第十九節
7月29日。
朝から空は重かった。
雲が低く垂れ込め、山の輪郭が白く霞んでいる。
湿気を含んだ風が神社の杉を揺らすたび、葉擦れの音が湿った空へ吸い込まれていった。
夏休みに入ってからの境内は、平日でもどこか賑やかだった。
境内を遊び場にする子供の声。
蝉。
竹刀の打ち合う音。
だが、その朝だけは空気が違っていた。
神谷が来なくなって、一週間になる。
道場の端。
館長と何人かの古株の門下生、それに母が集まり、小声で話していた。
「…まぁ、気に病んどるんじゃろうなぁ」
館長が白い髭を撫でる。
その隣で腕を組んでいた男が、低く唸るように言った。
「神谷ん家は荒れとるけぇの」
田上だった。
四十代半ば。骨太な身体。日に焼けた顔。
警察関係者らしい鋭い目をしているが、門下生相手には不思議と世話焼きだった。
「ありゃ、ああいう言葉も出るじゃろ」
広島訛りが低く響く。
母は黙っていた。
やがて静かに口を開く。
「今は、待ちましょう」
風が吹く。
道場の板戸が小さく鳴った。
「無理に連れ戻しても意味ないです。帰ってきた時に、ちゃんと迎えてやれば良いのです」
館長は目を細める。
「…西尾先生らしいのう」
母は苦笑した。
「その代わり、帰ってきたら死ぬほどしごきますけど」
田上が吹き出す。
「そりゃ神谷も逃げるわ」
道場に、笑いが戻った。
館長が何か思い出したように、拳で手のひらを軽く叩いた。
「そうじゃ、西尾先生」
「はい?」
「明日なんじゃがな。祭りの実行委員会で、こっちの人手がほとんど取られる」
八月中旬。
八城神社の夏祭り。
毎年、近隣ではかなり大きな催しになる。
「わしも田上さんも、朝から公民館に詰めることになるじゃろう。禰宜や権禰宜も神輿の修理作業にも回る」
「つまり……」
「明日の稽古、仕切ってもらえるかの」
母は頷いた。
「了解です」
「巫女さん一人、社務所に残しとくから、何かあったら頼ってくれ」
「わかりました」
そんな会話を、遼太郎は少し離れた場所で聞いていた。
もっとも、今はそれどころではなかった。
「うぐぐ……」
面紐が結べない。
防具一式は、数日前に館長のお下がりを譲ってもらったものだった。
面の匂いは独特だった。
汗。
革。
湿気。
最初は顔をしかめたが、もう慣れ始めている。
問題は紐だった。
理屈は分かる。
一度回して。
引っ張って。
交差して。
だが、五歳児の丸い指ではうまく締まらない。
腕が回らない。
「…若」
頭上から声。
富田だった。
遼太郎は情けない顔で振り向く。
「むずい」
「見てました」
富田は笑う。
「理屈は理解できてるみたいなんですけどねぇ」
そうだ。頭ではわかっている。
「指が言うこと聞かへん」
「それは仕方ないです」
富田は自然な手つきで紐を整えた。代わりに結び始める。
「練習終わり、少し特訓しましょうか」
「え?」
「結び方です」
遼太郎は一瞬黙る。
正直、悔しかった。
大の大人が、紐一つ満足に結べない。
だが同時に、富田の気遣いがありがたかった。
「…うん」
富田は頷いた。
「若、飲み込みは早いですから。すぐできますよ」
そう言って、ぽん、と軽く頭を叩く。
その手つきは、どこか兄のようだった。
稽古が始まる。
竹刀の音が、曇天の下へ響いた。
今日は湿気が酷い。
床が滑る。
窓の外では、風が時折強く吹き抜けていた。
雨の匂いが近い。
遼太郎は面を付けていた。
視界が狭い。
息が熱い。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「若、左足引きずらない」
「はいっ」
「気合い声に逃げない」
「はいっ」
富田が笑う。
「神谷なら今のでお説教ですねぇ」
「いないのに怖い」
思わず本音が漏れた。
富田は少しだけ目を細めた。
昼過ぎ。
通常の稽古が終わった後も、遼太郎と富田は残っていた。
母も付き合っている。
「そうそう、その結び方」
「ちがう、そこで輪っか逆」
「うわぁ」
遼太郎の指がもつれる。
富田は横で笑いながら、何度もやり直させた。
「若、剣道って結局こういう地味なことの積み重ねなんですよ」
「地味ぃ……」
「皆そこ嫌がるんです」
母が竹刀を肩へ担ぎながら言う。
「防具の手入れ嫌がる人は伸びないからね」
「耳が痛いですねぇ」
富田が苦笑した。
ようやく、形になってきた頃だった。
ぽつ。
道場の板戸へ、小さな水音。
続けて、ぽつ、ぽつ、と数が増える。
「あ」
母が外を見る。
