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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
16/58

第十五節

 6月22日。日曜日。

 朝から空が高かった。

 梅雨の只中だというのに、東の空には青みが残っている。

 薄い雲が山沿いへ流れ、湿った風だけが大阪平野へ降りてきていた。

 居間のテレビでは、爆発音が鳴り響いていた。

『地球の未来は俺たちが守る!』

 赤い戦士が剣を構える。

 火薬の煙。

 飛び散る火花。

 安っぽい特撮だった。

 合成も甘く、着ぐるみも丸分かりだ。

 それでも遼太郎は、真剣な顔で画面を見ていた。

 懐かしかった。

 よく見ていたニチアサだった。

 画面の中で、青い戦士が敵へ飛び蹴りを放つ。

 遼太郎は、小さく笑った。

「…頑張れ。負けるな!」

 その声はどこか嬉しそうだった。


 特撮番組を見終わるとチャンネルをニュースへ切り替える。

 香港返還。

 景気低迷。

 不良債権。

 銀行再編。

 公的資金。

 キャスターが難しい言葉を並べていく。

 遼太郎は棚から電子辞書を取り出して開く。

 小さな指でボタンを押していく。

「…公的資金」

 検索。

 液晶画面へ説明文が並んだ。

 広辞苑、百科事典、英和辞典、和英辞典が収められた多機能電子辞書。

 子供向けではなかった。

 最近、両親が買ってくれたものだ。

 10万円は下らない。

 普通の家庭なら、子供へ買い与える値段ではない。

 家には税金で削られるとはいえ、1000万円近い金がある。

 もっと別の使い道もあったはずだった。

 車を変えるとか。

 旅行へ行くとか。

 家電を新調するとか。

 だが、両親はそうしなかった。

 家の空気は、いつの間にか決まっていた。

 ――この金は、遼太郎が本懐を成すための金だ。

 だからこそ、電子辞書だった。

 学歴も、教養も、自分達には大したものがない。

 自分達では教えられない。

 なら、せめて知識へ繋がる道具だけでも与えよう。

 そんな、不器用な親心だった。

 遼太郎は、そのことを何となく察していた。

「…ありがたい話やで、ほんま」

 小さく呟く。

 分かっていなかった言葉の意味を知れて、満足げに電子辞書を閉じる。

 知らない単語は山ほどあった。

 三十四年生きても、人間は案外物を知らない。

 むしろ歳を取るほど、自分の無知さに気付かされる。

 こうやって学び直せるのは良いことだ。

 それに…電子辞書があれば難しい言葉を知っていても、不自然になりにくい。

 電子辞書を棚へ戻す。

 丁寧に。

 壊したくなかった。


 その時、台所から母の声が飛んだ。

「遼ちゃんー。そろそろ着替えや」

「はーい」

 遼太郎は立ち上がる。


 先日の会話を思い出す。

『剣道やりたい』

 そう言った時、洗濯物を畳んでいた母はしばらく黙っていた。

 それから、静かに目を閉じる。

『…やるんはええよ』

 短い沈黙。

『けどな』

 目を開いた瞬間、空気が変わった。

『道場の中じゃ、私は優しくできへんよ? ええの?』

 低い声だった。

 遼太郎は知っている。

 だからやらなかった。

 昔、父と一緒に試合見学へ行った時の母。

 鬼の顔をしていた。

 竹刀を振る音が怖かった。

 踏み込みだけで空気が震えていた。

 だから避けた。

 だけど…病床の母が、一度だけ零した言葉を覚えている。

『…一緒にやりたかったな』

 あの時の声は、弱かった。

『だいじょうぶ!』

 遼太郎は笑った。

『やる!』

 母は数秒、息子を見つめていた。

『…ほな泣いても知らんで』

 ふっと笑った。


 遼太郎は道着へ着替えた。

 帯を締める。

 気持ちが引き締まる。

 親孝行できる。

 身体も鍛えられる。

 護身術にもなる。

 一石三鳥や。

 そう思いながら玄関へ向かう。

 道着姿の母が竹刀袋と道具袋を軽々と抱えて立っていた。

 遼太郎は、一瞬だけ視線を止める。

 派手な茶髪。

 耳元には小さなピアス穴の跡。

 街を歩けば、気の強そうな姉ちゃんにしか見えない。

 だが、妙な圧がある。

「ほな行こか」

 遼太郎は無言で手を伸ばす。

 母が、その手を握った。


 六月の風は、生ぬるい。

 住宅街には、まだ休日の静けさが残っていた。

 洗濯物が揺れている。

 遠くで原付の音。

 パン屋から甘い匂いが流れてくる。

 歩きながら、母が口を開いた。

「遼太郎」

