第十六節
心当たりは、なかった。
遼太郎は女の視線を真正面から受けながら、内心で首を捻っていた。
あんな露骨な敵意を向けられる覚えはない。
あの女と接点があった記憶は無かった。
――俺、なんかやっちゃいました?
思わず聞きそうになる。
だが、やめた。
聞いたところで答える顔ではない。
神谷は雑巾を片手に、こちらへ歩いてくる。
睨みつけるような視線。
空気が冷たい。
逃げたら終わりだ、と遼太郎は思った。
舐められたら終わり。
子供社会でも、大人社会でも、それは変わらない。
怯んだ側から立場が決まる。
遼太郎は精いっぱいの抵抗として、口をへの字に曲げ、片目をつむり、べっと舌を出す。
五歳児に許された最大限の対抗だった。
神谷の足が一瞬止まる。
眉が寄った。
次いで、鼻で笑うような息。
冷笑だった。
冷笑でもいい、笑わせた。勝ちだ。
遼太郎は内心で小さく拳を握った。
そんな遼太郎を差し置いて神谷は視線を母に移す。
空気が変わる。
「先生、おはようございます。本日もご指導のほど、よろしくお願いいたします」
そして、一礼。
言い淀みはない。明るい声だった。
先ほどまでの態度が嘘のようだった。
一礼も深い。
綺麗な礼だった。
身体へ礼儀が染み付いている。
「神谷、掃除は終わったか」
母が訊く。
ぎこちない声だった。
「ええ!」
神谷はぱっと顔を明るくした。
「綺麗に磨き上げておきました!」
声まで弾んでいる。
先ほど自分へ向けられていた冷気との差が激しすぎて、遼太郎は風邪をひきそうになった。
「ありがとう…」
母は微妙に視線を逸らした。
珍しい。
母が相手の勢いに押されている。
母は小さく咳払いする。
「この子なんだけど…」
一瞬だった。
神谷の目が、再び鋭く遼太郎へ向く。
刃物のような視線。
だが、次の瞬間にはまた笑顔へ戻っていた。
「存じ上げてますよ! 遼太郎様ですよね!」
ジトリ。笑顔のまま睨まれた。
「以前、お見かけしたことがありますから!」
目が笑ってない。
母の眉が、わずかに動いた。
「そう…前にも言った通り、これからは富田と一緒に、ここでの遼太郎の指導と世話をお願いね」
遼太郎はぎょっとした。
富田はいい。
問題はもう片方だ。
この女も俺の世話役?
冗談が過ぎる。
思わず神谷を見上げる。
神谷は無表情だった。
だが、すぐに営業用の笑顔へ戻る。
「お任せください」
声だけは明るかった。
下駄箱で富田が声をかけてくる。
屈んで目線も合わせてくれる。
「改めて、こんにちは若」
にこやかな声。
「僕は富田 保治です。二年くらい前から、ここにいます」
近くで見ると、背筋が真っ直ぐだった。
立ち方に無駄がない。
「大阪の人やないの?」
さっきからイントネーションが気になっていた。
「実家は東京なんですよ」
「とうきょう」
遼太郎は反復する。
富田は笑う。
「高校進学でこっちに来まして。一人暮らしです」
「こうこうせい!?ひとり!?」
思わず声を上げた。
その落ち着きぶりから、二十代後半くらいだと思っていた。
見事に打ち砕かれた。
「そうですよ」
五歳児相手でも、富田の態度は変わらない。
「どこの学校なん?」
何気なく聞いてみた。
返ってきた高校名に、遼太郎は驚いた。
大阪でも有名な進学校だった。
「……頭いいんやね」
素直に言うと、富田は苦笑を浮かべながら、かぶりをふる。
「いやぁ学校が良いだけで、僕なんか何やっても落ちこぼれですよ」
自嘲気味なその言い方は、妙に慣れているようだった。
本当に何度もそう言ってきた人間の声だった。
いたたまれなくなって、思わず道場内へ視線を向ける。