漆黒の雲が空を覆っていた。
次の瞬間。
「あっ、洗濯物!!」
叫んだ。
母は本気で焦っていた。
「干しっぱなしや!!早く帰らな!」
竹刀を置き、慌てて掃除道具を取りに行こうとする。
「先生」
富田が声をかけた。
「片付け、僕と若でやります」
「え?」
拍子抜けしたような顔になる。
「若と荷物は僕が送り届けますので」
母は一瞬迷う。
外では雨脚が強くなり始めていた。
「…ほんま!?」
「はい」
富田は笑う。
「服、乾かなくなりますよ」
「うわ最悪や!」
完全に母親の顔だった。
遼太郎は笑いそうになる。
「ありがとう! ごめんね!」
母はそう言い残し、道場を弾丸の如く飛び出していった。
外で足音が遠ざかる。
残ったのは、雨音と二人だけだった。
板戸を打つ雨音が、次第に強くなる。
空は薄暗く、道場の木の匂いが湿気で濃くなっていた。
富田は雑巾を絞っている。
遼太郎は竹刀を片付けながら、ぽつりと呟いた。
「神谷姉ちゃん大丈夫なんかな」
富田の手が止まる。
沈黙。
雨だけが鳴る。
やがて富田は、小さく息を吐いた。
「あの人も、しんどさ抱えてる人ですから」
「しんどさ?」
「家がね」
ぽろり、と零れた。
富田自身、言ってから気づいた顔をする。
「お父さん、外国の人らしいんですけど」
雑巾を畳む。
「働いたり働かなかったりで。酒癖も悪いらしくて」
声は静かだった。
「機嫌悪いと家族に手が出るそうです」
遼太郎は黙る。
頭の中で、いくつかの線が繋がった。
母への異様な執着。
自分への敵意。
あの失言。
ああ。
――妬みか。
遼太郎はなんとなく理解した。
理解した瞬間、別の言葉が引っかかった。
「あの人“も”?」
富田が顔を上げる。
「富田兄ちゃんも、しんどいの?」
空気が止まる。
雨音だけが大きくなる。
富田は、しばらく何も言わなかった。
やがて観念したように笑う。
「…参りましたねぇ」
そのまま道場の縁へ腰を下ろした。
コンビニ前へ座る時のような、力の抜けた姿勢だった。
「僕、お母さんいないんですよ」
遼太郎は黙って聞く。
「僕を産んだ時に亡くなったそうで」
富田は笑った。
だが、その笑みは薄かった。
「しかも愛人だったらしくてね」
雨が強くなる。
板戸の隙間から風が吹き込んだ。
「可愛げのある子供なら、まだ良かったのでしょうけど」
富田は自分の目元を指差した。
「これですから」
細い目。
きつね顔。
「何考えてるかわからないって、昔からよく言われます」
苦笑する。
「まぁ実際、誤魔化す癖ありますし」
そこから、少しずつ話が溢れ始めた。
東京の家。
冷たい廊下。
異母兄。
使用人の哀れみ。
大阪へ追い出されたこと。
狭いワンルーム。
冷蔵庫の音。
コンビニ前。
手紙。
『家名に泥を塗るな』
淡々とした声だった。
「前に先生に進路聞かれた時は痛かったなぁ」
富田が苦笑する。
「先生の小手より痛かったかもしれません」
視線が雨へ向く。
「十八にもなって、どこ行けばいいのかすら分かってないんですから」
沈黙。
雨音。
遠くで雷が鳴った。
ふと、富田が我に返る。
「あー…」
頭を掻いた。
「何やってるんでしょうね僕」
苦笑。
「五歳児相手に人生相談とか、何してるんだろう」
立ち上がろうとする。
「すいません、若。今の話は忘れてください」
その時。
「富田兄ちゃん」
遼太郎が呼び止めた。
富田が振り向く。
「また話聞かせてよ」
思わず、素が混じる。
「相手おらんのやったら、俺がなるよ」
富田の目が少し見開く。
「行き先が不安なん、解るよ」
遼太郎は静かに言った。
「自分で決めてない道なんて、歩きたくないよな」
富田が息を止める。
その言葉は、まるで自分の奥を直接掴まれたようだった。
「進む道が決められへんのやったら」
遼太郎は続ける。
「まだ決めんでもええんちゃう?富田兄ちゃん、自分で選びたいんやろ?ほんなら、ゆっくり決めたらええやん」
沈黙。そして。
「富田兄ちゃんの人生は富田兄ちゃんのもんやろ?誰にも文句言わせたらあかん。俺は応援するよ」
雨音だけが響く。
「…若」
富田はゆっくり屈み込んだ。
遼太郎と目線を合わせる。
そして、その小さな両手を握った。
富田の細い目に、はっきり涙が浮かんでいた。
雨音に紛れて、板戸の外で誰かの呼吸が乱れた。
二人は、それに気づかなかった。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。
よろしくお願いいたします。




