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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
18/59

第十七節

 7月21日。

 夏休み初日の朝は、静かだった。

 蝉だけが騒がしい。

 まだ朝だというのに、空気はもう熱を含み始めていた。

 湿った風が住宅街の路地を抜け、電柱の影をゆっくり揺らしている。


 ここ一か月で遼太郎の生活は、すっかり形になっていた。

 平日は幼稚園。

 日曜日は剣道。

 朝起きて、朝食を摂る。

 竹刀を振るか、幼稚園へ行く。

 帰って風呂に入り、遊び、勉強し、夕食を食べて寝る。

 三十四歳の爛れた生活に比べれば、理想的な生活だった。


 遼太郎は、朝食もそこそこに、いそいそと道着に着替え始める。

 数日前の夕食時。

 母が味噌汁を啜りながら言った。

『夏休み中は道場、朝から開けとるで』

 父が新聞から目だけ上げる。

『神社の人おる日は自由練習できるんやったか』

『せや。門下生なら好きに使える』

 母はそこで遼太郎を見る。

『遼ちゃんはどうする?私は当番で毎朝行くけど』

 少し考えた。

 夏休み。

 昔なら惰眠を貪っていた。

 だが、今は五歳児だ。

 身体は軽いし、朝起きるのも苦ではない。

『いく!』

『毎朝やで?』

『ラジオ体操みたいなもんや!』

 そう言うと、父が吹き出した。

『お前、爺くさいこと言うなぁ』

『ええやん。健康的やん』

 母は笑いながらも、どこか嬉しそうだった。


 自宅を出て道場に向かう。

 隣には母がいる。

 竹刀袋を肩へ担ぎ、歩幅を合わせて歩いていた。

 朝の住宅街には、まだ寝ぼけた空気が残っている。

 どこかの家から麦茶を沸かす匂いが流れてきた。

 その途中だった。

 ある家の前に、小さな影が立っていた。

 遼太郎は足を止める。

「…アヤカ?」

 少女は顔を上げた。

 麦わら帽子。

 薄い黄色のワンピース。

 服装と対照的に、その表情は沈んでいた。

「どうしたのー?」

 遼太郎は駆け寄る。

 アヤカは気まずそうに笑った。

「おでかけ、するはずやってん」

「うん」

「でも、お父さんとお母さん、ケンカしちゃって……」

 そこで言葉が止まる。

 家の中から、何かがぶつかる音が微かに聞こえた。

 怒鳴る声も混じっている。

 遼太郎は黙った。

 記憶が疼く。

 子供は、親の不仲に敏感だ。

「…夏休み始まったばっかりやん」

 遼太郎は努めて明るく言った。

「今日あかんでも、また行けるって」

 アヤカは目を細めた。

「…うん…ありがとうね」

 その笑顔は薄かった。

 遼太郎は胸がざわついた。

 子供がする笑い方ではなかった。

 諦める時の顔だった。

 見かねた母が後ろから、静かに声をかける。

「遼太郎、行くで」

 遼太郎はアヤカへ手を振る。

 アヤカも小さく振り返した。

 その姿は普段よりも小さく見えた。


 母子の間には会話が無くなっていた。

 自分たちの事ではないのに気が重かった。

 神社前の交差点に差しかかった時だった。

 黒塗りの高級車が、歩道へ半分乗り上げる形で停まっていた。

 大型セダン。

 まだバブルの匂いを引きずった車だった。

 運転手らしい男が、少し離れた場所でPHSを耳へ当てている。

 母が露骨に眉をしかめた。

「…邪魔やな」

 舌打ちが混じる。

 すると、後部座席の窓がゆっくり下がった。

「遼ちゃーん!」

 明るい声。

 エリだった。

 遼太郎は目を瞬かせる。

「おお」

 エリは上機嫌だった。

 髪にはリボン。

 服も新しい。

「これから温泉いくねん!」

「おんせん!」

「うん!でもお父さん、お仕事の電話ー」

 そう言って頬を膨らませる。

 車内は冷房が効いているのだろう。

 白い腕がひんやりして見えた。

「おみやげ何がええ?」

 エリは嬉しそうに尋ねる。

「えー」

 遼太郎は少し考える。

「まんじゅう!」

「おじいちゃんみたい!」

 エリが笑った。

 その時だった。

 PHSを持った男が戻ってくる。

 エリの父親だった。

 高そうな時計。

 糊の効いたシャツ。

 人を見下すことに慣れた眼。

 会釈はした。

 だが、それだけだった。

 口元だけが、薄く歪んでいた。

 そこに人を見る温度はなかった。

 車が静かに発進する。

 窓からエリが身を乗り出し、ぶんぶん手を振っていた。

「またねー!」

「おー」

 車はそのまま坂を下っていった。

 排気ガスだけが残っていた。


 母はしばらく無言だった。

 やがて、小さく息を吐く。