「んー?」

 ちゃん付けじゃない。珍しい。

「道場では、お母ちゃんは直接教えへんからな」

 遼太郎は顔を上げる。

「え?」

「門下生の子らに任せる」

 間が開いた。

「ごめんなぁ」

 母は前を向いたまま言う。

「身内やからって、手心加えたらあかん世界やねん。仮にも先生やし」

 風が吹く。

 茶髪が揺れた。

「お母ちゃんが直で教えたら、剣道嫌になるかもしれへんしな」

 五歳児相手に容赦する気ないのか、この人。

 内心で引いた。

 しかし、母はどこか嬉しそうだった。

 息子と同じ場所へ立てることが、単純に嬉しいのかもしれない。

 坂道が見えてくる。

 高台。

 長い石段。 

 二人は石段を上がり切る。

 境内へ出た瞬間、風が抜けた。

 見晴らしが良い。

 振り返ると東大阪の街並みが遠くまで見える。

 小山の上に八城神社はあった。

 派手さはない。

 参拝客を集めるための神社というより、土地の人間が静かに守ってきた氏神だった。

 急な石段の脇には古い灯籠。

 苔。木々。

 鳥居は長年の風雨で色が褪せ、木肌が黒ずんでいた。

 境内には、小さな稲荷社や石碑が点在している。

 剣を祀る神社らしく、奉納された木刀や古びた額も見えた。

 境内には既に熱気があった。

 音が聞こえる。

 踏み込みの音、鋭い気合の声。

 朝の湿った空気を裂くような声だった。

 遼太郎は思わず足を止める。

「…もう始まってる」

「準備運動やな」

 母は平然としていた。

 九時半。

 まだ開始三十分前だ。

 境内の片隅にある木造の道場。

 中では雑巾がけ。

 素振り。

 走り込みと門下生達が汗を流している。


「先生、おはようございます!」

 不意に横から声が飛ぶ。

 遼太郎はそちらを見る。

 一人の道着姿の青年が立っていた。

 背は高く細身。

 だが、芯がある。

 竹みたいな身体だった。

 顔つきは細目。

 ちょうど境内の稲荷像のような印象を受けた。

 にこやかだ。

 だが、目だけが読めない。

 感情を隠している目だった。


 遼太郎が怪訝な顔をしていると、母の声質が変わる。

「おはよう。富田。精が出るな」

 低かった。

 母親の声ではない。

 指導者の声だった。

 空気が締まる。

 富田と呼ばれた青年は笑う。

「いやぁ、走り込みが足りなくて館長にドヤされるのは嫌なので」

「ならもっと腰落とせ」

「朝から厳しいなぁ…」

 軽口。

 だが、姿勢は崩れない。


 妖しい容姿。

 遼太郎は値踏みしてみた。

 あのカフェで“化け物”に出会ってから滅多に使わなくなった力。

 …有能。

 かなり。

 そして、芯が強い。

 少なくとも、危ない側の人間ではない。

 人は見かけによらないな。


 富田が、ふと遼太郎を見る。

「お、その子が以前話されてた“若”ですか」

「わか?」

 遼太郎は首を傾げる。

 富田は屈んで目線を合わせる。

「先生のお子さんですからね。若君で若ですよ」

「その呼び方なんとかならないか?」

 母が呆れたように言う。

「もう館長含めて皆呼んでますし、無理ですよ」

 富田はケラケラ笑った。

 母は深いため息を吐く。

「…神谷は来てる?」

 その瞬間、富田の笑みが少しだけ強張る。

「ええ。来てますよ」

 道場へ顎を向けた。

「今、雑巾がけしてます。――神谷ー!」

 富田が呼びかけて束の間、引き戸が開く。

 一人の道着姿の少女が出てきた。

 黒髪でボーイッシュな雰囲気。

 肌は浅黒い。

 日焼けとは違う、もともとの色のように見えた。

 整った顔立ちにも、どこか日本人離れした線がある。

 美人だった。

 だが、目が鋭い。


 女は雑巾を片手にピタッと立ち止まる。

 無駄な動きがない。

 母を一瞥し一礼する。ほぼ最敬礼だ。

 そして、遼太郎を見た。

 いや、()()()()()

 その瞬間、ぞわり、とした。

 遼太郎は無意識に背筋を伸ばす。

 思わず値踏みしてみる。

 あれは警戒の類の目ではない。

 もっと直接的な感情だった。

 敵意。

 五歳になってから初めて向けられる視線だった。

 風が、急に冷たく感じられた。

夏編始まりました。

因みに本作は物語に大きく関与する組織地名等はできる限り架空としています。

ですので八城神社は架空です。

但し、架空と言ってもモチーフは有ります。

興味のある方は「石切劔箭神社 上之社」と検索してみてください。

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