第十四節
5月3日。
正午過ぎの奈良公園は、連休の人波で賑わっていた。
空は薄く霞んでいる。
春とも初夏ともつかない柔らかな陽気だった。
陽射しは強いが、風はまだ乾いている。
若草山から吹き下ろしてくる風には、土と若葉の匂いが混ざっていた。
鹿が歩いている。
観光客の間を、当然のような顔で横切っていく。
せんべいを持っている人間を見つけると寄っていき、持っていないと分かると興味を失ったように離れていく。
遼太郎は、その様子をぼんやり眺めていた。
ゴールデンウィークの観光。
ただの家族旅行だった。
この二週間ほど、家の空気はずっと落ち着かなかった。
皐月賞。
あの2万円が、1000万円へ変わった日からだ。
無理もない。
いきなりの大金だった。
その日以来、遼太郎が床に就くと、両親が居間で話し込む声が聞こえるようになった。
どこへ預けるか。
銀行。
利息。
親戚へ知られたらどうするか。
時折、父の声が大きくなる。
その後に母の低い声が続き、やがて静かになる。
遼太郎は、布団の中で天井を見ながらそれを聞いていた。
1000万円など現実感の無い数字だった。
だが、この時代では違う。
人生が変わる金額。
その重みを、両親はまともに受け止めていた。
数日前の夕食だった。
妙に静かな食卓だった。
焼き鯖。
ほうれん草のおひたし。
味噌汁。
テレビは点いていたが、誰も見ていなかった。
不意に、父が口を開いた。
『なぁ遼』
穏やかな声だった。
『何か欲しいもんとか、したいこととかあるか?』
母も、黙ったままこちらを見ていた。
笑っている。
だが、目は笑っていなかった。
お前は、その力で何がしたいんだ。
そう聞かれている気がした。
遼太郎は箸を止めた。
最近の自分は、目立ち過ぎた。
精神年齢を隠しきれていない瞬間が増えている。
だからといって、ここから急に幼児らしい我儘を言えば、それはそれで不自然だった。
沈黙が流れる。
味噌汁の湯気だけが静かに揺れていた。
遼太郎は、しばらく考えた。
それから、不意に顔を上げる。
『…おかね、ふやしたい』
父と母が、一瞬だけ固まった。
『おかね?』
『うん』
遼太郎は、なるべく幼い口調を崩さないように言葉を続けた。
『おかねいっぱいあったら、おとんもしんどいおしごとしなくていいもん』
父の表情が止まる。
『おかんも、つかれへんもん』
母の睫毛が、小さく震えた。
『みんな、ずっといっしょにおれるもん』
口調は幼い。
だが、遼太郎は視線だけは逸らさなかった。
不気味でもいい。
普通じゃなくてもいい。
でも、これだけは信じてほしい。
自分は、家族を壊したいわけじゃない。
守りたいだけだ。
母が、ふいに目元を押さえた。
父も、黙って鼻をすすっている。
しばらく、誰も喋らなかった。
やがて父が、静かに息を吐く。
『…分かった』
その顔は、不思議と晴れていた。
『お金増やすんは任せる』
遼太郎は瞬きをする。
『ただな』
父が苦笑した。
『税金とか、手続きとか分かるんか?』
『てつづき?』
『銀行とか、申告とかや』
『…わかんない』
半分は本当だった。
未来の知識はある。
だが、制度の細部まで理解しているわけではない。
父は小さく頷いた。
『そーいう面倒なんは、俺らがやる。任せとけ!』
遼太郎は、そこでようやく笑えた。
母も、泣きながら笑っていた。
あの時。
ようやく、三人で同じ方向を向けた気がした。
風が吹く。
鹿の耳が揺れた。
遠くで、修学旅行生らしい集団の笑い声が響いている。
父は、鹿せんべいを買いに行っていた。
その背中を見送りながら、遼太郎は再び考える。
1000万。
正確には、1035万8000円。
そこから税金を引かれる。
父の年収目安から税額をざっくりと割り出す。
来年の確定申告後、手元に残るのは880万ほどだった。
高すぎる。
何が所得税だ。
遼太郎は内心で毒づいた。
いかん、いかん。
怒っても仕方ない。
目標は5000万。
そこへ届かせるには、まだ足りない。
やはり、もう一発必要だ。
菊花賞。
それで終わりにする。
競馬を続け過ぎれば、周囲も確実に怪しむ。
父よ、すまない。
競馬デビューした息子は、即引退だ。
遼太郎は、少しだけ笑った。
その後は…株だ。
伸びると知っている企業へ投資しておけば、時間が勝手に金を増やしてくれる。
そうすれば、もう金のことを考えなくて済む。
普通に生きられる。
その時だった。
――それでいいの?
ふと、声が聞こえた気がした。
遼太郎は顔を上げる。
周囲を見回した。
鹿。
観光客。
写真を撮るカップル。
鹿へ追い回されて泣いている子供。
そして、鹿。
じっとこちらを見ていた。
「……お前か?」
当然、鹿は答えない。
のそり、と首を動かしただけだった。
遼太郎は小さく息を吐く。
疲れているのかもしれない。
金はすぐ動かせるようにしておく。
投資先は菊花賞が終わってから、改めて考えればいいさ。
その時だった。
「おーい遼ー!」
遠くから父の声がした。
振り向く。
父が走ってきていた。
両手いっぱいの鹿せんべい。
そして、その後ろ。
鹿。
鹿。
鹿。
十頭近い群れが、父を追跡していた。
「うわっ、ちょ、待て待て待て!」
父が半笑いで逃げている。
鹿が服を引っ張る。
さらに増える。
母が腹を抱えて笑っていた。
遼太郎も、思わず吹き出した。
春の風が吹き抜ける。
薄く霞んだ空まで、明るく見えた。
春編は終了です。次節より夏編です。