「…親も色々やな」

 それだけ言った。

 横顔が硬かった。

 アヤカの家。

 エリの家。

 二家を見て、何か思うところがあったのだろう。

 母は遼太郎の手を握り直す。

 無意識に指へ力を込めていた。


 八城神社へ着く頃には、蝉の声はさらに大きくなっていた。

 境内は夏の匂いが漂っていた。

 熱を持ち始めた石段。

 青葉。

 湿った土。

 遠くで風鈴が鳴っている。

 道場では、既に二人が準備していた。

「おはようございます」

 富田が頭を下げる。

 神谷も一礼した。

「先生、おはようございます」

 相変わらず、母への態度だけは妙に柔らかい。

 母は二人を見る。

「二人とも、今年受験ではないのか?」

 道中の駅前では、既に予備校の夏期講習の広告が並んでいた。

 高校三年の夏など、本来は竹刀を振るより参考書を読み漁る時期だ。

「そうですねぇ」

 富田が苦笑する。

「勉強は大丈夫か?」

「まぁ、ぼちぼちです」

 神谷は黙って雑巾を絞っていた。

 母は眉を寄せる。

「大学は行けるなら行っておいた方が良い」

 道場では珍しく優しげな声だった。

「私は体動かすことばっかりやってきたからな。今になって困る事も多い」

 自嘲気味に笑う。

「遼太郎に言葉聞かれても、わからへん時あるし」

 素の母が出ていた。

「先生は十分凄いと思いますけど…」

 富田が言う。

 母は首を振った。

「選べる道は、多い方が良い」

 神谷が、ほんの少しだけ目を伏せた。

 二人とも、結局は苦笑いするだけだった。

 答えに困った笑いだった。


 稽古が始まる。

 夏の道場は暑い。

 窓を開けても風はぬるく、汗がすぐ浮いてくる。

 それでも竹刀の音だけは澄んでいた。

 この一か月で、遼太郎と富田はかなり打ち解けていた。

 最初は、あの細い目が読めなかった。

 笑っているのか。

 怒っているのか。

 本心なのか。

 だが、観察しているうちに分かってきた。

 富田は真っ直ぐな男だった。

 目つきと笑って誤魔化す癖のせいで、何を考えているのか分からないと勘違いされやすかった。

 不器用な男だ。


 休憩中。

 遼太郎は水筒の麦茶を飲みながら、何気なく聞いた。

「富田兄ちゃん、夏休み帰らへんの?」

 一瞬だった。

 富田の笑みが、止まる。

「…あー」

 誤魔化すように頭を掻いた。

「近々帰ろうと思っていますけど未定ですね。新幹線代も高いし」

 笑っている。

 だが、空気が沈んだ。

 遼太郎はすぐに気づいた。

「あ、ごめん」

 すかさず謝る。

「え?」

「聞いたらあかんやつやったかも」

 申し訳なさそうに遼太郎は頭を下げる。

 富田は目を丸くする。

 数秒。

 それから突然、吹き出した。

「はは…っ」

 肩を震わせて笑う。

「いや、びっくりしました」

「?」

「親でも、僕の機嫌なんか気にしませんよ」

 笑いながら言う。

「若は気にしてくれるのですねぇ」

 言葉を止める。

 嬉しいなぁと言いかけたようだった。

 富田は少しだけ遠くを見る。

 横顔は、その時だけ年相応だった。

 十八歳の顔だった。


 昼前。

 稽古が終わる。

 今日は館長が不在だった。

 館長不在の日の訓示は、当番の指導陣が代行する決まりだった。

 今日の当番は母だった。

 門下生達が整列する。

 汗の匂い。

 夏の熱気。

 開け放たれた道場の向こうで、蝉が鳴いていた。

 母が口を開く。

「夏休みに入りました。」

 低い声だった。

「夏休みは、子供だけで夜に出歩くことが増えます。川、駅前、コンビニ前。見かけたら、一声かけてください。」

 門下生達を見渡す。

 警察関係と思わしき門下生がうんうんと頷いている。

「そして子供達は、ちゃんと門限までに帰るようにしてください」

 少しの間が空く。

「親御さんが心配されますから」

 その時だった。

「…そんなの、居ませんよ」

 ぽつり。

 小さい声だった。

 だが、静かな道場にははっきり響いた。

 空気が止まる。

 全員の視線が神谷へ向いた。

 神谷は言ってから気づいた顔をした。

「あ…」

 沈黙。

 蝉の声だけが外で鳴いている。

 神谷は俯いた。

「…大変申し訳ございません」

 それだけ言うと、誰とも目を合わせないまま、道場を出て行ってしまった。

 開いた板戸が、ぎぃ、と鈍い音を立てる。

 蝉の声だけが、やけに遠く聞こえた。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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