神谷が黙々と動いていた。
子供用の竹刀。
手拭い。
道具。
準備を手際よく進めていた。
動きに無駄がない。
だが圧がある。
遼太郎は小声で富田へ聞いた。
「…あの人、なんなん?」
「神谷?」
「うん」
富田は神谷をちらりと見る。
「神谷 栞。僕と同じ高三です。道場では僕より先輩です。」
さらに声を潜める。
「肌の色は、お父さんが外国の人らしいです。」
「へぇ」
「この辺の話題はいつもの三倍くらい不機嫌になるのでお勧めしません」
富田は苦笑する。
遼太郎は身震いする。
あの視線の3倍。
お目にかかりたくないものだ。
「あと、子供が苦手なところがあるみたいです。」
だろうな。五歳児に向ける目つきじゃなかった。
「なんで?」
「さぁ…」
富田は曖昧に笑った。
「神谷姉ちゃんの事、詳しいの?」
気になっていたことを聞いてみる。
「一緒の学校ではないので、そこまで詳しくはないです。ただ、コンビニ前で一緒に集まる仲間なので何だかんだ話しますよ」
「なんでコンビニ?」
遼太郎が素直に聞く。
ヤンキーみたいなものか。
富田は黙った。
「…行く場所、居場所が無いからですかね」
静かな声だった。
冗談っぽさが消えていた。
その時だった。
「富田」
氷のような声。
二人が同時に振り向く。
神谷が立っていた。
笑っていない。
「おしゃべりしてないで手伝いなさい?」
次に遼太郎を見る。
「遼太郎様も。早くしてください」
遼太郎は反射的に背筋を伸ばした。
「…はい」
何故か会社員時代を思い出した。
十時。
門下生達が集まり始める。
今日の参加者は二十人弱。
遼太郎達以外は全員成人だった。
神社の関係者、会社員、主婦、老人、警察関係らしい男もいる。
年齢も職業もばらばらだった。
全員が整列する。
湿った畳の匂い。
古い木の匂い。
外から吹き込む風が、道場の板戸を微かに揺らしていた。
館長――白髪の宮司が前へ立つ。
正座からの黙想。
静寂。
誰も喋らない。
空気が張る。
遼太郎も見よう見まねで目を閉じた。
竹の匂い。
汗の匂い。
嫌ではなかった。
黙想が終わる。
稽古が始まった。
富田は丁寧だった。
「そうそう。足はこう」
「竹刀は握り込みすぎないように」
「若、肩に力入ってますよー」
教え方が上手い。
子供慣れしている。
一方。
「遼太郎様、ちゃんと見てました?」
「腕だけで振らないでください」
「気合が足りません」
教え方自体は悪くない。
「先生のお子さんなのですから、もっとしっかりしてください」
「今の、先生なら怒ってますよ」
神谷は一言多かった。
ああ、これ。
記憶が蘇る。
仕事はできるが圧が強い先輩。
理屈は正しい。
胃が疲れるタイプだ。
稽古が終わる頃には、遼太郎は軽くぐったりしていた。
だが。
「若ー!」
「初日やのに、頑張ったなぁ!」
「えらいえらい!」
他の門下生達が優しかった。
頭を撫でられたり抱きかかえられたり、皆子供か孫が一人増えたような空気感だった。
「おい、若」
館長が手招きする。
遼太郎が近付くと、懐から飴玉を出した。ちょっと高価な飴玉だ。
「内緒やぞ」
館長は白い口髭の前に指を立てて秘密のサインをする。
遼太郎は目を輝かせた。
「ありがとう!」
館長は満足そうに頷く。
そんな様子を見ていた母が、小さく笑った。
まんざらでもなさそうだった。
その笑みを、神谷が物陰からじっと見つめていた。
誰も、それに気づかなかった。
実験的に明日より土日の最新話の投稿時刻を朝5時半にしてみます。(17時半の投稿はございませんのでご注意ください。)




