第十八節
7月28日。
日付が変わる前だった。
コンビニの白い灯りだけが、夜の住宅街へ平たく滲んでいる。
昼間の熱はまだアスファルトの下へ残っていた。
蝉は鳴き止んでいたが、その代わりに室外機の低い唸りが夜気へ溶けている。
富田 保治は、駐車スペースの縁石へ腰掛けていた。
コンビニ前。
いつもの場所だった。
普段なら誰かいる。
煙草を吸う不良。
行き場を失った高校生。
家出少女。
水商売帰りの女。
意味もなくバイクを吹かす若者。
誰かが何かから逃げて、ここにいる。
ここに逃げても別に救われるわけではない。
それでも集まってしまう。
そんな場所だった。
今日は誰もいない。
保治だけだった。
手には缶コーヒー。
ぬるくなっていた。
おもむろにポケットから煙草を取り出した。
ライターで火を点ける。
先端が赤く燃えた。
保治はぎこちなく煙を吸い込む。
「っ……ごほっ」
途端に咳き込んだ。
喉が焼ける。
肺が拒否する。
結局、すぐに火を消した。
「…やっぱり向いてませんねぇ」
吸い殻入れに放り込みながら苦笑する。
煙草も吸えない。
不良の真似事をしても中途半端だった。
コンビニ前には居る。
夜中まで屯する。
だが結局、自分は彼らとは違う。
だからといって、“家”へ戻れるわけでもなかった。
空を見上げた。
雲が低い。
明日は雨かもしれない。
東京の実家は広かった。
静かで、綺麗で。
冷たかった。
大理石の廊下は磨かれている。
庭師が毎日庭木を整える。
食事は決まった時間に並べられる。
だが、そこには"家族の熱"はなかった。
父親は保治を見ない。
露骨に無視するわけではない。
人として見ていなかった。
義母はひたすら、“存在しないもの”として扱った。
異母兄は分かりやすかった。
愛人の子。
家へ転がり込んできた異物。
しかも、無駄に出来がいい。
目の上のたんこぶ。
そんな態度が透けていた。
保治は、それを理解していた。
だから、何も言わなかった。
使用人だけが優しかった。
時折、廊下の向こうで、使用人達のひそひそ声が聞こえた。
『保治様のお母様、産む時に亡くなったんですって』
『旦那様も困って引き取られたそうよ。愛人の子とは言え、世間体ってのがあるから』
『まぁ…お気の毒に…』
不幸を娯楽と捉えている声。
保治は全部聞いていた。
哀れみ。
優しくされるほど惨めだった。
中学三年の冬。
父親から封筒を渡された。
中には大阪の高校のパンフレット。
有名な進学校だった。
父親は言った。
『大阪へ行け』
それだけだった。
理由など、いくらでも用意できるのだろう。
教育環境、自立心、将来のため。
だが、本当の理由は分かっていた。
東京に置いておくと面倒だからだ。
出来の悪い異母兄の邪魔になるのだ。
保治は何も言わずに受け入れた。
大阪での一人暮らしが始まった。
東大阪市内のワンルーム。
狭かった。
決して高い賃料の部屋ではない。
手切れ金を分割払いにしたような仕送りでは、そこが限界だった。
必要最低限の家具。
テレビもない。
夜になると冷蔵庫のモーター音だけが部屋へ響く。
西日だけが妙に強い部屋だった。
きちんと畳まれた洗濯物だけが生活感を醸し出していた。
誰もいない。
帰っても。
風邪を引いても。
咳をしても。
誰もいない。
自分の中の何かがゆっくり擦り減っていった。
やがて、コンビニ前の連中と顔見知りになった。
最初は絡まれた。
『兄ちゃん、東京モンなん?』
煙草の匂い。
安い香水。
安酒。
保治は物怖じしなかった。
怖さが理解できなかった。
細い目で相手を見る。
笑って受け流す。
必要以上に怒らない。
いつの間にか受け入れられていた。
コンビニ前に屯する常連となっていった。
だが、馴染めはしなかった。
愛人の子。
邪魔者。
真面目にも、不良にも、なりきれない。
毎月、実家から手紙が届く。
電話は来ない。
据え置きの受話器には埃が積もっていた。
手紙は事務的だった。
生活費の明細。
予備校の案内。
模試の日程。
最後に一文。
『家名に泥を塗るな』
手紙は父親本人の字ではない。
秘書の字だった。
曲がりなりにも血のつながった息子に、手紙すら書かない。
届くたびに保治は苦笑して、手紙を机の引き出しにしまう。
封印するように。
八城神社へ足を踏み入れたのは、気まぐれだった。
深夜バイト帰り。
手紙が投函されていた日。
部屋に居たくなかった。
朝風に当たりながら歩いているうちに、神社へ辿り着いていた。
地味な神社だった。
石段を登る。
乾いた音。
空気を裂くような音が聞こえる。
ふらふらと、音のする方へ歩いていく。
近づくにつれ、それが竹刀の音だと分かった。
境内の端の道場。
壁には「剣道教室」と書かれた貼り紙。
保治は、なんとなく中を覗いた。
門下生たちの熱気が流れてくる。
汗。
掛け声。
床を踏む音。
知らない世界だった。
『見学ですか?』
後ろから声がして、振り返る。
茶髪。
剣道着。
日に焼けた肌。
ギャルだった。
だが、コンビニ前の連中とは違った。
同じような見た目なのに、芯に強さがあった。
『…まぁ』
保治が曖昧に答える。
『なら中に入ります?』
女はにこりと笑った。
そんな顔を向けられたのは久しぶりだった。
『初心者ですけど』
『別にいいですよ』
女は下駄箱からスリッパを取り出す。
そのまま、さらりと言った。
『それにしても、お若いのにずいぶんお疲れですね』
保治の動きが止まる。
『…疲れてる?』
『ええ』
女は自然に答えた。
『重い荷物を背負ってる人の顔してます』
心臓を掴まれた気がした。
保治は、目を見開く。
女は静かな声で続ける。
『ここは強くなる場所でもありますけど』
スリッパを揃える。
『荷物を置いていく場所でもあるんです』
竹刀の音が響く。
夏の湿った風が吹き抜ける。
『荷物を置いて、無心で剣を振るんです』
女は微笑んだ。
『振ってる間くらい、そんなもん忘れてしまえば良いのです』
保治は言葉を失った。
荷物を置く場所。
その言葉が頭の中で反芻される。
何度も。
何度も。
その日のうちに、入会届を書いた。
保治は立ち上がる。
空き缶をゴミ箱へ入れた。
誰もいないコンビニ前。
ワンルームの牢獄へ寝に帰る時間だった。
「…早く明日になりませんかねぇ」
ぽつりと呟く。
明日は若に、面と防具の付け方を教えてやらなければならない。
保治は小さく笑い、そのまま夜道を歩き出した。
その足取りは軽かった。
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