。
包丁。
札束。
異様な光景だった。
だが、その中心で二人は、ようやく同じ方向を向くことができていた。
翌朝。
春の日差しが、薄いカーテン越しに差し込んでいた。
食卓では、味噌汁の湯気が立っている。
遼太郎は眠そうな顔で席へ着いた。
そして、固まる。
「…え?」
父の左手へ、ぐるぐると包帯が巻かれていた。
父がこんな怪我したことあったか?
無かった。
少なくとも覚えていない。
遼太郎は一瞬だけ警戒する。
父は、困ったように笑った。
「昨日な。100万……いや、1000万か」
まだ自分でも慣れていないらしい。
言い直していた。
「それ考えながら洗いもんしとったら、包丁でざっくりやってもうてな」
母が即座に笑う。
「お父ちゃん、ほんまドジやろー?」
「うるさいわ」
「血ぃ見た瞬間、情けない声出しとったもんなぁ」
「言うなや!」
二人が笑う。
自然だった。
いつも通りに見えた。
しかし、遼太郎は気づかなかった。
二人の目。
何かを決めた目。
腹を括った人間の目であったことを。




